心の武装

ペテロ第一4:1-6

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4:1 このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。 4:2 それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。 4:3 過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。 4:4 今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。 4:5 彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。 4:6 死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。

 一、新約聖書の言葉

 ローマは軍事的には世界を征服しましたが、ギリシャの文化を塗り替えることはできませんでした。それで、帝国内ではギリシャ語が共通語となりました。しかし、そのギリシャ語は、ホメロースが「イリアス」や「オディッセイア」を書いたような古典文学のギリシャ語、またプラトーンが哲学書を書いたような学問のギリシャ語でもありませんでした。一般の人々が使っていた「コイネー」と呼ばれる共通ギリシャ語でした。

 新約聖書は、この共通ギリシャ語で書かれました。それは、世界のすべての人に、誰もが分かる言葉で、イエス・キリストを伝えたいという思いから出たものでした。イエスはガリラヤのナザレで育ち、最初の弟子たちは外国と国境を接するガリラヤ地方の人々でした。それで、ガリラヤの人々は「ナザレから何のよいものが出ようか」(ヨハネ1:46)などと軽蔑されていました。しかし、弟子たちは普段から外国の人々と接していたため、ギリシャ語を話すことができのです。そして、そのおかげで、イエス・キリストのことを多くの人に伝えることができたのです。イエスがガリラヤで宣教を始め、そこで弟子たちを訓練されたことには、理由があったのです。

 新約聖書で使われているギリシャ語は、商売の取引などで、実際に使われていた言葉でしたから、新約聖書には、当時の人々の生活が生き生きと描かれており、多くの箇所で、信仰の真理が日常の営みを例にとって説明されています。たとえば、ローマ6:23に「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」とあります。これは、罪の結果受けなければならないものを「サラリー」、信仰によって得られるものを「ボーナス」という、わかりやすい言葉で比較したものなのです。また、ローマ6:11には「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」とありますが、この「認める」というギリシャ語は会計用語で、「勘定する」「計算の結果を精査する」という言葉が使われています。会計帳簿のそれぞれの欄に金額を書き込んでいくように、キリストにある者は、自分が「罪に対して死んだ」のですから、霊的な会計簿の負債欄をゼロにし、「キリストにあって生かされている」のですから、クレディット欄にその数字を書き込むのです。他にも、「利益」と「損失」(コリント第一11:17、ピリピ3:8)、「利息」(ピリピ4:17)などといった言葉も使われています。

 新約聖書はまた、スポーツの用語を使って信仰のことを語っています。古代オリンピックは紀元前9世紀から紀元後4世紀までオリンピアで行われていました。ギリシャの他の三つの地域でも同じような大会があって、毎年、ギリシャのどこかで競技大会が行われていました。それで、新約聖書にも、そうした競技大会のことが記されています。コリント第一9:24-25に「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」という言葉があります。当時、オリンピアの競技では、勝者にオリーブの冠が与えられましたが、それはやがて枯れていくものでした。しかし、信仰の競技を走りぬいた人には、「朽ちない冠」が、神から与えられるのです。

 このように、新約聖書は、信仰の真理を、きわめて具体的な事柄によって、わかりやすく、生き生きと描いています。イエス・キリストを信じる信仰は、決してギリシャ古典文学のような、日常からかけ離れた世界のことでも、ギリシャ哲学のような、冷たい論理の世界のことでもないからです。それは、わたしたちの生活のあらゆる面で生きて働くもの、日常に関連したものなのです。

 二、キリストの兵士

 新約聖書には商業用語やスポーツ用語が多く使われていますが、同時に軍隊用語も目立って使われています。ペテロ第一3:21に「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いである」(新改訳)とありましたが、ここで使われている「誓い」という言葉は、ローマの兵士の「忠誠の誓い」を指しています。この「忠誠の誓い」はラテン語で「サクラメントゥム」と呼ばれましたが、教会でも、バプテスマや主の晩餐を「サクラメント」と呼びました。イエス・キリストはローマ皇帝にまさる、「王の王、主の主」なるお方です。バプテスマは、このキリストの兵士になることの誓いであり、晩餐式は、その誓いの更新なのです。

 新約聖書は、イエス・キリストを「平和の君」として描くとともに、兵士たちを従えて敵に立ち向かう「戦いの王」としても描いています。もちろん、その戦いは、戦闘機や戦車、またミサイルで戦う戦いではありません。それは、人を神から引き離し、世界を破壊しようとする、あらゆる悪の力の根源にあるものへの霊的な戦いです。この戦いを戦われるのはキリストですが、キリスト者もまた、キリストの兵士として、この戦いに加えられているのです。

 次に、キリストの兵士は、自分の中にある「肉の欲」と戦います。ペテロ第一2:11に「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」とあり、きょうの箇所には、その具体例として「好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝」(3節)などがあげられています。では、そうしたことから離れて、真面目な生活をしていればそれで良いのでしょうか。聖書で「肉の欲」というときには、不道徳なことだけを指すのではなく、御言葉の光に照らし、神のみこころを求めることをしないで、自分の好みや人間的な判断でものごとをしてしまうことも指すのです。キリスト者の多くは、わざわざ不道徳なことに手を染めることはないでしょう。「健全な」趣味や、「善良な」活動に勤しむものです。しかし、そうした「良いこと」と思えることが、「さらに良いこと」、「なくてならないもの」である霊的なことからわたしたちを遠ざけ、神の栄光を損ねてしまうことがあります。ですから、わたしたちは「肉の欲」との戦いを忘れてはいけないのです。

 三、心の武装

 さらに、キリストの兵士は、信仰の歩みを妨げるものや「肉の欲」の背後にあるものと戦います。エペソ6:12に「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」とあるように、あらゆる悪の背後にある霊的な存在と戦うのです。悪の根源にある存在は、「悪魔」とか「悪霊」と呼ばれ、その戦いは「霊の戦い」と言われます。しかし、人はどうやって悪魔や悪霊と戦うことができるのでしょうか。わたしたちは、「社会の悪」に対しては声を上げて政治や行政を動かしたり、そうした「悪」に苦しめられている人たちをサポートしたりできますが、それよりももっと大きく、深い、根源的な悪に対して、いったいどんなことができるのでしょうか。

 「霊の戦い」について、聖書はすべてを明らかにはしていませんが、この戦いが、決して人間の力でするものではないことは、はっきりと告げています。この戦いを戦われるのは主イエス・キリストです。キリスト者が「霊の戦い」を戦うことができるのは、「キリストにあって」だけなのです。エペソ6:10-11に「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」とあるように、イエス・キリストの力により、神から与えられる武具によって身支度をしなければ、決してこの戦いを戦うことはできなません。きょうの箇所の1節に「心の武装をしなさい」とあるとおりです。

 では、どのように自らを武装すればよいのでしょうか。エペソ6:14-17にこう書かれています。「すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。」ここに六つの武具があります。「真理の帯」、「正義の胸当」、「平和の福音の備え」、「信仰のたて」、「救のかぶと」、そして「御霊の剣、つまり神の言」です。六つの武具のうち、五つはすべて自分の身を守るものです。攻撃の道具は「御言葉の剣」だけです。一般には「攻撃は最大の防御」と言われますが、キリスト者の霊の戦いにおいては、「防御が最大の攻撃」なのです。どんなに華々しい活躍をしても、自分が信仰から離れてしまったり、罪を犯して悔い改めないままでいたなら、この戦いに敗北してしまうのです。自分自身が悪魔の餌食とならないように、しっかりと身を護る、それがなによりも大切なことです。

 その上で、「御言葉の剣」を使って戦うのです。「御言葉で戦う」というと、イエスがバプテスマのあと、荒野で誘惑をお受けになったときのことを思い起こさせます。あのとき、イエスは神の言葉によって誘惑に勝利されました。イエスは神の御子ですからご自分の言葉で誘惑を斥けることがお出来になったはずです。しかし、イエスは、聖書を、しかも、誰もが知っている箇所を引用して、「…と書いてある」と答えました(マタイ4:4, 7, 10)。悪魔の誘惑に対して、「わたしはそうは思わない」などと反論しても、何の力もありません。悪魔は人間の論理の隙間から入り込んできて、自分の論理で人を屈服させます。わたしたちにできるのは、「聖書にこう書いてある」「神はこう言われる」と、神の言葉で、それに対処することだけです。神の言葉を信じ、それに信頼し、それを宣言することだけです。そして、それが最も力があることは、イエスご自身がすでに証明してくださっているのです。

 わたしは、カリフォルニアにいたとき、サバティカルリーブを利用して様々な教会を訪ね、礼拝の持ち方や霊的訓練について調査をしたことがあります。ある教会では、“We are all ministers. Pastors are equipping ministers.”ということを強調していました。この“equip”という言葉は「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ」とあるエペソ4:12からとられました。これには軍隊が軍備を整え、兵士たちが装備を身に着けるという意味があります。キリスト者は、教会の指導者たちによって、霊の戦いのために装備され、神の国のために戦うのです。また、ある教会では毎週のウィークデーの夜、教会員の成長の段階に応じていくつかのクラスを持っていました。軍隊では、新兵たちに、戦場で身を護るためのひととおりの訓練を授け、それを「ブート・キャンプ」と呼んでいますが、この教会でも、基礎コースを「ブート・キャンプ」と呼んでいました。教会員は、こうした訓練の場を通して自分がキリストの兵士であることを自覚していったのです。

 「霊の戦い」のための「武装」は、掛け声だけでできるものではありません。多くの教会でしているような具体的なプログラムが、わたしたちにも必要だと思います。そうしたプログラムを通して、皆さんとともに、わたしもキリストの兵士として整えられていきたいと願っています。

 (祈り)

 父なる神さま、信仰者はみな、キリストの兵士とされ、「霊の戦い」に召されています。そのことを時として忘れがちなわたしたちに、キリストの兵士であることを自覚させてください。信仰の戦い、「肉」との戦い、また、霊の戦いのために、わたしたちを武装してください。教会にそのための具体的なプログラムを与えてください。キリストの力に強められ、この戦いに勝利するわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/16/2017