生ける石となって

ペテロ第一2:4-6

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2:4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
2:6 聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない。」

 聖書は、教会をいくつかのものにたとえていますが、今朝の箇所では、「建物」にたとえています。じつは、教会を「建物」にたとえたのは、使徒ペテロがはじめてではありません。主イエスご自身も、使徒パウロも、教会を「建物」であると言っています。

 どんな建物も、それが建て上げられるためには、「土台」と「材料」と、「工事」が必要です。それは、目に見える教会の建物ばかりでなく、目に見えない「キリストのからだ」としての教会も同じです。さらに、それは、「キリストのからだ」の一部である、ひとりひとりのクリスチャンにとっても同じです。教会の「土台」、「材料」、そして「工事」について学ぶとともに、わたしたちの人生の「土台」、「材料」、また、「工事」についても考えてみたいと思います。

 一、土台

 最初に、「土台」について考えてみましょう。土台、それは、イエス・キリストです。4節に「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である」とあり、6節に「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」と書かれています。ここで、「隅のかしら石」(コーナーストン)とあるのは、建物の土台となる石のことです。イエス・キリストこそ、教会の土台、また、人生の土台、コーナーストンです。どんなに立派なものを建て上げようと、イエス・キリストという土台の上に立っていなければ、それは本物の教会、確かな人生にはなりません。

 使徒パウロはこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(コリント第一3:10-11)わたしたちは皆、人生という家を築き上げています。それをどう築き上げるかは大切なことです。しかし、もっと大切なことは、何の上にそれを築き上げるかということです。断層の上に家を建てれば地震がやってきたとき、ひとたまりもないでしょう。また、山崩れが起きやすいところに家を建てれば、大水が出たときには真っ先に流されてしまいます。わたしたちの人生が、イエス・キリストという動かない岩の上に建てられていなければ、思わぬ災難や困難がやってきたとき、もろく崩れてしまうでしょう。しかし、イエス・キリストの上に建てられた人生は、苦しみのときにも、試練のときにも持ちこたえる確かな人生となるのです。

 建物ばかりでなく、どんなことでも、基礎が一番大切です。大学や大学院で専門的なことを学ぶ前に、ハイスクールまでで基礎的な知識を身に着けていなければなりません。どんなスポーツをするにしても、基礎体力を身につけていなければ、強い選手にはなれません。信仰の場合は、もっと基礎が重要です。「わたしはイエス・キリストを信じる信仰から出発しているだろうか。信仰の基礎を確かなものにしているだろうか」と反省してみることはとても大切なことです。

 信仰生活が長くなると、「わたしには基礎ができている。いまさら、初歩のことを学ぶ必要はない」と思ってしまうことがあります。しかし、「基礎」と「初歩」とは違います。「初歩をあとにする」(ヘブル6:1)とは、「基礎」をないがしろにするとか、そこから離れるということではありません。信仰に成長するためには、信仰の基礎をしっかりと持っていなければなりませんし、いつでも基礎に立ち返る必要があるのです。信仰に成長している人は誰も、手抜きをせずに基礎をしっかり固めてきた人たちでした。

 イエス・キリストを知り、自分の内面の問題に気づき、信仰の決心に至るまでには時間が必要でしょう。しかし、たんに時間をかければそれができるというわけではありません。救いの真理を、順を追って学び、それを身に着ける必要があります。そのようにして、信仰の基礎を作りあげていくなら、信仰の決断はもっとたやすくなります。そして、信仰の決断のあとに続く信仰の生活がしっかりしたものになります。さまざまな試練で信仰が弱まるときも、信仰の基礎を持つ人は、立ち返るべきところを知っているので、試練の中でも支えられ、信仰を深めることができるようになるのです。

 二、材料

 次に、この土台の上に建てられていく材料について考えてみましょう。ペテロは、3節で「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ…なさい」と言っています。「あなたがた」とありますが、これはすべてのクリスチャンのことです。イエス・キリストを信じる者は誰も、霊の家、つまり、教会の材料となるのです。「あなたがたも」とあるのは、ペテロ自身も、この教会のいしずえのひとつとされたからです。

 ペテロが、教会のいしずえとなることは、マタイ福音書16章に書かれています。主イエスは弟子たちに問われました。「あなたがたはわたしをだれと言うか。」ペテロが弟子たちを代表して答えました。「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」そのとき、主イエスはペテロに言われました。「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。」「ペテロ」のもとの名前は「ヨナの子シモン」で、「ペテロ」はニックネームです。それには「岩」とか「石」とかいう意味があります。この後、シモンは主イエスにつけていただいだ「ペテロ」という名前で呼ばれるようになり、それが彼の本名になってしまいました。ペテロは、自分がその名で呼ばれるたびに、教会のいしずえとしていただいたことに感謝し、また、それを誇りに思ったことでしょう。

 ペテロや他の使徒たちは初代教会で重要な役割を果たしました。彼らは、イエス・キリストというコーナーストーンに直接つながっている大きな石です。しかし、教会は使徒たちや他の指導的な人々だけで建て上げられるものではありません。石造りの建物には、大きな石ばかりではなく、小さい石も必要です。大きさばかりでなく、形も、色も、硬さも、様々なものが必要なのです。それでペテロは、すべてのクリスチャンに対して、「わたしが主イエスによって教会のいしずえとされたように、あなたがたも、主の招きに応えて、自分を捧げなさい。それぞれが生ける石となって、霊の家に築き上げられなさい」と呼びかけているのです。わたしたちはそれぞれ霊の家の大切な材料のひとつひとつなのです。

 三、工事

 最後に「工事」について考えましょう。それを考えるときに、大切なことがあります。それは、わたしたちが建てている建物が普通の建物ではないということです。5節に「聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」とあるように、わたしたちが建てようとしているのは、そこで祭司たちが神にいけにえをささげる、神殿なのです。

 神殿、それは神がそこにおられるところです。人々がそこで神にお会いする場所です。主イエスは、ご自分のからだを神殿と呼ばれました(ヨハネ2:21)。なぜなら、主イエスは神の御子であり、父なる神を表わすお方だからです。人々は、イエス・キリストと出会うことによって神に出会うからです。教会は「キリストのからだ」です。そうであるなら、主イエスがご自分のからだを「神殿」と呼ばれたように、教会もまた「神殿」でなければならないのです。そこで語られる御言葉、そこでささげられる礼拝によって、人々がそこで神に出会う場所として建てられなければならないのです。

 「あなたがたも、…霊の家に築き上げられなさい」(5節)というところで使われている「霊の家」という言葉は、目に見える建物に対して、目に見えない建物という意味があります。しかし、ここでは、文字通り、「霊の家」、「聖霊の住まい」という意味で使われています。教会も、ひとりびとりのクリスチャンも「霊の家」、「聖霊の住まい」です。コリント第二6:19-20にこうあります。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」クリスチャンひとりひとりもまた、「神殿」であるというと、「自分のようなものが聖霊の宮と呼ばれるのはおそれ多い」という気持ちになるかもしれません。しかし、神はイエス・キリストの命という代価を払ってまでも、わたしたちを贖ってくださいました。滅びから、罪から買い戻して、神のものとし、わたしたちと出会う人が神と出会い、わたしたちの人生を通して神の栄光が表されるようにしてくださいました。この恵みを思うと、「聖霊の宮」と呼ばれていることに、少しでもこたえたいという思いに導かれます。

 旧約時代、神殿は、神ご自身によって設計され、事細かい指示に従って建てられました。神殿は神のものとして聖別されたものだからです。同じように、現代の神殿である教会や個々のクリスチャンも、神の目的にかない、神のみこころにそって建てられていくことが求められています。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」との言葉は、わたしたちが、神の目的のために選び分かたれていることを教え、それにこたえるようにと命じています。

 わたしは、チャック・スウィンドル先生の本を読んで、先生が兵士として沖縄に派遣される前、ペニンスラ・バイブル・チャーチで信仰を養われたということを知りました。そして、その教会を訪ねました。その礼拝堂正面には、「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」との言葉が大きな文字で刻まれていました。それは、おそらく、その教会のメンバーのひとりひとりの心にも刻まれていたことでしょう。わたしたちもこの言葉を心に刻みたいと思います。「自分は聖霊の宮である」という自覚を持ったクリスチャンが集まるときはじめて、教会は、「霊の家」、「聖霊の住まい」となり、そこで人々が神を見出し、主イエス・キリストに出会う場所となるからです。

 こんな話があります。何人もの男たちが大きな石にロープをつけて丘の上に引き上げていました。石を滑りやすくするために、石の下に丸太をならべ、少し動かしてはまたそれを並べ替えるというようにして、長い坂道を登っていました。そこにとおりかかった旅人が「そんな大きな石を運んで、どうするのかね」と聞きました。一人の男が、苦しそうな顔をして、こう言いました。「そんなこと知るもんか。俺は日雇いで働いているだけさ。しかし、こんなにきつい仕事じゃ割にあわないぜ。」ところが、一緒に働いていた別の男は、汗だらけの顔でしたが、白い歯をみせてこう言いました。「だんな、ご存知じゃないんですか。この丘の上にはね、この町一番の立派な教会堂が建つんですよ。これはその石なんですよ。さあ、もうひとがんばりだ。」

 どちらの男がその日の仕事に満足できたか、みなさんは、もうお分かりでしょう。自分がしていることの目的を知っていた人です。わたしたちも、神がわたしたちを贖って、聖霊の宮としてくださった目的を知り、霊の家として築き上げられていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、わたしたちをイエス・キリストの命によって罪の中から買い取ってくださり、あなたのものとしてくださいました。そればかりか、わたしたちをあなたの住まいとしてくださいました。わたしたちを神殿として建て上げようとしておられる、あなたのみこころに従わせてください。そして、あなたの神殿として建て上げられていく喜びを味あわせてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/12/2016