しもべとして生きる

ペテロ第一2:18-21

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2:18 僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。
2:19 もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。
2:20 悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。
2:21 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

 一、しもべへの勧め

 この箇所は「しもべ」への勧めです。一世紀のローマ帝国には六千万人の奴隷がいたと言われています。奴隷の多くは、金持ちの主人に買われ、さまざまな労働に従事していました。口語訳で「しもべ」、新共同訳で「召使い」と訳されている言葉は、そうした人たちをさしています。「奴隷」は身分を指す言葉ですが、「しもべ」は職種を表わす言葉です。奴隷の中にも医者や教師など知的な仕事に携わる人たちがいて、そうした人たちは、たとえ身分は奴隷であっても、尊重されました。しかし、「しもべ」、あるいは「召使い」は、たんなる労働力とみなされ、大切にされませんでした。「奴隷」の身分の人は、人権が認められていませんでしたから、それだけでも不安定でしたが、「しもべ」の立場にあった人たちは、さらに苦しい思いをしていました。

 こんにち、奴隷制度はなくなり、お金で買われて働かされるというようなことも、ごく一部の国を除いてはなくなりました。しかし、どんな社会、組織にも、上に立つ人と、それに従う人とが存在します。雇われている人は雇っている人に頭が上がりませんし、部下は上司が無理なことを言っても聞かなくてはいけません。さまざまな法律によって働く者の人権や立場が守られているとはいえ、不当な労働をしいられたり、上司や同僚から嫌がらせを受けることは、今もある現実です。二千年たっても、働く者の環境、人間関係は、根本的には変っていませんから、きょうの箇所で教えられていることは、現代のわたしたちにもあてはまるのです。

 聖書は、「しもべ」たちに、「心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい」(18節)と教えています。これは裏表なく、誠実で、忠実な働きをするようにとの勧めです。雇用主が不正なことをするから、労働者もごまかしをしてもいいだろうと、いいかげんな仕事をしてはいけないということです。当時の「しもべ」たちは、弱い立場にありましたが、多くの主人は、仕事を「しもべ」たちに任せきりでしたので、主人の目を盗んで悪いことをする「しもべ」たちもいたようです。イエスの譬話にはそうした「しもべ」たちが何人も登場します。主人がいない間に「召使たちを打ちたたき、そして食べたり飲んだりして酔いはじめ」た「しもべ」(ルカ12:45)、主人の財産を浪費していた不正な管理人(ルカ16:1)、また、ビジネスのために主人から預かった資本金を隠して使わなかった「しもべ」(ルカ19:20-21)などです。不誠実で、不忠実な「しもべ」たちが、けっこう多くいたのでしょう。

 しかし、神を信じ、キリストに従う者は、いつの時代、どんな社会でも、そうであってはならないのです。たとえ相手が不正なことをしたらからといって、それを悪事で返すということをしてはなりません。最近の日本では、自動車メーカーが燃費のデータをごまかしたり、政治家が政治資金を自分のために使ったり、大学教授が学術論文の資料を改ざんしたりなどという不正が次々と明らかになってきています。不正は、どんなにうまくごまかそうとしても、いつかは明らかになるものです。「正直者は馬鹿を見る」と言われるような社会であったとしても、誠実に生き、忠実に働くなら、それは必ず認められるときがやってきます。誠実であり、忠実であることは、神に喜ばれるばかりでなく、その人を護るのです。マザー・テレサの言葉に、こんな言葉があります。「神はわたしたちに成功することを求めてはおられない。ただ忠実であることである。」(“God does not require that we be successful only that we be faithful.”)人生の「成功」は「忠実さ」の結果です。神が信仰者を天に迎えてくださるときの最高の褒め言葉は、「良い忠実な僕よ、よくやった」(マタイ25:21)なのです。

 二、神を仰いで

 しかし、不当なことをこらえ、それに忍耐することは、簡単にできることではありません。また、こんにちの職場環境の中では、不正、不当にどう対処し、それを解決するかはとても難しい課題です。しかし、忍耐によって解決できることも多いと思います。一時的な感情で職場を辞めてしまい、あとで後悔することもあるからです。どんな人間関係でも、「もう少し言葉を選んで話すべきだった」と反省することも多いと思います。

 もちろん、忍耐と言っても、聖書が教える「忍耐」はただ我慢するということではありません。我慢を貯めこんでいると、それは「恨み」となって心の中に残り、いつもそれに支配されるようになってしまいます。あまりにもストレスの多い職場に身を起き続けることで、自分を駄目にしてしまうこともあります。ほんとうの「忍耐」は問題を神に委ね、神の解決を待つことなのです。それで聖書は、「もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである」(19-20節)と教えているのです。

 「神を仰いで」と訳されているところは、直訳すると、「神の良心を通して」となります。しかし、これでは意味が通じませんので、多くの英語の翻訳では “for conscience toward God”(神に対する良心のために KJV)と訳しています。つまり、「信仰者の良心は、神に照らされ、正しく物事を考えることができるようになったのだから、その良心に従って忍耐するように」ということになります。日本語では「良心」(conscience)は「良い心」と書きますが、「良心」そのものは、「意識」という意味しかなく、もとから「良い」ものでも、「悪い」ものでもありません。それは良いものに向かえば人を良いものへと導きますが、悪いものに染まれば、善悪の判断もつかないものになってしまいます。ですから、信仰者の「良心」はいつも神に向かい、神のみこころを知っていなければならないのです。

 新改訳はここを「神の前における良心のゆえに」と訳し、新共同訳は「神がそうお望みなのだとわきまえて」と訳しています。口語訳の「神を仰いで」という訳は ESV の “mindful of God”(神を思って) という訳に似ています。人は、苦しみや、悲しみがあまりに強いと、その感情にとらわれてしまって、神を意識することを忘れてしまうことがあります。この状況の中で神のみこころは何だろうか、神が何を望んでおられるのかを問うことをしないで、感情に流されてしまうことがあります。しかし、それでは、本当の意味での忍耐ができません。どんな状況の中でも、わたしたちを見ていてくださる神がおられることを意識していたいと思います。それこそが、わたしたちを本当の忍耐へと導き、不当な苦しみを受けても、それを神に委ね、前進していく力を与えてくれるのです。

 三、キリストにならって

 さて、聖書は、「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(21節)と教えています。「しもべたちよ、キリストがあなたたちの模範である。キリストにならいなさい」と言っているのです。

 キリストが「しもべ」や「召使い」たちの模範になるためには、ご自分が「しもべ」また「召使い」になる必要がありました。実際、「神」であり、「主」であるお方が、「しもべ」になり、「召使い」になられました。ピリピ2:6-8にこう書かれています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」

 イエス・キリストは神のしもべとして神に従われたばかりでなく、人に対しても「召使い」になって腰にタオルを巻き、弟子たちひとり、ひとりの足を洗われました(ヨハネ13:1-5)。主イエスは、人々に仕えられて当然のお方なのに、人々に仕え、ご自分の持っているものをすべて人々にお与えになりました。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコ10:45)と言っておられるとおりです。主は、与えて、与えて、最後にはご自身を、ご自分の命さえも、与えてくださったのです。

 人は、イエス・キリストを信じることによって、「神の子ども」となり、「永遠の命」を受け、「天国」を約束されます。天でキリストとともに治めるようになるのです。これほど高められた地位はありません。しかし、イエス・キリストを信じるということは、同時に、キリストのように「しもべ」となって、神と人とに仕えることでもあるのです。

 初代教会の信仰告白の言葉は「イエスは主である」(コリント第一12:3)でした。人は、「イエスは主である」と告白して救われたのです(ローマ10:9)。しかし、だれでも、自分を「しもべ」とすることなしには、イエスを「主」と呼ぶことはできません。ですから、「イエスは主である」と告白して救われた者たちは、自らをキリストの「しもべ」として生きるように、召されているのです。

 また、キリスト者として成長していくことは、キリストの似姿へと変えられていくことなのですが、キリストは「しもべのかたち」をとられたのですから、キリスト者が、「キリストのしもべ」として生きるところにこそ、キリスト者の成長があるのです。

 すべてのキリスト者が「キリストのしもべ」であり、「しもべ」として生きることを求められているのなら、実際に「しもべ」の立場にある者は、なおのことではないかと、聖書は教えているのです。しかし、「しもべ」として生きることは、人間の罪の性質に反しています。神をさておいても自分が一番になろうとし、自分の思いどおりにまわりを支配しようとすることの中に罪があるからです。「しもべ」として生きることは、生まれつきのままではできないことです。しかし、「しもべ」として生き、「しもべ」として死んでくださったイエス・キリストによって、それは可能です。「キリストは、神のかたちであられたが…」という言葉の前には「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」(ピリピ2:5)という言葉があります。神は、聖霊によって、キリストが持っておられた「しもべ」の心を、信じる者の心に注ぎこんでくださるのです。それによってわたしたちも、誠実に忠実に働き、神を仰いで忍耐し、キリストの模範にならうことができるようになるのです。

 「しもべ」として生きる生き方は、一見、低くてつまらない生き方のように見えますが、決してそうではありません。それは神と人を尊ぶすぐれた生き方です。ほんとうの意味で霊的に高いところを目指して歩んできた人はみな、そういう生き方をしてきました。人々は、そうした生き方の中にイエス・キリストを見出してきました。わたしたちも、それぞれが自分の置かれた立場で「しもべ」となって神と人とに仕えるとき、それによって主イエスを証しすることができるのです。そのような証しを積み重ね、やがての日に「よくやった。良い、忠実なしもべよ」とのお言葉をいただけるお互いでありたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちが、「しもべ」として生きることによって、主イエスをあがめ、主イエスを証しすることができますよう、助けてください。わたしたちが「しもべ」として生きることができるため、みずから「しもべ」となってくださった主イエスのお名前で祈ります。

9/25/2016