恵みの管理人

ペテロ第一4:7-11

4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

 教会の新しい年度が始まりました。今年の標語に「主のわざに励みなさい」とあるように、新しい年度も、それぞれ与えられた奉仕に励みましょう。そのために、今朝は、奉仕の原動力である「賜物」について、いくつかのことを確認しておきましょう。

 一、賜物の所有

 その第一は、「すべてのクリスチャンには賜物が与えられている」ということです。賜物というと、奇跡やいやしを行ったり、異言や預言を語ったりする、特別な力のことだと考えられがちですが、決してそうではありません。聖書は「みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。」(コリント第一 12:29-30)と言って、こうした賜物は、初代教会でもまれなものであったと言っています。聖書には、ごく普通に見られる「分け与えること」や「慈善を行うこと」なども賜物であると書かれています(ローマ12章)。

 ノース・アメリカン・バプテスト神学校のリチャード・フーツという人は、賜物を発見するための128の質問を作りました。ということは、少なくても128の賜物があるということですね。フーツは、賜物を「管理、運営の賜物」「リーダシップ」「慈善」「ホスピタリティ」「補助」など、16種類に分けています。教会の片付けをしたり、掃除をしたりすること、また、人を歓迎すること、もてなすことも、その「賜物」のリストの中に入っています。今朝の聖書では、賜物を大きく二種類、「語ること」と「奉仕すること」に分けています。初代のエルサレム教会で、使徒たちがみことばのご用に専念し、やもめへの食糧の配給などは、選ばれた七人の人々があたりましたが、「語ること」と「奉仕すること」というのは、そういう区分を指すと思われます。「奉仕」は、教会の中のこまごまとしたことを行う補助的な働きですが、それは「みことばを語ること」と同じく大切な賜物です。11節では、賜物が「神が豊かに備えてくださる力」と定義されていますが、それは、みことばを語る人だけでなく、それを助ける奉仕をする人にも必要なのです。賜物は、私たちの思う以上に多くあり、私たちには誰にでも、必ず何かの賜物が与えられています。聖書は、「それぞれが賜物を受けている」(10節)と、はっきりと書いています。もし私たちが「私には賜物は何もありません。」と言うなら、それは、聖書のことばを否定することになり、賜物の与え主である神を辱めることにならないでしょうか。

 二、賜物の管理

 聖書が賜物について教えている第二のことは、「私たちには賜物を管理する責任がある」ということです。10節に「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」とあるように、私たちは賜物の管理人なのです。「管理する」という言葉は、賜物が、私たちに与えられたものではあっても、本来は神のものであるということを意味しています。賜物が自分のものだけなら、それをどうしょうと勝手なのかもしれませんが、それが神のものであるなら、私たちは、それを私たちに任せてくださった神に対して忠実に管理する責任があるのです。

 では、賜物を管理するとは、どうすることでしょうか。まずは、自分に与えられた賜物が何であるかを知ることです。では、どうやって賜物を発見するのでしょうか。いくつかの方法がありますが、一番良い方法は、その賜物を必要とする奉仕をしてみることです。その奉仕が、はじめは慣れないためにうまくいかず、大変だと思うかもしれませんが、続けているうちに、奉仕の喜びを感じ、それが実を結ぶようになれば、あなたに、その賜物があるということが分かります。もうひとつの良い方法は、誰か他の人、とりわけ、神のみこころを良く知り、あなたを良く知っている人から教えてもらうことです。私たちは、多くの場合、自分で自分の賜物に気付かないでいることが多く、貴重な賜物を発見できないでいることがあります。しかし、自分では気付かなくても、他の人には分かる場合が多いものです。また、自分では、こういう賜物があると思っていても、他の人の目から見てそうでない場合もあります。教会の信仰の先輩からのアドバイスを受けるのは、賜物を発見する良い助けになります。

 賜物を管理するというのは、また、与えられた賜物を成長させるということですね。イエスが語られたタラントの譬えでは、与えられたタラントを増やしたしもべは誉められていますが、与えられたものを隠してしまって、増やそうとしなかったしもべは罰されています。私たちは、それぞれ、神から賜物を預かっています。預かっている賜物の種類は違います。ですから、みんなが同じことをしなければならないわけではありません。賜物に、もし「多い、少ない」という分量があるとして、それがどんなに大きな賜物であれ、小さいと見える賜物であれ、大切なことは、与えられたものを発展させ、成長させるということです。初代のエルサレム教会でやもめの食糧の配給のため選ばれた七人は、立派にその仕事を果たしましたが、それだけで終わらず、その賜物を発展させました。七人の中のひとり、ステパノは最初の殉教者になった人ですが、クリスチャンの信仰に敵対するユダヤ人の前で堂々とした説教をしています。また、ピリポは、サマリヤに行って伝道し、その後は、エチオピアの女王の高官をキリストに導く伝道者となりました。これらの人々は、最初に与えられた賜物に忠実であり、それを十分に用いたため、次の新しい賜物を与えられ、別の奉仕も出来るようになったのです。

 コリント第一、12:31に「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と言われているのは、このようなことだと思います。しかし、「すぐれた賜物を求める」という場合、別の賜物を求めるということだけでなく、与えられている賜物をさらに豊かなものに成長させていくということも大切です。コリント第一、12:31で「熱心に求める」と訳されていることばは、文字どおりには「欲しがる」「切望する」「貪欲になる」と訳すことができます。賜物を神に豊かに用いていただきたいという熱意、貪欲なまでの求めを持ちたいものです。賜物の管理人になによりも必要なものは、そのような願いなのです。

 三、賜物の目的

 賜物について心に留めておくべき、第三のことは、「賜物は神と人とに仕えるためにある」ということです。10節に「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」と教えられ、11節には、「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。」と言われています。賜物は、決して、私たちがそれによって自分を誇るためのものではありません。

 特別な能力を持っている人、人よりも優れた力を持っている人は、人々の注目を集めます。それは悪いことではありません。人に見られるのが嫌だから、賜物を使わないというのは聖書的ではありません。しかし、その賜物によって人々を自分に引きつけたり、自分が誉められようとするなら、それは、神のみこころにかなったことではありません。真実なクリスチャンなら、意図的に自分を誇ろうとする人はいないと思います。しかし、動機は良くても、自分ではそのつもりでなくても、人々に仕えるため与えられた賜物で人々を支配してしまう、神をあがめるための賜物で自分を誇ってしまうこともあるのです。神に用いられれば用いられるほど、神の前にへりくだって奉仕を続けていかなければなりません。

 新約聖書が書かれたギリシャ語では、「恵み」と「賜物」は同じ語源から出たことばです。ギリシャ語で「恵み」というのは「カリス」と言い、これは女性名詞で、抽象的なものを表わしています。「賜物」は「カリスマ」と言い、これは中性名詞で、形ある具体的なものを表わしています。つまり、神の恵み(カリス)が具体的に形をあらわしたものが賜物(カリスマ)なのです。「カリスマ」は英語や日本語になっていて、大衆を信服させるような権威のことを指しますが、一般に「カリスマ的な人」というと、特別な能力があるのですが、なんとなく、警戒したほうがよい人を指すのに使われ、あまり良い意味では使われていないようです。しかし、「カリスマ」という言葉は、本来は、「恵みの賜物」という意味の、美しいことばなのです。「カリスマ」という言葉があまり良い意味で使われなくなったのは、神からの賜物を誤って用いた人が多くいたからかもしれません。しかし、賜物が正しく用いられなかったからといって、賜物を警戒し、賜物を求めることからしり込みすべきではありません。私たちが御霊の実である、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を養っているなら、聖霊の賜物も正しく用いることができます。賜物の目的を忘れないようにしているなら、それを正しく用いることができます。賜物を大胆に求め、それを隠さず、眠らせず、もっと大きく用いようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、教会の新年度のはじめに、奉仕のための力、賜物について学ぶことが出来、感謝いたします。あなたは、私たちひとりひとりに残らず賜物を与えてくださっています。あなたの恵みの良い管理人になり、あなたから与えられた賜物を発見し、もっと豊かな賜物を追い求めることができますように。新しい年度も、「神が豊かに備えてくださる力」によってあなたに奉仕をささげることができますように。それによって、ひとりびとりの奉仕が喜びに満ちたもの、実を結ぶものとなり、そして、それによってあなたをあがめるものとなりますように。イエス・キリストの御名で祈ります。

6/2/2002