苦しみにあずかる

ペテロ第一4:12-13

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4:12 愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。

 一、キリストのために苦しむ

 わたしは、学生時代、結核療養所にいる求道者を訪ねる奉仕をしたことがあります。わたしの訪ねた求道中の人は、毎日日記をつけていて、そこには、療養所にいる苦しさ、たまに帰宅しても居場所のないつらさが綿々と綴られていました。そうしたものを読み、また、話しを聞いていると、その苦しみが身にしみて分かるようになりました。ある日、訪問を終えて帰ろうとしたとき、わたしが教会から来たことを知った何人かの患者がわたしを取り囲みました。べつにひどい目にあわされたわけではありませんが、そのとき、「おまえは、まだ学生なのに、信仰を持ったのは、どういうわけだ。よほど、苦しいことでもあったのか」と尋ねられました。多くの人は、信仰とは人を苦しみから救うものと考え、信仰を持ったら苦しい目には遇わないで、毎日楽しく暮すことができると思っています。

 たしかに、神は、苦しむ人を、その苦しみから救ってくださいます。聖書には「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」(詩篇50:15)「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は祈るがよい」(ヤコブ5:13)とあります。また、主の祈りは「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ6:13)と祈るよう教えています。信仰によって、わたしたちは多くの苦しみから救われます。罪の赦しをいただいて、心の苦しみから救われる喜びはいいようもないほど大きいものです。信仰によって正しい生活に導かれることによって、生活の苦しみをまぬかれることもできます。また、病気がいやされ、からだの痛み、苦しみを和らげていただく恵みを受けることもあります。わたしは、こうしたことを自分で体験し、また、多くの生きた証しを見てきました。しかし、このことは、信仰者が、どんな苦しみにも遇わず、毎日ウキウキして暮らすということではありません。

 信仰者は、信仰ゆえの苦しみを体験します。信仰を持つ前は「罪」とは感じなかったことが、信仰を持ってからは、それが「罪」だと分かるようになります。おこなった罪を赦していただきたいという願いだけでなく、自分が持っている罪の性質からもきよめられたいという願いが起こされるようになります。その思いが高まり、それが苦しいほどになることさえあります。

 また、いままで、まわりと同調してやってきたことが間違いだったと気付きます。それを改めようとするときに人間関係の摩擦が起こり、それに苦しむこともあります。ペテロの第一の手紙を受け取った初代の信仰者たちは、現代の信仰者が体験しているような小さな摩擦どころか、もっと大きな迫害を受けました。イエス・キリストを信じているという理由だけで財産を奪われ、町を追い出されるなどの苦しみにあったのです。

 信仰者は罪のゆえの苦しみから救われます。しかし、それと同時に、キリストのために苦しむ苦しみを賜わるのです。もし、わたしたちが、イエス・キリストを信じる信仰を誤解し、それを「ご利益」と考えるなら、「神さまを信じてあげているのに、どうしてわたしにこんな苦しみがあるのか」ということになります。迫害の時代の人々は、「ご利益」を求めて信仰を持ったのではありません。信仰を持ったら、迫害を受けることが目に見えていました。それでも、イエス・キリストが真理であるから、彼こそ信ずべき、まことの神であるから信仰を持ったのです。人は様々な動機から信仰を求めます。いわゆる「ご利益」を求めてということもあれば、目の前の苦しみから逃れたいという場合もあるでしょう。しかし、最終的には、初代の信仰者と同じように、「イエス・キリストはまことの神、主である」という告白に導かれていきたいと思います。

 しかし、確かな信仰を持っている人でも、迫害が厳しさを増してくると、心がくじけ、信仰に疑いが入りこむこともあります。それでペテロは、12節で「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむな」(12節)と教え、動揺することなく、イエス・キリストを信じ続けるよう、苦しみに遇っている信仰者を励ましたのです。

 二、キリストとともに苦しむ

 次の13節では「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい」と教えています。キリストのために苦しむことは、キリストとともに苦しむことだというのです。

 みなさんの多くは、信仰を持ち、神のお心を知り、その視点で社会を見るようになってから、以前よりも、社会の問題に心を痛めるようになったことと思います。わたしたちでさえそうなら、イエス・キリストは、今の社会をごらんになって、もっと心を痛めておられるに違いありません。主イエスは、エルサレムの人々が神の招きを無視し、それに逆らっているのをご覧になって言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」(マタイ23:27)これは裁きだけの言葉ではありません。神の民と呼ばれたイスラエルの人々、神の都とよばれたエルサレムの町を愛し、それを惜しんでの言葉です。おそらく、こう仰った主の目には涙があったことでしょう。今日の世界は、イエスが「ああ、エルサレム」と嘆かれた時よりも、もっと悪くなっていると思います。主イエスが、今の世界をご覧になって、嘆かれないはずがないのです。主は信仰者に、ご自分のために苦しむだけでなく、ご自分とともに苦しむことを求めておられます。

 わたしは、小さな女の子が突然意識不明になり、病院からホスピスに移り、やがて天に召されていく間、何度かお見舞いに行ったことがあります。母親がいつもつきっきりでした。その母親が「もし代われるのなら、娘の苦しみを代わってやりたい」とわたしに言いました。わたしたちは、愛する者が苦しむとき、その苦しみを共にできるなら、したいと思うものです。また、愛する者に、自分の苦しみを共にしてほしいと願うものです。使徒パウロは、殉教を前に、獄に閉じ込められていたとき、愛弟子テモテに「わたしと苦しみを共にしてほしい」(テモテ第二2:3)と言いました。主イエスもまた、同じ思いで、信仰者に苦しみを共にしてほしいと願っておられるのです。わたしたちは、この主のお心を知って、それにおこたえしたいと思います。

 主イエスが願っておられることは、人々が神の言葉を聞いて、悔い改めて神に立ち返ることです。そのようにして神を信じるようになった者が、困難や誘惑に負けないで、人生の最後まで信仰を持ち続け、神の民としてきよめられていくことです。そして、キリストとその福音を証しし続けていくことです。そのためには、当然、さまざまな苦しみに直面します。しかし、信仰者は、それが義務だから、その苦しみを耐え忍ぶというのではありません。主イエスが、人々の救いのため、信仰者のきよめのため、神の国の前進のために、苦しんでいてくださり、戦っていてくださるから、主の苦しみにあずかりたいと願ってそうするのです。信仰者は「愛する者よ」と呼ばれているように、主に愛され、主を愛する者です。その愛のゆえに、信仰のゆえの苦しみを、神の国のための戦いを主とともにしたいと願うのです。

 キリストのために苦しむことやキリストとともに苦しむことは、何も歯を食いしばって、がまんするということではありません。それは、キリストを愛するゆえにすることなのですから、喜びとなるのです。14節は「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」と教えています。キリストを愛する人は、この喜びを知っています。キリストのために苦しむことは恵みの賜物、キリストとともに苦しむことは特権また、何物にもまさる価値あることなのです。わたしたちのキリストへの愛がさらに豊かなものとなり、キリストとともに苦しむことが喜びとなるよう、祈り、願い、求めていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝、主イエスが、わたしたちを愛しておられるゆえに、わたしたちに、主とともに苦しむことを望んでおられること、また、そのことが主への愛のゆえに、わたしたちの喜びとなることを教えてくださいました。主のために苦しまなければならないときがやってきたとき、それを、主とともに苦しむ苦しみとしてして受けとめさせてください。あなたがくださる喜びでわたしたちを支え、それによってわたしたちを満たしてください。主イエスのお名前で祈ります。

8/6/2017