きょうという日に

ペテロ第一3:18-22

オーディオファイルを再生できません
3:18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
3:19 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
3:20 これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
3:21 この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。
3:22 キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。

 聖書には分かりにくい箇所がいくつかありますが、きょうの19節と20節はそのひとつです。ここには、イエスが十字架で死なれたのち、「ハデス」と呼ばれる死者の世界に降っていき、ノアの洪水で死んだ人々を訪れたことが書かれています。このことは、この手紙を受け取った初代のキリスト者にとってはよく知られていたことなのかもしれませんが、現代のわたしたちには、なぜ、ここで、ノアの洪水のことが出てくるのかという疑問が残ります。

 聖書を読むとき、あまり細かいところに引っかかっていると、先に進むことができませんから、聖書を読み始めたばかりのときは、どんどん先に読み進むのが良いと思います。神は、わたしたちの救いと、信仰の養いのために必要なことは、読めば分かるようにはっきりと示していてくださっていますので、まずは、そうしたことをしっかりと身に着けるのが良いと思います。しかし、信仰に導かれた後、聖書をひととおり読み、学んでからは、こうした難しい箇所を学び直し、疑問を解いていくことも大切なことと思います。疑問を追求していく過程で大切な真理を発見し、聖書をさらに良く理解することができるようになるからです。

 聖書を読むとき、とくに、分かりにくい箇所を読むときは、まず、そこに何が書かれていて何が書かれていないかを、きちんと読みわけることが大切です。聖書から真理を「読み取る」ことは大切なことですが、人間の願望を聖書に「読み込む」ことは慎まなくてはなりません。自分の「読み込み」が強すぎると、聖書が本来語っていないことまでも、聖書の教えとして自分勝手に権威づけてしまうという間違いを犯してしまいます。

 また、聖書にかぎらず、どの書物も、それを正しく解釈するためには、文脈にそって読む必要があります。きょうの箇所も、この箇所がペテロ第一の手紙の中で、どういう位置をしめているかを考え、聖書の他の箇所との関連を考えながら読めば、こで何が語られているかが分かるようになるでしょう。

 一、キリストの苦難と栄光

 では、18節からはじまるきょうの箇所はペテロの第一の手紙の中で、どんな位置にあるのでしょうか。この箇所の前後では、信仰者が世にあって苦しむことがあっても、そのことに驚いたり、恐れたり、落胆しないように、むしろ、キリストを「主」とあがめて、正しく、きよい生活によってキリストを証しするようにと勧められています。そして、そのために、苦難のしもべとして地に降り、栄光の主として天にあげられたイエス・キリストを見上げるようにと教えられています。

 キリストがハデスに降られたことやノアの洪水のことは、ここでは挿入句として扱われていますので、その部分をいったん括弧に入れて読むと、全体がつながります。「(キリストは)自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。…キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。」このように読むと、ここでは、イエス・キリストの十字架の死と復活、そして昇天が語られていることが分かります。キリストの十字架と復活、そして昇天は、コリント第一15:3-8、ピリピ2:6−11、テモテ第一3:16などに繰り返し書かれており、それは「福音」、あるいは「信仰の奥義」と呼ばれています。キリストの十字架と復活、つまり、キリストの「苦難と栄光」(ペテロ第一1:10-11)こそが聖書の主題です。人は、イエス・キリストの十字架と復活が「わたしのためであった」と信じることによって救われるのです。

 イエス・キリストは、天から降りてこの世にこられました。十字架の死という最も低い所まで、またハデス、死者の世界にまで降られました。しかし、死に勝利して復活し、ふたたび天の栄光へと昇っていかれました。このキリストの「苦難と栄光」は「V字形」で表わされます。そして、この「V」は“Victory”の「V」です。イエス・キリストを信じる者が、この世で苦しみに打ち勝つことができるのは、人間の頑張りによってではありません。信仰によってキリストに結ばれて、キリストが勝ち取ってくださった「勝利」を自分のものにしてはじめて、この世に、罪に、死の力に打ち勝つのです。ですから、ペテロは、苦しみを味わっているキリスト者たちに、信仰のゆえに受ける苦しみはキリストの苦難にあずかることであり、キリストと共に苦しむ者は、やがてキリストと共に栄光にあずかるようになると教え、励ましたのです。初代のキリスト者にとって、キリストの十字架と復活は、カルバリの丘で起こった出来事だけでなく、キリストを信じて従う中で、日々に体験していることだったのです。

 二、キリストの勝利宣言

 このようにキリストの苦難と栄光ということから考えていくと、19節の「こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」という言葉の意味が見えてきます。これは、主イエスがハデスにおいて、やがての復活と、昇天を先取りして、ご自分が「主」であることを宣言されたことを意味しているのです。

 イエス・キリストは「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18)と言われましたが、イエスが天や地で「主」であるだけでなく、死者の世界に対しても「主」であることが、この箇所から分かります。イエス・キリストはじつに「生きている者と死んだ者とをさばくべき」お方(テモテ第二4:1)であり、「天上のもの」や、「地上のもの」ばかりでなく、「地下のもの」によっても、「主」として告白されるべきお方(ピリピ2:10-11)なのです。イエスはじつに、すべてのものの主権者、万軍の主であるお方です。

 ペテロの時代のキリスト者たちは、自分たちの生きている間に、キリストがもういちどこの世に戻ってこられると信じ、そのことを強く期待していました。それで、キリストの再臨を見ずに、迫害によって、あるいは病気や老齢によって亡くなった信仰者は、はたしてキリストの栄光にあずかることができるのだろうかと、不安を覚えていました(テサロニケ第一4:13)。けれども、イエスがハデスにまで降られたということは、信仰者にとって大きな慰めとなりました。救い主を待ち望みながらもその実現を見ることがなかった人々の霊、また、信仰を持って死んだ人々の霊に、主は、救いの成就を宣言し、復活の希望を与えられたからです。詩篇139:8に「わたしが陰府に床をもうけてもあなたはそこにおられます」とありますが、この言葉は、イエス・キリストによって成就したからです。主なるイエス・キリストがハデスも死も支配しておられるなら、それらのものは信仰者をイエスから引き離すことはできないのです(ローマ8:38-39)。

 三、悔い改めへの招き

 さて、19節は、イエスがハデスに降られただけでなく、ハデスの特定の場所を訪れたと言っています。それは、ハデスにある「牢獄」です。ハデスの中でもすでに裁きに定められてしまっている場所、希望のない場所です。そこには、「ノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった」人々がいました。ノアが「やがて世界は洪水で滅ぼされる。箱舟に乗って救われなさい」と呼びかけたのに、それを無視して、みずから滅びを選んだ人々です。

 いつの時代にも、神を恐れず、自分の欲望のままに生きる人がいたのに、なぜノアの洪水のときのことだけがここでとりあげられているのでしょうか。それは、「ノアの洪水」が古い時代の最終的な裁きだったからです。神はそののち、もはや水で地を滅ぼすことはしないと約束され、今に至っていますが、今の世界も、やがて火で滅ぼされます。ペテロ第二3:5-7に「すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである」とあるとうりです。「ノアの洪水」は第一の裁きで、やがて来る第二の、そして最後の審判の雛形となっているのです。ペテロが「ノアの洪水」のことをとりあげたのは、最後の裁きを前にしている、今の時代への警告のためでした。

 聖書は洪水前の世界について「人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかり」(創世記6:5)であった、と言っていますが、そんな世界であっても、神は、人々に洪水から逃れて救われるようにと呼びかけてくださったのです。なんという寛容、忍耐でしょうか。ところが、人々は、その神の寛容と忍耐を踏みにじったのです。救いの箱舟が誰の目にも見えるところにあったのに、それを笑い、嘲り、そこに入ろうとしなかったのです。

 神の言葉を聞きながらそれに答えない、救いの門が目の前にありながらそこに入ろうとしない現代のわたしたちは、ノアの時代の人々を笑うことはできません。その人たちと同じことをしているのです。しかし、神はそんなわたしたちに対しても、ひとりでも多くの人が救われるようにと、忍耐し続けておられます。ペテロ第二3:9にこうあります。「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」

 神は、ノアの洪水のときと同じように、今もわたしたちを待っておられます。洪水のときにはノアが神の寛容と忍耐の証人でしたが、今は、キリスト者が神の愛と恵みの証人です。洪水のときには箱舟が救いの手段でしたが、今は、十字架が救いのしるしです。そして、ノアとその家族が水をくぐって救われたように、今日のわたしたちも「悔い改めてバプテスマを受ける」ことによって救われるのです。

 コリント第二6:2にこう書かれています。「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救いの日にあなたを助けた。』見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」また、ヘブル3:7-8では、聖霊がこう言っておられるとあります。「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」神はあわれみ深いお方であり、わたしたちが神に立ち返るのを、忍耐して待ってくださっています。しかし、すべてのことに期限があるように、わたしたちが神の招きに答えることができるのにも、期限があるのです。それが過ぎればもう、答えることができなくなる時が来るのです。その時とは、わたしたちの地上の人生が終わる時です。しかも、その時がいつなのかは、だれも分からないのです。ですから神は、「きょう」という日、「今」という時に信仰を持つようにと勧めておられるのです。

 ノアと家族が箱舟に入ったとき、神は箱舟の扉を閉ざされました。創世記7:16に「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」とある通りです。神がその戸を閉ざされたというのは、箱舟に乗っている人々の安全を保証する行為でしたが、同時に、それは、神の招きの時が終わったことを示すものでもあったのです。箱舟の扉が閉ざされる時があったように、どの人の人生にも、その扉が閉ざされる時がやってきます。その時が来ないうちに、「きょう」という日、「今」という時に主を受け入れましょう。悔い改めをもって主に従いましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、御子イエスがハデスにまで降ってくださったことを感謝します。主イエスの苦難と栄光によってわたしたちは、罪と死とさばきから救われました。主イエスのゆえに、わたしたちは力強く生き、平安のうちに死を迎えることができます。わたしたちの生も死も主の御手の中にあります。主は、いつでも、どこででも、信じる者と共にいてくださいます。どうぞわたしたちを主と共におらせてください。日々、主と共に生きるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/9/2017