キリストの名のために

ペテロ第一4:14-16

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4:14 キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。
4:15 あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。
4:16 しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。

 一、キリストの名

 “Love INC” という団体があります。クリスチャンが、それぞれのタラントを生かして、キリストの愛を実践することを目的としている団体です。部屋の掃除、子どの宿題の手伝い、電球の取り換えなど、小さなことでも、大きな助けになる人たちが大勢います。そんな人たちのためにボランティアが働いています。この団体の名前、“Love INC” の “INC” は “Incorporated” の略ではなく、 “In the Name of Christ” の略です。たんなるボランティア活動でなく、キリストの名をあがめることを目指しています。

 「イエスの名」、「キリストの名」、あるいは「主の名」ほど、わたしたちにとって大切なものはありません。この名によってはじめて人は、神の子どもとされ、永遠の命を得ることができるからです。聖書にこう書かれています。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1:12)「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:31)

 使徒たちは、このイエス・キリストの名を伝えました。ペテロはペンテコステの日に「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒2:38)と説教しています。人が救われるのは「イエス・キリストの名によって」だと、語っているのです。

 また、使徒たちは、キリストの名によって奇蹟を行いました。ペテロが、ヨハネといっしょに、祈りのために神殿に向かったときのことです。生まれつき足のきかない人が、ふたりに施しを求めてきました。ペテロは「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒3:6)と言って、その人を立たせました。その足はたちまち強くなって、その人は歩けきまわり、踊り出しさえしたのです。これを見た人たちが大勢ペテロのところにやってきました。それで、ペテロはこう言いました。「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。…イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。」(使徒3:12-16)

 このように、ペテロとヨハネが「イエスの名」を宣べ伝えたので、ふたりはユダヤの議会に召喚されました。しかし、ふたりはユダヤの議会でも、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12)と言って、イエス・キリストの名を証ししました。それで、ユダヤの議会は「イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成ならぬ」(使徒4:18)と言い渡したうえでふたりを釈放しました。ふたりが教会戻って、そのことを伝えると、一同は、「僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」と祈りました。教会は「イエスの名によって語るな」と圧迫を加えられれば、加えられるほど、いっそう「イエスの名によって語らせてください」と祈りました。

 イエスの名によって語ることを禁じられていたのに、使徒たちは、その名を語り伝えました。それで、留置所に入れられたり、鞭打たれたりしました。でも、苦しい目に遇ってもひるみませんでした。使徒たちは「御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜んだ」(使徒5:41)のです。きょうの箇所、ペテロ第一4:14に「キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである」とあります。これは、イエスが「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである」(マタイ5:11)と言われたことを繰り返している言葉です。しかし、それは単なる繰り返しではなく、キリストのために苦しみ、キリストとともに苦しむ「さいわい」をみずから体験した、ペテロの証しの言葉でもあったのです。

 二、クリスチャンという名

 さて、ここには、もうひとつの名が出てきます。それは「クリスチャン」という名です。イエス・キリストを信じる者たちは最初、「信者」(使徒2:44)と呼ばれました。「信者」が「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、アンテオケの町に教会が出来てからでした。アンテオケの町は、トルコの大きな町で、今は「アンタキヤ」と呼ばれています。海岸からはキプロス島が見える、穏やかで平和なところでしたが、最近は、ISIS の拠点が、シリア側のすぐ近くにあって、とても大変な状況になっています。

 それはともかくとして、イエス・キリストを信じる人々が「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、使徒たちばかりでなく、信徒たちもまた「キリストの名」を宣べ伝えたからです。キリストを信じる人々は、どんな時でも、どこででも、「キリスト、キリスト」と言って、語り歩き、キリストを証ししました。それで、町の人たちは、「あいつらは、毎日、キリスト、キリストばかり言っている。あいつらは『キリストの奴ら』だ」と言って、信者を「クリスチャン」と呼びました。「クリスチャン」というのは、軽蔑の意味を込めてつけられた名前でした。しかし、信者たちは、この軽蔑の呼び名を誇りにしました。自分たちが、キリストの名で呼ばれ、「キリストの者」、「キリストに属する者」だと言われることを、むしろ誇りに思ったのです。それは、ペテロが、16節で「しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい」と言っていることからも分かります。信者たちは、アダ名としてつけられた名前でみずから名乗るようになり、やがて、アンテオケだけでなく、どの地域でも信者が「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。信者たちは、みずから「クリスチャン」と名乗ることによって、キリストの名を宣べ伝えたのです。

 しかし、クリスチャンにも、みずからを「クリスチャン」と名乗ることやキリストを証しすることを恥じることがないとは限りません。ペテロは、そうした弱さをよく知っていました。ペテロ自身、かつて、「あなたはイエスといっしょにいたでしょう」と言われたとき、「イエスという人など知らない」と言って、イエスの名を恥じたことがあるからです。それまでのペテロは、みずからを「イエスの一番弟子」だと名乗っていました。「あなたこそ生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)と、真っ先に告白したのはペテロでした。イエスの十字架を前にして、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(マタイ26:33, 35)と啖呵をきったのも、ペテロでした。なのに、彼は恐れの心から「イエスなどいう人は知らない」と言ってしまったのです。

 けれども、ペテロは、それで終わりませんでした。いや、イエスがペテロをそのままでは終わらせませんでした。イエスは、復活ののち、ペテロに赦しを与え、彼がかつて恥じたイエスの名を宣べ伝える使命を与えました。いいえ、使命だけではなく、それを果たす力、聖霊をお与えくださったのです。イエスが信仰者に何かの使命をお与えになるときには、かならず、それをなしとげることができる力もお与えになります。ペテロは、キリストの言葉と聖霊によって、キリストの名を恥じることなく、大胆に語る者へと変えられました。ペテロがクリスチャンに「恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい」と言うことができたのは、彼の体験から出たことだったのです。

 日本でのことですが、教会が祝福され、人数も増えたとき、15名ほどの教会員が住んでいた地域に、伝道所を開設するになりました。そして、各自が自分の近所にトラクトを配ることになりました。そのとき、ひとりの姉妹がやってきて言いました。「先生、伝道所の奉仕は何でもしますが、トラクトを配るのだけは勘弁してください。」わたしが「どうしてですか」と聞くと、「そんなことをしたら、わたしがクリスチャンであることが近所の人たちに分かってしまいます。そんなことは恥ずかしいし、クリスチャンでない主人から何か言われるのもいやですし…」と言うのです。この姉妹は、中年を過ぎてから信仰を持ちましたので、それまでの近所付き合いや、人間関係のしがらみがいろいろとあったのです、しかし、神はこの姉妹を励ましてくださり、彼女もトラクト配布に加わりました。後に、ご主人も病床でイエス・キリストを受け入れたと聞きました。彼女は、すでに天に召されましたが、きっと、主から「あなたはわたしの名を恥じなかった」と、おほめの言葉をいただいたことと思います。

 わたしたちは、イエスを否定することはなくても、いろんな場面で、キリストの名を証しすることをしりごみしてしまうことがあります。そうした場合、「知識がなかったので、どう言ってよいかわからなかった」とか、「タイミングが悪く、切り出せなかった」などという言い訳をしがちですが、そうしているうちは、いつまでたっても、キリストの名を証しすることはできません。もし、知識がない、訓練が足りないと思うなら、本気でそれを求めましょう。教会は、証しの訓練の場です。まずは教会で積極的に証しをしましょう。教会でできなかったら、世の中ではもっとできないと思います。大切なのは、キリストのお名前を愛し、慕う思いです。このすばらしいお名前を伝えたいという情熱です。愛と情熱のあるところに知識は伴うのです。

 最後にピリピ1:20の御言葉を読んで終わります。「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちを救う名は、天下にただひとつ、イエス・キリストのお名前の他ありません。わたしたちは、この名を人々に伝えたいと願っています。「クリスチャン」と呼ばれることを誇りとし、それにふさわしく生きていきたいと願っています。わたしたちのこの願いをより一層強めてください。それを実行するための力を、御言葉と聖霊によって与えてください。キリストのお名前で祈ります。

8/13/2017