心配してくださる神

ペテロ第一5:7

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あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

 きょうは「思い煩いにどう対処したらいいでしょうか」という質問を受けましたので、それにお答えして、お話しします。

 一、自分を責めない

 まず、第一に、「思い煩う」とき、そのことで自分を責めないことです。

 マタイ6章でイエスはこう言われました。「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。」(マタイ6:25-26)確かにイエスは、ここで、「思い煩うな」と教えておられます。しかし、それは、食べ物や着る物に事欠いていた貧しい人々に語られたもので、イエスは人々が、食べ物や着物のことで心配するのを責めておられるのではありません。「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。あなたがたの天の父がこれを養っていてくださる。だからあなたがたにも必要なものを与えてくださる」と言って、人々を励ましておられるのです。

 ルカの福音書では、この「空の鳥、野の花」のお話しは、「愚かな金持ち」の譬えの後で語られています。その「愚かな金持ち」はこう言いました。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」(ルカ12:18-19)この金持ちは「思い煩い」や「心配」から無縁でした。では、イエスはこの人を褒めたでしょうか。いいえ、この人は神の裁きを受けたと言っています。神を信じないで、自分の財産に頼って安心しきっていたことが責められているのです。そんなふうに何の心配もないことよりも、身のまわりで起こるさまざまなことを心配してはいても、その心配を取り除いていただくために神に頼ることのほうがよほど良いとイエスは言っておられると思います。

 神は私たちが思い煩い、心配するのを決してお叱りになりません。ですから、思い煩うとき、心配するときは、そのままの気持ちを神に申し上げるといいのです。詩篇94:19に、「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように」、また、詩篇139:23には「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」との祈りがあります。そのように自分の「思い煩い」や「心配ごと」を正直に神に話すなら、神は「思い煩い」に代えて、平安を与えてくださいます。ピリピ4:6-7にこうあります。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」この御言葉の通り、自分の心配ごとや願いを正直に神に祈るとき、今まであんなに心配でならなかったことが、もう心の重荷ではなくなって、自分で思いもしなかったような平安で心が満たされる、多くの人がそのような体験をしています。「思い煩ってはいけない」と言われると、「私は今、思い煩っていないだろうか」と言って、余計に思い煩う人もあります。思い煩いが心に満ちるとき、自分でそれをなんとかしょうとするのでなく、思い煩いをそのまま神に告げましょう。聖書の約束の通り、神の平安があなたの心を守ってくれます。

 二、他者を思いやる

 もし、心配するなら、良い意味での「心配」に心を向けるといいでしょう。他の人のことを心配することです。パウロは、ピリピの教会に「何も思い煩わないで、…」と書き送りましたが、そのすぐあとで、「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます」(ピリピ4:10)と書いています。「心配」という言葉は「心を配る」と書きます。人が互いに相手のことを心配しあう、それは必要なことであり、また、美しいことです。

 私がサンディエゴに赴任して、最初に住んだ家のお隣りの方は、元警察官でした。あるとき、家内が鍵を持たずに外に出て、ロックアウトの状態になりました。私はそのとき教会にいたのですが、電話を受けて家に戻ると、家のドアが開いていました。隣の人が、台所で使う小さな道具でドアを開けてくれたというのです。さすがに元警察官で、そういう技術を持っていたのです。この鍵の話は、本題とは関係がないのですが、その隣の人のところに、娘さんが来ていて、しばらく滞在していました。娘さんが帰るとき、隣のご夫妻は、車に乗ろうとする娘さんを引き留めて、「気をつけてね。着いたら電話してね」などと言って、とても心配そうに、長く話していました。「アメリカ人の親子関係はさっぱりしていて、『バイバイ』と言って別れるだけだ。手を閉じたり、開いたりするのは、『早く行ってしまいなさい』と、人をせきたてる仕草なのだ」とは、よく言われますが、決してそうではないことを、私は何度も見聞きしてきました。どこの国でも同じで、親は子どものことで、さまざまに心配し、子どもが年老いた親のことを心配します。

 キリスト者の間では、牧師が信徒のことを心配し、信徒が牧師のことを心配してきました。ヘブル13:17には、教会の指導者が、教会員の「たましいのために見張りをしている」と書かれていますが、「見張る」という言葉は別の訳で「配慮する」と訳されているように、「心配する」ことを意味しています。パウロは、自分が教え、導いてきた人たちのために、いつも祈り、また心を配っていました。パウロはコリント教会に宛てた手紙の中で、彼の使徒としての苦労を数えあげていますが、その中で「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか」(コリント第二11:28-29)と言っています。ピリピの教会に対しても、「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです」(ピリピ2:20)と言って、テモテを褒めています。何があっても大丈夫という頑丈な人よりも、テモテのように、少し弱いところがあっても、他の人を思いやることができる心を持った人のほうが、主の働きにふさわしいとパウロは考えていました。私たちもパウロやテモテのようでありたいと思います。

 三、神の思いやりに委ねる

 しかし、たとえ他の人のことであっても、あまりに心配しすぎて、神が見えなくなったり、御言葉を聞くことができなくなってしまったら、それは正しいことではありません。

 ベタニヤのマルタは、イエスと弟子たちをもてなすために忙しくし、妹のマリヤに手伝わせようとしましたが、なんということか、マリヤは男の弟子たちに混じってイエスのひざもとに座り、教えを聞いていたのです。そのときマルタは、マリヤにではなく、イエスに不満をぶっつけました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(ルカ10:40)すると、イエスはこう言われました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41-42)

 イエスは、もちろん、マルタひとりにそれをさせようとしたわけでもありませんでした。しかし、マリヤにはしばらくの間、イエスの教えを聞く必要があったのです。ほんとうはマルタにもそれが必要でした。イエスは、マルタやマリヤのもてなしを受ける前に、自分たちを迎えてくれた二人に「御言葉のもてなし」をなさりたかったと思われます。しかし、このときのマルタは、イエスの言葉のように、「心配し」、「気を使い」、御言葉に耳を傾ける余裕を失くしていたのです。

 ここで「心配する」には μεριμνάω(メリナオー)という言葉が使われています。これは「不安になる」と訳すことができ、もともとの意味は、「心が分かれる」ことです。「気を使う」とあるところには θορυβέω(セオルべオー)という言葉が使われ、これには「混乱する」という意味があります。イエスはマルタに「あなたは不安になり、混乱している」と言われたのです。「心配」が昂じると「不安」になります。「不安」が深まると「恐れ」になります。そして、「恐れ」から「パニック」が生じます。「イエスをもてなす」という、良い動機で働きはじめたのに、「あれもしなければ、これもしなければ」という思いに押しつぶされ、一時的ですが、マルタは、パニックに陥ってしまったのです。目の前にイエスを見ながらイエスのお心から離れてしまったのです。けれども、イエスに優しく諭されたあとは、きっと気持ちを取り戻し、マリヤと一緒に、イエスと弟子たちの世話に励んだだろうと思います。マリヤもマルタも、イエスの自分たちへの思いやりを知って、それに慰められ、励まされたに違いありません。

 神は、心配が不安になり、思い煩いとなり、最後にはパニックになることを決して望んではおられません。聖書は私たちに「思い煩うな」、「心配するな」、「恐れるな」と教えていますが、そこには、すべて、「神があなたを支える」、「あなたを導く」、「あなたと共にいる」との約束が伴っています。きょうの箇所、ペテロ第一5:7にこうあります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」私たちが思い煩わなくてよいのは、神が心配してくださるからです。ここで「心配する」と訳されている言葉は μέλω(メロー)で「心にかける」という意味があります。じつは、マルタが「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか」と言ったとき、この μέλω(メロー)という言葉を使っています。マルタは、イエスに「私のことを心にかけておられないのですか」と言いましたが、イエスはマルタのことを心にかけておられなかったのでしょうか。もちろん、イエスはマルタのことも、マリヤのことも等しく心にかけておられました。イエスが「マルタ、マルタ」と彼女の名を二度も呼びました。それは、感情的になっていたマルタを落ち着かせるためだったでしょうが、同時に、イエスがどんなにマルタのことを心にかけておられたかをも、言い表していると思います。

 男の弟子たちも、マルタが使ったのと同じ言葉、「何とも思われないのですか」と言ったことがあります。舟がガリラヤ湖で嵐に遭って沈みそうになりました。弟子たちが慌てふためいているのに、イエスは眠っておられたのです。弟子たちは、「先生。私たちがおぼれ死にそうでも、何とも思われないのですか」(マルコ4:38)と叫びました。もちろん、イエスが「何とも思われない」、「心にかけておられない」、「心配しておられない」わけがありません。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と命じ、嵐を鎮めました。イエスは絶えず弟子たちを心にかけておられ、湖の嵐を鎮めるとともに、弟子たちの心の嵐、恐れをも静め、心配や思い煩いを取り除いてくださったのです。

 私たちの神は、私たち一人ひとりを心にかけ、心配してくださり、必要を備えてくださる神です。私たちの主は、恐れの嵐を平安に変えてくださるお方です。この神に、この主に、思い煩いを委ねましょう。聖書に「いっさい」とあるように、どんなことでも、すべてを申し上げて、委ねるのです。神が、私たちのことを心配してくださるからです。

 (祈り)

 父なる神様、あなたは肉親の父、母にまさって、あなたの子どもたちを愛し、守り、養ってくださいます。私たちを、常に心にかけ、心配してくださいます。私たちが、日々に、あなたのお心をイエスから学び、聖霊に助けられ、あなたに信頼して歩むことができるよう、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

8/21/2022