主の恵みを味わう

ペテロ第一2:1-3

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2:1 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
2:2 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
2:3 あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。

 一、御言葉を味わおう

 ペテロ第一2:2では、御言葉が「霊の乳」と呼ばれていました。新生児にとって、ミルクが命を支え、成長していくのになくてならないものであるように、御言葉は神から生まれた神の子どもたちになくてならないものだからです。3節には、「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである」とあって、その御言葉が、霊的な栄養を与えるだけでなく、じつにおいしいもの、味わい深いものであると言っています。

 食べ物には、おいしくても、食べ過ぎるとからだに悪いものもありますし、からだによくても、味が悪くて食べにくいものもあります。けれども、「味」の良し悪しは多分に主観的なもので、「ニンジンやトマトは「青臭くて嫌いだ」という人もあれば、「これほどおいしものはない」といって、スナックがわりに、ナマのニンジンをポリポリかじっている人もいます。「霊の糧」である神の言葉、聖書が、わたしたちにとってなくてならないものであり、わたしたちの霊魂を養う栄養豊かなものであることが分かっていても、その「おいしさ」が分からないために、聖書を敬遠している人も多いと思います。「聖書は固くて消化できない」と思いこんでいる人が多いのですが、決してそうではありません。たしかにそれは歯ごたえはありますが、聖書は栄養豊かなものであるとともに、とてもおいしいもの、味わい深いものです。

 「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである」という言葉は、詩篇34:8からとられました。詩篇では「主の恵みふかきことを味わい知れ」とあります。この詩篇は、敵の手に陥ったダビデが、危機一髪のところで救われたときの体験に基づいて作られたものです。ダビデは、神の救いを体験し、それによって神の恵みを味わいました。神が自分にどんなに良くしてくださったかを覚えて、神をほめたたえているのですが、それとともに、「さあ、いっしょに主の恵み深いことを味わおうではないか」と、他の信仰者たちに呼びかけているのです。

 新約時代の信仰者たちは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって罪と滅びから救われました。悔改めて、主イエスの救いを信じ、罪を赦されたとき、天からの喜びが心に届きました。主イエス・キリストの恵みを味わい知ったのです。救いの恵みを受けていながら、それを味わっていないとしたら、それはとても残念なことです。「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである」と言われているのは、「主が恵み深いかたであることを、味わっていますか。もし、まだ味わっていないなら、今、それを味わいなさい。すでに味わっているなら、さらに深く味わいなさい。御言葉を味わうことによって、主の恵みを味わいなさい」という意味なのです。

 信仰とは、イエスは主である、キリストであると告白することから始まります。ギリシャ語で「主はキリスト」というのは Christos ho kurios と言います。これはとても大切な信仰の告白です。「イエスはわたしを救うお方、わたしが従うべきお方です」ということを言い表しています。人は、この信仰告白によって救われます。3節の「主は恵み深い」は、ギリシャ語で chrestos ho kurios と言います。このふたつは文字に書くと違いますが、口に出して言うと、ほとんど同じように聞こえます。キリストを主と告白する者は、同時に、「主は恵み深い」と、言うことができる者なのです。キリストを信じる生活は、主の恵み深いことを味わい続ける生活です。主を信じるわたしたちは、御言葉を味わい、それによって主が恵み深いことをさらに味わっていきたいと思います。

 二、時間をかけて

 御言葉を味わい、それによって「主の恵み深いことを味わう」ために、いくつかのことが必要ですが、その中からふたつのことをお話しします。

 ひとつ目は、「時間をかける」ことです。食事はそれによって胃袋を満たすためだけにあるのではありません。食事にはそれを味わい、楽しむという面があります。ですから、調理に工夫を凝らして、食べて美味しく、見た目もきれいにするのです。そんな料理をガツガツと食べては、その味がわからなくなります。おいしいものほど、ゆっくりと、味わって食べます。霊の食べ物である御言葉も同じです。そそくさと聖書を読んで、終わるのでなく、読んだ聖書の言葉を心に蓄え、想いみることによって、御言葉がわたしたちを養うものになるのです。御言葉を、もう少しゆっくりと、時間をかけて味わいたいと思います。

 ある集まりで、そんな話をしましたら、「わたしたちは忙しくて、とてもそんな余裕はありません」と言われたことがあります。確かに、現代は忙しい時代です。「お忙しそうですね」と言うのが褒め言葉のように使われています。しかし、「忙しい」ということが、人を御言葉から遠ざけているとしたら、それは大きな損失だと思います。

 「世界で一番貧しい大統領」として知られている、ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領が最近日本を訪ね、話題になりました。ムヒカ前大統領は「時間」についてこう言っています。「物であふれることが自由なのではなく、時間であふれることこそ自由なのです。」(佐藤美由紀『ホセ・ムヒカの言葉』)ウルグアイでは、労働者たちが、労働時間の短縮を求めて一日6時間労働を獲得しました。とこが、それが実現すると、人々は、空いた時間を使って別の仕事を持ち、以前よりも長時間働くようになりました。モーターサイクルや車のローンのためにです。ムヒカさんは「物欲を満たすために、せっかく勝ち取った自由な時間を犠牲にしている」と指摘しています。

 ムヒカ前大統領の言葉は、わたしたちに「何のために忙しくしているのか」ということを考えさせてくれます。クリスチャンには、「神とのまじわりの時間という『自由』を犠牲にしていないだろうか」という反省を与えてくれます。詩篇27:4に「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」とあります。御言葉を味わい、主の恵みを味わうこと、それが信仰者のたましいが求めてやまないものです。わたしたちのたましいの求めを満たすために今少しの時間を割こうではありませんか。

 三、静けさの中で

 「御言葉を味わう」ために必要なふたつ目のことは、「静けさ」です。現代は、「騒がしい」時代です。どこに行っても音楽が鳴っています。コマーシャル・メッセージがひっきりなしに流れています。それに、近頃は、場所をわきまえないで携帯電話で話す人が多く、わたしは、ときどき、自分に話しかけられたと思って、思わず返事をしてしまったり、振り向いてしまうこともあります。

 「騒がしさ」は、音だけではありません。ヘンリ・ナウェンは、ロサンゼルスでドライブをしたとき、宣伝やアナウンスメントの看板が次々と目に飛び込んできて、巨大な辞書の中を運転しているようだったと言っています。神の言葉以外の言葉が、わたしたちの注目を惹こうと、やっきになって、わたしたちに迫っているのです。わたしたちは、まさに言葉の洪水の中に漂っているのです。そんな中で御言葉に聞き、それを味わうには「静けさ」が必要です。ラジオやテレビ、コンピュータや携帯電話のスイッチを切って、聖書に向かう時が必要です。

 カリフォルニアにいたときのことですが、家内といっしょに「祈りのセミナー」に参加しました。午前から午後にかけての一日セミナーでした。そのとき、みんなで沈黙の祈りを実習しました。まず、心を静めることからはじめました。100人以上の人が集まっていましたが、指導者が合図をすると会場となった教会のホールはすぐに静かになりました。すると、今まで聞こえなかったエアコンの音や、外を走る車の音が聞こえてきました。さらに沈黙の時が続くと、外でさえずる鳥の鳴き声までも聞こえるようになりました。沈黙の時間は15分ほど続きましたが、決して退屈なものではなく、心地良いものでした。

 人によっては静かになるとかえって気が散るという人もあります。確かに沈黙の祈りをしているとき、いろいろな思いや考えがわき起こってきます。それで祈りから気をそらしてしまうことがあります。「祈りのセミナー」ではそんなときどうしたらいいかを学びました。わたしはそれまで、自分でも祈りについて学んできましたが、このような指導を受けてたのは、はじめてでした。それまで「祈る」ということは、クリスチャンだったら誰でもおのずとできることで、指導などいらないと思っていましたが、そうでないことに気付きました。それは教会できちんと教えられなければならないものであり、すべてのクリスチャンが祈りのうちに神の言葉に耳を傾ける訓練を受けなければならないと、わたしは思っています。それで、その後も、この指導者に師事して学び続けました。それはわたしにとって大きな宝となりました。

 こんな話があります。まだ冷蔵庫がなかったころ、ヨーロッパでは収穫した農作物は大きな蔵に入れて保存していました。蔵は陽の光がはいらず、暗く、ひんやりしています。ある農家の主人が蔵に季節の収穫を積み上げている時に、時計をなくしてしまいました。主人は、そのことでいらいらして、わめき散らしながら、ランプをかざして床の上のおが屑を熊手で引っ掻き回しました。仲間も加わって一緒に探し、大騒ぎしたのに時計は見つかりませんでした。大人たちがお昼ご飯を食べに出て行った後で、ひとりの子どもが貯蔵庫にやってきました。そしてなんなく時計を見つけたのでした。驚いた主人は、「どうやって見つけたんだ」と尋ねると、その子どもは言いました。「簡単だよ。おが屑の上に寝ころがって、じっとしていたら、時計のチックタックという音が聞こえたんだよ。」大人は大騒ぎしたので、時計の小さな音が聞こえませんでしたが、子どもは静かにしていたので、それが聞こえたのです。

 沈黙は無駄なものではありません。それには価値があります。騒がしい自分の心を、神の前に静めるとき、御言葉が聞こえてきます。今まで見逃し、聞き逃していた御言葉の素晴らしさが分かるようになります。主の恵みを味わうことができるようになります。そして、それによってさらに確かで、力強い人生を送ることができるようになります。主の恵みを味わいたいという、たましいの求めを満たすものとなるのです。

 静けさの中で語られる神の言葉を時間をかけて味わう。それは一朝一夕でできることではありません。しかし、いつか始めなければ、いつまでたっても、それを身に着けることはできません。きょうから、そのことを始めましょう。そして、さらに御言葉を、主の恵みを深く味わいましょう。そのために、進んで学び、訓練を受けていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしを救ってくださったあなたの御言葉を味わい、わたしの救いのために命さえも捧げてくださった主イエスの恵みを味わうことこそ、わたしの第一の願い、ただひとつの願いです。御言葉を、また主の恵みを、もっとよく味わうことができるために、その訓練を、進んで受ける、わたしたちとしてください。わたしたちを、御言葉の味わいを共に喜び、主の恵みを分かちあう教会としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/17/2016