霊のいけにえ

ペテロ第一2:4-5

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2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

 この箇所に「神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」とありますが、「霊のいけにえ」とは何を指しているのでしょうか。私たちは、神に何をささげることができるのでしょうか。きょうはそのことについて話します。

 一、旧約のささげ物

 それを理解するためには、旧約時代の礼拝がどういうものだったかを知るのが役に立ちます。聖書で最初に「ささげ物」について書かれているのは、創世記4章、「カインとアベルのささげ物」の記事です。カインは農作物、おそらく、穀物をささげ、アベルは家畜の中から小羊をささげました。神はカインのささげ物でなく、アベルのささげ物を喜ばれました。それはカインのささげ物が穀物で、アベルのささげ物が動物だったからでしょうか。そうではありません。カインが不承不承ささげ物をしたのに対して、アベルは心を込めてささげ物をしたからです。聖書に「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた」(創世記4:4)とあるように、神はささげ物とともに、ささげ物をする人の心をご覧になるのです。

 このようにささげ物を焼き尽くして神にささげるという形の礼拝は、ノアに引き継がれました。アブラハムもイサクもヤコブも行くところ、行くところに祭壇を築き、供え物をささげて神を礼拝しました。

 モーセの時に、最初の神殿が建てられました。神殿の中心は「契約の箱」でしたが、それは誰もが近づくことができるものではありませんでした。一般の礼拝者が近づくことができたのは「祭壇」でした。人々はそこに供え物を持って行き、祭司の手を通してそれを神にささげました。動物のいけにえや穀物のささげ物が焼かれ、煙が空に上っていく様子を見つめながら、人々は、罪の赦しと祝福を祈りました。煙が空に上っていくように、自分たちの祈りもまた、天の神のもとに届けられるようにと願い、神を礼拝しました。

 旧約時代には、礼拝には必ず、具体的な「ささげ物」、とくに生きた動物の「いのち」が必要でした。けれども、人々は、なぜそれが必要なのか、それが何を意味しているのか、また何を指し示しているのかを、理解してはいませんでした。

 二、キリストのささげ物

 しかし、救い主イエス・キリストが世に来られ、十字架でいのちをささげられたとき、それまで隠されていたささげ物の意味が明らかになりました。旧約時代のささげ物は、イエス・キリストの十字架での身代わりの死を指し示すものだったのです。

 バプテスマのヨハネはイエスを観て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と叫びました。それは、聖霊による預言で、イエスをそう呼んだヨハネ自身も、そのすべてを理解していたわけではありませんでした。しかし、イエスの弟子たちは、イエスと共に生活し、イエスの教えを聞き、十字架を目のあたりにし、復活されたイエスに出会い、イエスから聖書を解き明かしていただいて、バプテスマのヨハネが言った言葉の意味を理解しました。イエスが、じつに「世の罪を取り除く神の小羊」であることをはっきりと分かったのです。イエスは「供え物」の小羊として十字架という祭壇の上で命をさささげてくださったということを理解したのです。

 使徒ヨハネは、その手紙の中にこう書いています。「この方こそ、私たちの罪のための、──私たちの罪だけでなく全世界のための、──なだめの供え物なのです。」(ヨハネ第一2:2)また、こうも言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:10)神が、この「なだめの供え物」は私たちがささげたものでも、私たちが願ったものでもありません。私たちが神も、救いの道も知らなかった時から、神が私たちのために備えてくださったものでした。神と人とが一つとなることができるための「なだめの供え物」を備えてくださっていたのです。それは神の私たちへの深い愛によるものでした。

 旧約時代、人々は祭壇にささげる動物の頭に手を置き、それから動物を屠って、神にささげました。「手を置く」のは、罪を動物に移すことを意味していました。犠牲となる動物は人の罪を背負って死んでいきました。それと同じように、いや、それ以上のものを与えるために、イエス・キリストは、人間の罪の身代りに十字架でいのちをささげられたのです。

 動物の犠牲が与えるものは限定的で、一時的です。そこで与えられる罪の赦しは、その人が犯した具体的な一つの罪に限られており、しかも永遠にではありません。動物の血は儀式的なきよめを与えても、人の心まできよめることができません。人はくりかえし同じ罪を犯し、何度も同じささげ物をささげ直さなければなりませんでした。しかし、イエス・キリストの場合は違います。イエス・キリストはすべての人の、あらゆる罪を、引き受け、十字架によって、ただ一度限り、すべてを赦し、ご自分の血によって私たちの心までもきよめてくださったのです。

 ヘブル10:11-14にこう書かれています。「また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」「一つの永遠のささげ物」、それはイエスご自身、イエスのいのちです。この言葉は、私たちに大きな平安を与えてくれます。もし皆さんがローンを組んで何か大きな買い物をしたとします。毎月の支払いが苦しくなり、支払いをスキップしてペナルティがついたり、利息が膨れ上がったりしてどうにもならなくなったとき、誰かが代わりにすべてを支払ってくれたとしたら、もう、その瞬間から、今月のことも、来月のことも心配しなくて済むようになるのです。借金から自由になります。そのように、キリストのささげ物は私たちを「一度限り」、「永遠に」罪の負債から救い出してくださったのです。キリストの「ささげ物」はすべてをカバーし、すべてを新しくする完全な「ささげ物」です。

 三、新約のささげ物

 では、キリストの「ささげ物」がすべてをカバーするなら、新約時代の私たちには、礼拝でささげるものはもう何もないのでしょうか。いいえ、聖書は、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」(5節)と教えています。これは、私たち自身が神殿であり、また祭司であり、さらに、ささげ物、そのものでもあることを教えています。

 ローマ12:1に「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」とあります。殉教者たちは、実際にその「からだ」をささげました。パウロは常に殉教を覚悟していて、「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます」(ピリピ2:17)と言っています。しかし、ローマ12:1ではキリストのために「死ぬ」ことではなく、キリストのために「生きる」ことを教えています。「生きた供え物」とあるように、「からだ」をささげるとは、自分の頭脳や、耳や口、手足を使って、神に仕えることを意味しています。ローマ12章の続く部分で、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」(11-13)と言っている通りです。ローマ12:1で「からだを…ささげなさい」というのは、からだを使ってする一切のこと、言い換えれば、日々の生活のすべてを神にささげること、神を喜び、神に喜ばれることを目指して生きることを意味しています。

 イエスは大祭司として世に来られました。祭司には「ささげ物」が必要でした。しかし、イエスはどんなささげ物も持たないで世に来られました。それは、ご自分が「ささげ物」だったからです。このキリストによって祭司とされた私たちもまた同じです。キリストは私たちにも、「自分をささげなさい。あなた自身がささげ物なのです」と言われるのです。救われた私自身、それが神に喜ばれる「霊のいけにえ」なのです。

 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」この言葉で、私たちがささげるべきものがすべて言い尽くされているのですが、聖書はなお二つのことを加えます。ヘブル13:15には「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」とあります。「賛美のいけにえ」、それは、動物のささげ物に代わってささげられるものです。ここで言われている「賛美」とは、賛美歌やゴスペル・ソング、またワーシップ・ソングだけではありません。一世紀の教会では、「詩篇」が歌われました。また、聖書の言葉や、信仰告白も歌われました。そうしたものが「賛美」と呼ばれました。また、祈りがメロディを伴ってささげられるようになったもの、それは「霊の歌」と呼ばれました。ですから、私たちが礼拝で行っている詩篇の交読、使徒信条の告白、また、祈り、聖書の朗読も、賛美の歌とともにささげる「賛美のいけにえ」、「御名をたたえるくちびるの果実」になるのです。このような「賛美のささげ物」を日々ささげ、主の日には皆で、さらに力強くささげたいと思います。

 もう一つのことは16節にあるように、「善行」と「分かち合い」です。「善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」「善を行なうことと、持ち物を人に分けること」、これも神への「ささげ物」です。パウロはピリピの教会から援助を受けたとき、こう言いました。「あなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」(ピリピ4:18)援助や親切は「人」に対してすることなのですが、神はそれを「わたしにしたことだ」と言ってくださるのです。しかも、神は、どんなに小さなこと、わずかなものであっても、心からしたことを喜んでくださいます。「分け与える」ことの中には、人の話を聞く耳を与える、励ましの言葉を与えるということも含まれます。現代は、実際の「物」よりも、他の人のために「心」を配り、「時間」を割くことのほうが必要なのかもしれません。ヘブル6:10にこうあります。「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」この言葉に励まされて神に喜ばれるささげ物をしたいと思います。

 キリストがご自身を「ささげ物」としてくださった。この恵みによって、私たちも、自分自身を「ささげ物」とすることができます。神をたたえる言葉を語り、援助や親切を神への「ささげ物」として実行していきたいと思います。

 (祈り)

 主なる神様、あなたは私たちをあなたの祭司とし、「霊のいけにえ」をささげる者としてくださいました。あなたから与えられた務めを思うとき、果たして自分にそんなことができるのだろうかと心配にもなります。しかし、私たちには大祭司であるイエスがおられます。主を見上げ、主の教えを聞き、主に倣いながら、私たちは善を行うことを怠らず、励みたいと願います。私たちを導き助けてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/28/2022