この恵みのうちに

ペテロ第一5:12-14

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5:12 わたしは、忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって、この短い手紙をあなたがたにおくり、勧めをし、また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。この恵みのうちに、かたく立っていなさい。
5:13 あなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会、ならびに、わたしの子マルコから、あなたがたによろしく。
5:14 愛の接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがた一同に、平安があるように。

 一、出発点としての新生

 ここしばらく「ペテロの第一の手紙」から学んできましたが、きょうは最後の部分となりました。ここに書かれているどの言葉にも大切な意味があるのですが、きょうは、「この恵みのうちに、かたく立っていなさい」という言葉から、学んでみたいと思います。

 「この恵み」とありますが、それは、神の救いの恵みのことです。神の救いの恵みは豊かで、そこには「悔い改め」の恵み、「赦し」の恵み、「きよめ」の恵み、「いやし」の恵み、「守り」の恵み、「平安」の恵み、また、「天を受け継ぐ」恵みなど、数えればいくつもの恵みがあります。きょうは、その中から「新生」の恵みについて、お話ししたいと思います。人の一生が誕生からはじまるように、わたしたちの救いも「新生」――新しく生まれること――からはじまるからです。わたしたちは、「新生」を大切にしてきました。わたしたちが使っている讃美歌には「新生讃美歌」というタイトルがついていますが、それは、この讃美歌が「賛美は新生した者によって、その証しとして捧げられるもの」という理念によってつくられたからです。わたしたちが「新生」にこだわるのは、こんにち、「新生」から出発しないものまでもが、信仰のようにして受けいれられるようになってきているからです。

 かつては、神との生きた関係である信仰が、たんに、宗教の信徒になることや、教会の会員になることと取り替えられてきました。現代は、神を知り、神を礼拝し、神のみころに従って生きることが、教会の活動に加わること、慈善をすることにおきかえられているように思います。しかし、「新生」からはじまるのでなければ、人は天の国にいたることができないのです。「新生」から始まったものも、そうでないものも、最初は、あまり違わないように見えるかもしれません。「新生」を体験していない人のほうが、熱心に活動したり、幸福そうに見えたりすることもあるでしょう。しかし、「新生」した者とそうでない者との違いはやがて見えて来るようになります。人生の終わり、神の前に立つときには、完全に明らかになるのです。

 クリスチャンのゴールは天ですが、「新生」はそのスタートラインです。ですから、自分は「新生」を出発点としただろうか、今、そこに立っているだろうかと、真剣に考えてみる必要があります。正しいスタートラインに立たなければ、ゴールに着くことができないからです。ペテロは「この恵みのうちに立ちなさい」と書きましたが、ここで使われている「立つ」という言葉には「立つ、止まる、じっとしている」と言う意味があり、そこから「確認する、確立する、堅く立つ、自分の場所を守る」などという意味が生まれました。信仰者にとって、神の恵みのうちに「歩み」、「生きる」ことが大切なのは言うまでもないことですが、正しく歩み、力強く生きるためには、まず恵みに堅く立つことが必要です。それでペテロは、その手紙を締めくくるにあたって、信仰者の原点である「新生」の恵みにしっかり立ち、そこから信仰の歩みをするようにと、勧めたのです。

 二、神のわざとしての新生

 「新生」については、主イエスご自身が、こう語っておられます。「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)「よくよくあなたに言っておく」というのは、もとの言葉では「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」となっています。「アーメン」という言葉には「真実」という意味があります。それはたんに「ほんとうのこと」というだけではありません。真実である神が、まごろろを込めて、わたしたちの人生にとって重大な真理を告げようとしておられることを表わす言葉です。ですから、こうした言葉を聞き逃したり、聞き流したりせず、しっかりと耳を傾けたいと思います。

 多くの人が「生まれ変わったつもりで人生をやり直したい」、「自分を自分の理想の姿に変えたい」と願い、努力します。しかし、実際は、そんなふうにはいきません。すぐに決心がくずれて、もとの黙阿弥になったり、自分が嫌だと思っている性質や性格が何度でも頭をもたげ、神に喜ばれない思いが湧き起こってくるのです。「新生」という言葉があっても、そんなことが本当に起こるのだろうかと、思ってしまうのです。

 それで主イエスは、もういちど、「アーメン、アーメン、よくよくあなたに言っておく」とおっしゃって、「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」(ヨハネ3:5)と言われました。「水と霊とから生まれる」というのは、創世記1:1-2を思い起こささせます。そこには「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあります。地球は、わたしたちが知るかぎり唯一の水の豊かな星で、水が命を育んでいます。科学者たちが、地球以外の惑星に生命を探すとき、その惑星に水があるかどうかを手がかりにしているのは、水が生命に不可欠なものと考えているからです。聖書もまた、水と生命とを結びつけています。しかし、聖書は、科学が言う以上のこと、「神の霊」の働きを教えています。「神の霊が水のおもてをおおっていた」の「おおう」という言葉は、親鳥が卵をあたためたり、ひな鳥をその羽でおおい守るしぐさを表わす言葉です。これは、「神の霊」、新約聖書では「聖霊」と呼ばれるお方が、水を媒体として地球上に生命を生み出されたことを語っています。聖霊が科学で観察できる世界とその現象を生み出された、それが創造なのです。

 それと同じように、聖霊は人を新しく造り直し、生まれ直させてくださいます。ですから、「新生」は「再創造」と言ってもよいのです。コリント第二5:17に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」とあり、エペソ2:10に「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」とある通りです。

 「新生」はまた「復活」という言葉でも言い表わされています。ペテロ第一1:3-4にこう書かれています。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。」罪の中に死んでいた者が、再び生命を与えられ、復活して、新しい人生を生きる。これはじつに驚くべきことです。人間の力でそんなことができるわけがありません。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた全能の神だけができることです。そして、神は、イエス・キリストを信じる者を、イエス・キリストとともによみがえらせてくださったのです。これが「新生」の恵みです。

 そして、この「新生」によって、人は「神の子ども」となるのです。神から「わが子よ」と呼ばれるほどに神に愛され、神を「父よ」と呼ぶほどに神を愛する者とされるのです。そればかりではありません。子どもが親の財産を相続するように、神は、神の子どもたちを「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者」としてくださったのです。「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」、それはいったいどんなものなのでしょうか。わたしたちの想像をこえたものであることだけは確かです。ファニー・クロスビーは、その賛美“Blessed Assurance”(新生讃美歌544)でこう歌いました。

Blessed assurance; Jesus is mine!
祝された確信、イエスはわがもの
Oh, what a foretaste of glory divine!
ああ、なんという天の栄光の前味
Heir of salvation, purchase of God,
わたしは救いの相続者、神に贖われ
born of his Spirit, washed in his blood.
聖霊によって生まれ、主の血で洗われた
まさに神の子どもたちは“heir of salvation”「救いの相続者」なのです。やがて、天のものを受け継ぐだけでなく、地上でも、その「前味」(foretaste)を味わうことを許されているのです。「新生」、「再創造」、「復活」といったことだけでも、人の考えを越えた大きなことなのですが、「新生」の恵みは、それだけにとどまらず、人に神の愛を注ぎ続け、永遠をも約束する「恵み」なのです。

 創造の結果や生命の現象は科学によって解明されます。しかし、「新生」は科学で判定できるものではありません。「新生」に伴っておこる「回心」は、心理学的にある程度の説明ができるかもしれませんが、心理学で、すべてが解明できるものではありません。聖書では「風」と「霊」を同じ言葉で表わしますので、主イエスは、聖霊の働きを風にたとえ、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:8)と言われました。「新生」は聖霊の働きであり、神のなさることであって、神秘です。

 三、新生と信仰

 しかし、一方で、聖書はこう言っています。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1:12)「彼」とはイエス・キリストのことです。神の御子イエス・キリストを信じる者を、神は新しく生まれ変わらせ、神の子どもとされると、はっきり書かれています。ペテロ第一1:8-9に「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである」とあるように、救いは、イエス・キリストを信じる信仰の「結果」として与えられるものです。さらにペテロ第一1:23はこう言っています。「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によったのである。」「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」(ローマ10:17)とあるように、神の言葉に聞き、御言葉を信じることが人を「新生」に導くのです。

 わたしたちは、この世に生まれてくるとき、このような両親から生まれたいとか、この時代の、この国に生まれたいなどという願いや意志などを、全く持つことができませんでした。「生まれる」というのは“I was born”と言うように、まったくの受け身でした。しかし、天の国に生まれるときには、わたしたちの願いや意志が働くのです。神は、わたしたちが神の言葉を聞いて信じ、バプテスマを受けるというステップを通して、わたしたちに「新生」を与えてくださるのです。そのステップの中に聖霊が働いてくだるのです。まだ、バプテスマを受けていない方は、バプテスマへの道を歩むことによって「新生」を求めていただきたいと思います。

 また、すでにバプテスマを受けている者は、バプテスマが新生のしるしであることを覚えたいと思います。神がわたしをどのような者として生んでくださったのか、どのような者となるために育ててくださっているのかを、ふりかえってみましょう。バプテスマによって与えられた「証し人」としての使命や、祭司としての務めを振り返りましょう。自分が受けたバプテスマの意味を確かなものとすることから、神が求めておられる霊とまことによる礼拝、また人々と救いの恵みを分かち合う伝道のわざが生まれてくるのです。

 「新生」は大切な聖書の教理です。しかし、それをたんなる「教え」にしてはなりません。「新生」は、イエス・キリストを信じる者たちの「体験」でなければなりません。ペテロは、12節でこう言いました。「わたしは、…勧めをし、また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。」ペテロは、この手紙で、神の恵みを「説き」、「教え」、「勧めた」だけでなく、「あかしした」と言っています。神の恵みは、たんに、それが説かれるだけでは意味がないのです。信仰によって体験されてこそ意味があるのです。神の恵みにとどまり、それが証しされていくように、そうして、さらに多くの人々が、この恵みによって生かされるようにと、願い、祈り求めていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはイエス・キリストを信じる者を聖霊によって、新しく生み、神の子どもとしてくださいました。この恵みのうちに、あなたの愛があふれています。ここにわたしたちが生きる力があります。あなたの子どもとされていることの特権と、義務と、責任、そして大きな恵みを、さらにわたしたちに教え、この恵みを証しするものとしてください。御子イエスのお名前で祈ります。

10/8/2017