御言葉による成長

ペテロ第一2:1-2

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2:1 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
2:2 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。

 皆さんは「暗唱聖句」をしていますか。「暗唱聖句」というのは、聖書の言葉を暗記して、それを唱えることです。ふつうは1節か2節、短い箇所を覚えますが、段落や章をまるごと覚えることもあります。アメリカには「暗唱聖句」のコンテストもあります。今朝は、みんなで、ペテロ第一2:2を暗唱してみましょう。

 聖句を暗記するコツのひとつは、その聖句の構文を把握することです。主語、動詞、目的語、そして、それぞれを説明している言葉がどのようにつながっているかを見ておくのです。ペテロ第一2:2の主動詞は、「慕い求めなさい」という命令の形ですから、主語はありません。しかし、この命令をお与えになっているのは神で、それを守るのはわたしたちです。この箇所を丸暗記するだけでなく、「何を」、「なぜ」、「どのように」慕い求めるのかを理解したうえで、この箇所を暗唱したいと思います。

 一、霊の糧

 わたしたちが慕い求めるべきものは「霊の乳」です。赤ちゃんは、胎内では、母親から酸素や栄養をもらいますが、「オギャー」と産声をあげたときから自分で酸素を取り入れ、自分の口で乳を飲んで栄養をとりはじめます。赤ちゃんがミルクを飲まなかったら、とても心配です。成長しないばかりか、悪くすれば死んでしまうかもしれません。赤ちゃんにとってミルクはその命を支えるものです。

 新生したクリスチャンにとっての「ミルク」は「神の言葉」です。「霊の乳」という言葉は原語で“logikos gala”と言いますが、“logikos”には、「霊的」という意味とともに「論理的」、「原理的」という意味があります。世界とわたしたちの人生の究極の論理、原理は、神の言葉です。神の言葉は、愛の言葉、慰めの言葉であるとともに、筋の通った論理の言葉、真理の言葉です。ですから、“logikos gala”は「みことばの乳」と訳すことができますし、そのほうが分かりやすいと思います。英語では King James や New King James、日本語では新改訳聖書が「みことばの乳」と訳しています。主イエスが「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)と言われたように、わたしたちの「霊の糧」は、神の言葉です。

 「神の言葉」が「霊の糧」であるというのは、それが慰めや励ましを与え、人生の知恵を与えるからだけではありません。もし、それだけのことなら、何も聖書でなくても、さまざまな書物から、名言・金言を引用してくればよいでしょう。そんな言葉を集めた本がたくさん出版されています。ビジネスマンが使う手帳などには、ページごとにビジネスの意欲を高めるような言葉が載っています。しかし、そうしたものは、人の心に刺激を与えることはできても、究極の真理を指し示すことはできません。まして、人を造り、人を生かす、いのちのみなもとである神を教えることはできません。しかし、聖書は、わたしたちに霊の命を与えます。その霊の命を支え、養う神の言葉です。

 聖書が「神の言葉」と呼ばれるのは、それが神について書いてあるからというだけではありません。神ご自身が、それによってわたしたちに語りかけてくださるからです。わたしたちは、この神の語りかけによって、生かされ、養われるのです。神は「光よ、あれ」と語りかけ、その力ある言葉によって世界を造られました。神の言葉には、神の力やいのちが含まれています。それを信じて聞くとき、神の語りかけが、わたしたちを新しく造りかえ、わたしたちの人生を変えるのです。今まで自分を楽しませることしか考えず、目先のものしか求めてこなかった人々が、神の言葉によって変えられ、生きる意味や目的を真剣に求めるようになっています。人生に虚しさしか感じなかった人々が、神の言葉によって、真理を知るようになっています。自分の弱さに閉じこもっていた人々が、神の言葉によって、自分の課題に取り組むようになっています。失望しきっていた人々が、神の言葉によって、力強い歩みへと導かれています。そんな証しが、わたしたちの身近に、また、世界中に数えきれないほどあります。みなさんも、毎日、神の言葉に生かされ、力づけられていることでしょう。そのことを互いに証ししあいましょう。そして、わたしたちの命の糧である神の言葉をもっと慕い求めていきたいと思います。

 二、霊の成長

 次に、神の言葉を慕い求める理由、その目的についてですが、それは、信仰者たちが「それによっておい育ち、救に入るようになるため」です。神の言葉によって生まれた者が成長するためです。ペテロ第一1:23に「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によったのである」とあるように、わたしたちは主イエス・キリストを信じて、新しく生まれ、救われました。しかし、それで終わりではありません。新しく生まれることはゴールではなく、スタートです。そこから成長がはじまり、完成を目指すのです。

 赤ちゃんの誕生はとてもうれしいことで、みんなでお祝いします。しかし、無事誕生したらそれで終わりではありません。赤ちゃんは、母親の胎内にいたときよりもはるかに長い人生をこれから生きていくのです。母親には出産のあとすぐに「育児」という仕事が始まります。誕生がゴールでなく、スタートであるように、「新生」もゴールではなくスタートです。赤ちゃんが、いつまでたっても成長しなかったら、親はどんなに心配するでしょう。そのように、霊の親である神は、神の子どもたちの成長を願っておられるのです。神は、神の子どもたちが、ほんらいの神の御子イエス・キリストの姿に似たものになるようにと、御言葉を与えてくださるのです。

 神は、クリスチャンの霊的な成長のために、まず、教会の中に御言葉の糧を備えてくださいました。わたしたちは、こうして礼拝に集まり、共に同じ御言葉を聞くことによって、共に成長をとげることができます。家庭では、子どもの成長を考えて、バランスのよい食事が出されます。親が作る食事の中には、子どもの嫌いなものがあるかもしれません。でもそれは子どもの健康を考えて作られているのです。もし、子どもが自分の好きなものだけを選んでいたら、丈夫なからだを持つことができません。子どもが、温かく、また、規律のある家庭の中で健全に成長するように、神の子どもたちも、同じ時間に、同じ場所に集まり、神の言葉の糧を共にすることによって成長していくのです。

 教会で共に聖書を学ぶことは、個人的な聖書の学びの指針となります。個人で聖書を読み、学ぶときも、よりいっそう理解を深めることができるようになります。

 新生を体験し、バプテスマを受けて、救いのスタートをきったクリスチャンは、「キリストのようになる」というゴールを目指して成長していきます。このゴールを共に目指し、共に成長を願って、神の言葉を慕い求めていきましょう。

 三、霊の飢え

 では、クリスチャンは「霊的な成長」のために「神の言葉」を「どのように」慕い求めるのでしょうか。それは、「今生れたばかりの乳飲み子のように」です。

 「乳飲み子のように」とありますが、これは、いつまでも乳飲み子のようであってよいということではありません。ヘブル人への手紙に「あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている」(ヘブル5:12)とあります。ミルクしか飲めなかった赤ちゃんも、やがて離乳食を食べ、固いものも食べることができるようになります。クリスチャンも、ミルクだけでなく、固い食物を食べることができるようにならなければなりません。つまり、初歩の教えから、さらに深い聖書の理解へと進んでいくということです。

 現代は、神を否定する教えや絶対的な真理などないという考え方がはびこっています。大学に行くようになると、そうした思想・哲学に触れるようになります。そのとき聖書の教えを体系的に学び、身に着けていたら、そうしたものに振り回されることなく、正しい判断ができるようになります。わたしは、若い人ばかりでなく、どの人にも、聖書の教えを順序だってしっかり学んで欲しいと願っています。

 ここで「乳飲み子のように」と言われているのは、赤ちゃんが旺盛な食欲を持っているように、若いクリスチャンも、長年のクリスチャンも神の言葉への飢え渇きを持つようにということなのです。生後一ヶ月までの赤ちゃんは「新生児」と呼ばれ、いちどにたくさんのミルクを飲むことはできないので、一日に何度もミルクを求めます。「生まれたばかりの乳飲み子のように」、つまり新生児のように、神の言葉を慕い求めたいと思います。詩篇に「わたしはあなたの正しいおきてのゆえに、一日に七たびあなたをほめたたえます」(詩篇119:164)とあります。「七度」というのは、「何度も」、「くりかえし」という意味でしょう。わたしたちも、一日に何度でも、神の言葉を求めて聖書を開きたいと思います。

 家内は、ある先生のメッセージを聞いて、こんな詩をつくりました。

あゝいいなあ
神を愛し 人を愛し
福音を愛して
聖書を絶対の真理として
握っている人の話は…
心が生きる!
わたしもその先生のメッセージに心が生きました。その先生とは、先生が2012年に亡くなられるまで30年間のお交わりをいただきました。わたしが留学するとき、ダラスを勧めてくださったのもこの先生でした。それまでに何度も教会で奉仕していただきましたが、1906年11月に、久しぶりにお会いし、とても励まされました。しかし、私たちが「心が生きる」と感じたのは、そうした人間的なつながりがあったからではなく、先生によって御言葉が御言葉として語られたからでした。

 現代は、旧約の預言者が「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである」(アモス8:11)と言ったように、御言葉の飢饉の時代です。最近の教会では、神の言葉よりも、他のイベントのほうが重要な場所を占め、御言葉に満たされ、生かされる体験が乏しくなってきています。世界中の数多くの指導的な立場にある牧師たちが異口同音にそのことを指摘し、憂えています。わたしたちも、そんな時代の流れの中で、御言葉に飢えていました。そんなとき御言葉が御言葉として語られたことにとても感動したのです。そして、御言葉の飢饉の時代だからこそ、もっと純粋な御言葉を慕い求めていきたいと、心を新たにしたのです。

 この御言葉を暗唱することができたでしょうか。今週、これを暗唱し続けましょう。そして、暗唱するたびに、御言葉を「慕い求める」思いが、ひとりひとりのうちに高められ、御言葉を求めて、聖書に向かい、教会に集いましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはわたしたちに、御言葉によって、新生の恵みを与えてくださいました。この恵みをもっと理解し、この恵みを確信し、あなたが与えてくださった新しい命に生きるため、わたしたちは、さらに御言葉を求めます。御言葉によって生きることがどんなことかを教え、その喜びと力とを日常の生活の中で体験させてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/10/2016