天への旅

ペテロ第一2:11-12

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2:11 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
2:12 異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。

 一、天のふるさと

 ずっと以前のことですが、ある教会でゴスペル・シンガーの織田泰博(おだ・やすひろ)さんをゲストに迎えたことがありました。午後の集まりで、賛美歌の他、「ふるさと」も歌いました。そこには、日本を離れて長年アメリカに住んでいる人が多くいたので、「ふるさと」を歌う人たちの目に涙が浮かんでいました。織田さんは、「賛美歌を歌っても涙を流さないのに、『ふるさと』なら涙を流すのですか。クリスチャンらしくないですね」と冗談を言っていましたが、織田さんもまた、「ふるさと」に涙にする気持ちをよく理解していました。誰にも「ふるさと」があり、「ふるさと」に対して特別な感情があります。遠く離れて外国に住み、そう簡単には帰れない状況では、「ふるさと」をいっそうなつかしく思うものです。

 今朝の聖書に「あなたがたは、この世の旅人であり寄留者である」(11節)とあります。ペテロの第一の手紙は「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち」(1:1)に宛てて書かれました。この人たちは信仰のゆえに迫害を受け、実際に難民や寄留者になっていました。しかし、ここで「あなたがたは、この世の旅人であり寄留者である」と言われているのは、実際に外国に住んでいる人ばかりでなく、すべてのクリスチャンに対してでもあるのです。

 しかし、「あなたがたは、この世の旅人であり寄留者である」などと言われると、心細い気持ちがします。けれども、イエス・キリストを信じる者は、神の民、神の子どもであり、天で生まれ、その国籍は天にあります(ピリピ3:20)。天が「ふるさと」であり、天から出て、天に帰るのだということがほんとうにわかれば、地上で「旅人」であり「寄留者」だったとしても、決して心細くはなく、天の「ふるさと」というはっきりとした目的があることに力づけられるのです。

 しかし、そのためには「天」が現実のものになっていなければなりません。みなさんにとって、「天」は現実のものでしょうか、それとも、言葉だけのものでしょうか。自分が生まれ育ったところに特別な愛着を持つように、「天」にあなたの心があるでしょうか。どうしたら、「天」が現実のものとなり、確かなものとなるのでしょうか。

 それは、まず、イエス・キリストの救いを体験することによってです。イエス・キリストを信じる者は、罪から救われた喜びを知っています。闇から光へ、死から命に移された体験を持っています。イエス・キリストによる救いは、たんに幸運に恵まれるとか、心理的に解放されるとかいった、地上のレベルのものではありません。救いは「天」の力によってなされたものです。「天」で起こった大きな変化です。主イエスは「罪人がひとりでも悔い改めるなら、…大きいよろこびが、天にある」(ルカ15:7)と言われました。真実にイエス・キリストを信じている者は、この「喜び」を持っています。それを通して「天」を知っているのです。また、主は「あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)とも言われました。「天」を確信していなければ、「天に名がしるされている」という救いの確かさを体験することができないのです。

 そして、信じる者にとって「天」が確かなものであるのは、そこに主がおられるからです。主は「天」から来られ「天」に帰られたお方です。主は「天」にお帰りになるとき、こう約束されました。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:2-3)主がそこにおられる。だから信じる者は、「天」を確信するのです。自分の愛する主がおられるところを慕い求めるのです。

 二、地上の歩み

 「天」は現実です。信仰者の国籍がそこにあり、その名がそこにしるされていることは確かな事実です。信仰者は、地上で、天の喜びを味わうことを許されています。しかし、今はまだこの地上に生きています。「天」で生まれた者が地上で生きるのは、決して容易いことではありません。曲がった世をまっすぐに生きようとすると、どこかでぶつかります。時代によって価値観が変っていく中で変わらぬものを守ろうとすれば、まわりから置いていかれます。見えない神を慕い求める生き方は、まわりから理解してもらえないでしょう。集団や社会には、自分たちとは違ったものを弾き出そうとする力が働きますから、真実な信仰者はいつの時代も社会から「旅人」、「寄留者」、そして「異邦人」とみなされてきました。

 しかし、11節には「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」とあって、信仰者がこの世で「旅人」であり、「寄留者」であって良いのだ、この世では「旅人」であり続け「寄留者」であり続けるようにと教えられています。この世の人はこの世の仕組みに従い、その定めに生きます。しかし、信仰者はこの世では「旅人であり寄留者」であって、この世のものではないのですから、この世の欲望に従う必要はないのです。いや、それ以上に、神のみこころに逆らうものを避けなければならないのです。

 信仰者であっても、目に見えるもの、地上的なものに心を奪われることがあります。一時的な快楽のためや、人から良く思われたいために安易な選択をして、この世に飲み込まれてしまうことがないとは言えません。信仰者は、自分がイエス・キリストによってこの世から救われ、天に属する者とされたことを完全に忘れることはできません。どんなにしても心のどこかにその意識は残っています。ですから、この世に引っ張られていくとき、葛藤を感じ、痛みを覚えるのです。しかし、どっぷりこの世に浸ったり、神に半分、この世に半分と「二股をかける」ようなことを続けていると、そうした葛藤や痛みがうすらいできます。しかし、それこそが、信仰者にとって一番危ない状態です。信仰者には、神に従うという、きっぱりとした決断が必要です。

 クリスチャンはすでに救われています。罪の赦しから来るた喜びや平安を味わっています。しかし、この世にはまだ罪があります。自分自身の罪に負けてしまったり、他の人の罪に巻き込まれたり、社会の罪に縛られたりします。ですから、地上に生きるかぎり、信仰の戦いは続きます。けれども、クリスチャンは、その中であきらめることなく、罪の力から救われ、罪からきよめられることを願い求めながら生きています。それは、やがて「天」に帰るとき、罪そのものから完全に救われるという希望があるからです。この天への希望が信じる者を支えます。この希望をしっかりと保って、信仰の目を覚ましていたいと思います。

 12節には、信仰者の地上の歩みについてもうひとつのことが教えられています。「異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。」ここで「異邦人」とあるのは、まだ信仰を持たない人々のことを指します。クリスチャンは、信仰を持たない人たちから、「旅人」、「寄留者」、「異邦人」と呼ばれていました。この世から「自分たちの仲間ではない」とされ、弾き出されていたのです。しかし、聖書は、イエス・キリストを信じようとしない人のほうが、神から遠い「異邦人」であり、キリストを信じる者が「神の民」であると言っています。

 ここでクリスチャンでない人が「異邦人」と呼ばれているのは、クリスチャンが自らを誇り、まだ信仰を持たない人を軽蔑するためではありません。そうではなく、「神の民」であるクリスチャンが、まだクリスチャンでない人たちにしなければならない責任が、ここでは教えられているのです。その責任とは、「りっぱな行い」によって人々に「天」を証しするということです。しかし、「りっぱな行い」とは何なのでしょうか。それは、人々の注目を集めることや、何か大きなことをすることでしょうか。もし、そうだとしたら、そうしたことができる人はほんのわずかしかいません。信仰者にとっての「りっぱな行い」とは「信仰」の他ありません。この世で神の民として生きること、それが人々への証しとなるのです。自らが「旅人」「寄留者」として生きることと、他の人に神を証しすることとは、別のことではありません。信仰者が信仰者として生きること、それが、一番の証しなのです。

 三、巡礼の旅

 最後に、この「天への旅」が「巡礼の旅」であることを見ておきましょう。どの宗教にも、聖地への巡礼があります。クリスチャンにとっての「聖地」は主イエスがそこに足跡を残されたイスラエル、とくにエルサレムです。古代からエルサレムへの巡礼が盛んに行われました。しかし、主イエスがエルサレムにおられるわけではありません。主がおられるのは「天」です。したがって、信仰者が目指すのは「天」です。信仰者が憧れ、そこを目指すのは、地上のどこかの「聖地」ではなく、「天」の「聖所」です。クリスチャンは、そこで、顔と顔を合わせて主イエスに見えるために信仰の旅をしているのです。

 「教会」の「定義」のひとつに「教会とは天を目指す巡礼者の群れである」というのがあります。アメリカ、しかも、テキサスというバイブルベルトのバックルのようなところにいますと、教会が社会に根付いており、教会が「巡礼者の群れ」であることを忘れがちですが、教会はこの世に腰をおろす群れではないのです。また、教会は、自らが大きくなっていくことを目的とするものではありません。教会は人々に「天」を指し示すもの、人々を天に目を向けさせるものであり、自分を指し示し、自分に目を向けさせるものではないのです。屋根の上に、「スティープル」(steeple)と呼ばれる先の尖った塔のある教会堂がよく見かけられますが、この「尖塔」は、教会が天を目指すものであり、人々に天を指し示すものであることを物語っています。ですから、たとえ教会が、どんなに様々な活動を盛んに行い、そこに親密な人と人とのつながりがあったとしても、それが、天におられる神の素晴らしさを宣べ伝え、天への巡礼の旅を励まし合うものでなければ、教会につけられた「尖塔」(スティープル)は意味を持たなくなってしまうのです。

 毎週の礼拝は巡礼の旅の一里塚、毎月の主の晩餐は宿場での食事です。わたしたちは礼拝と主の晩餐を繰り返すごとに天のふるさとに近づくのです。この地上の礼拝から、天の礼拝を垣間見て、いつも目的地を確かめるのです。そして、主の晩餐で、巡礼の旅のための力を得るのです。主の晩餐の式辞に「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」(コリント第一11:26)とあります。主の晩餐は、主が成し遂げてくださった十字架の救いを覚えると共に、「主がこられる時」、つまり、救いの完成の時を待ち望むものなのです。

 さらに、「主の死を告げ知らせる」の「告げ知らせる」という言葉には「説教する」という意味があります。主の晩餐では多くの言葉は語られません。しかし、主の晩餐そのものが十字架の主、復活の主、そして再臨の主を雄弁に語っているのです。そのメッセージを聞き、再び巡礼の旅へと歩み出すわたしたちは、その旅の途中、道行く人たちに、聞いたメッセージを語り伝えるのです。そのようにして、この天への巡礼団に人々が加えられていくのです。「あなたがたは、この世の旅人であり寄留者である。」この自覚を与えられ、今朝も、この礼拝から、この晩餐式から、天を目指す旅を歩み続けたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちはこの世で旅人であり寄留者です。今、このことが感覚的にわからなくても、信仰によってその事実を受けとめる者としてください。そして、この信仰に生きることによって、わたしたちのうちに「天のふるさと」を慕い求める思いを増し加えてください。あなたが備えてくださった主の晩餐によって、わたしたちを強め、天のふるさとへと喜びをもって進んでいくことができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/3/2016