聖霊の宮

ペテロ第一2:1-5

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2:1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
2:3 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(コリント第一12:27)これは、今年の教会の標語です。このみことばにもとづいて、この一年を通して「教会とは何なのか」ということを学んでいく予定です。前回は「キリストのからだ」としての教会について学びましたが、今朝は、「建物」としての教会について学びましょう。聖書は、教会をさまざまなものにたとえていますが、今朝の箇所では、教会が「建物」にたとえられていますが、実は、教会を「建物」にたとえたのは、使徒ペテロがはじめてではなく、主イエスご自身でした。それは、マタイの福音書16章にありますので、そこから学ぶことにしましょう。

 一、教会の土台

 マタイの福音書16章で、イエスが教会を建物にたとえた部分は13節からですが、そこにはイエスが弟子たちにした二つの質問が書かれています。第一の質問は、「人々は人の子をだれだと言っていますか。」というものでした。弟子たちは、「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えました。さまざまな答えがありましたが、それは、人々がそれぞれに「イエスはこんな人だ、あんな人だ」と考えていたためです。今も、イエスが誰であるかについて、さまざまな意見や考え方があります。多くの人は、イエスこそ神の子、救い主と信じていますが、たんに宗教の教祖にすぎないと考える人も、悲劇の殉教者と見る人もいます。イエスをどのようなお方と考えるかについては、様々な意見があります。イエスの第一の質問は、人々がイエスについてどう考えているかという、客観的な事実を問うものでした。それは、人々の意見を聞いてまわれば答えることのできる質問です。現代風に言えば、リサーチによって答えを出すことのできる質問です。

 しかし、二番目の質問は、最初の質問と違っています。イエスが弟子たちに、改めて、問うた質問は、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」というものでした。最初の質問は、客観的な質問でした。弟子たちは、自分の意見を入れないで、見聞きしたことを答えれば良かったわけです。ところが、二度目の質問は、主観的な質問です。「人々は、わたしのことを様々に考えている。では、あなたは、わたしを誰だと言うのか。」と弟子たちに問われたのです。この質問に答えるには、他の人がどう言っているか、どう考えているかを調査すればよいというのでなく、イエスをどう見るのか、イエスにどう応答するのかという、信仰が問われているのです。イエスのこの質問に対してペテロは、弟子たちを代表して「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。イエスは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。」と言って、ペテロの答えを喜び、ペテロに、「あなたはぺテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」と言われたのです。ペテロは、もとの名を、「バルヨナ・シモン」、つまり「ヨナの子、シモン」と言いましたが、イエスによって「岩」という意味の「ペテロ」という名前をつけられていました。イエスは、この時、「あなたは、わたしが名づけたとおり、ほんとうに岩だ。わたしはこの岩の上に、それを土台として、わたしの教会を建てる。」と言われたのです。

 ここで、主イエスが教会を「わたしの教会」と呼んでおられることに注意してください。教会は、主イエスが天にお帰りになり、天から聖霊を遣わしてくださった日、ペンテコステから始まりました。この時はまだ、教会ははじまっていなかったのです。しかし、主は、すでに「わたしはわたしの教会を建てる」と言っておられます。教会は、キリストを信じる者たちが、後になって「いっしょに集まって何かをしようじゃないか。」と言って作り出したものではなく、最初から神の計画の中に、主イエスのおこころの中にあったのです。教会は、主イエス・キリストがはじめてくださった、主イエス・キリストの教会であって、弟子たちが作り出した、弟子たちの教会ではないのです。

 イエスは「わたしは…わたしの教会を建てる」と言われ、教会を建物にたとえましたが、この建物の土台は、なによりも、イエス・キリストご自身です。キリストを土台に持たないものはキリストの教会ではありませんし、教会はキリスト以外のものを土台とすることはできません。使徒パウロはこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(コリント第一3:10-11)教会は、キリストという土台の上に建てられた家です。土台が家を支えているように、イエス・キリストが教会を支えているのです。

 キリストは教会の土台ですが、キリストを信じる者たちも、キリストとともに教会の土台となると、聖書は言っています。キリストが土台の親石、かしら石で、キリストを信じる者たちも、そこにつらなるのです。イエスはペテロに対して「あなたは岩です。」と言われました。ペテロもまた教会の土台になったのです。しかし、ペテロが、教会の土台となったのは、彼の、生まれつき能力や素質によってでしょうか。いいえ、生まれつきの彼は、熱心ではありましたが、弱さを持った人で、とても教会の土台となることのできる人ではありませんでした。ペテロは、イエスが捕まえられた時、大祭司の官邸まで、ひそかにイエスについていきましたが、その官邸で、彼がイエスの弟子であることが分かると、「私は彼の弟子ではない。イエスなど知らない。」と、主イエスを否定し、裏切ってしまったのです。イエスが「この岩の上にわたしの教会を建てます。」と言われたのは、生まれつきのシモンの上にではなく、「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」と告白した、信仰者としてのペテロの上にでした。教会は、生まれつきの「シモン」たちのあつまりではなく、イエスをキリストと言い表わし、「ペテロ」に変えられた人々の集まりです。教会は「信仰告白者の群れ」とも呼ばれますが、教会は、キリストを土台とし、また、イエスをキリストと告白する人々を土台としてつくりあげられていくのです。「では、あなたはわたしを誰だと言うか。」というイエスの問いは、今日の私たちにも問いかけられています。「人々はイエスを誰だと言っているか。」という質問は、キリスト教を勉強すれば、答えられるかもしれません。しかし、「では、あなたはわたしを誰だと言うか。」という質問には、勉強しただけでは答えることはできません。弟子たちが、イエスをキリストと告白したのは、決してリサーチの結果ではなく、イエスとの出会いを体験し、三年間寝食をともにし、その教えを聞き、そのみわざを見て、引き出した結論でした。おひとりびとりに、そのようなイエスとの出会いが与えられ、イエスをキリストと告白する信仰が与えられるよう、そして、キリストとともに教会の土台の一部にしていただける喜びにあずかっていただきたいと、心から願っています。

 二、教会の使命

 ペテロは、イエスを否定し、裏切りましたが、その罪を悔い改めた後、聖霊の力をいただいて、文字どおり、初代教会の土台となり、柱となりました。ヨナの子シモンは文字通りの「ペテロ(岩)」となったのです。ペテロはその手紙に「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」(ペテロ第一2:3)と書きましたが、ペテロこそ、イエス・キリストのいつくしみを深く味わい知った人でした。ペテロは、「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」(4節)と書いています。ペテロは、主を否定したのですから、主に捨てられてもしかたがなかったのです。しかし、主はペテロを見捨てませんでした。主イエスは、ご自分の民から捨てられたお方であり、捨てられたものの心を知っておられるのです。それで、主は、捨てられた石のようになっていたペテロを拾いあげ、「生ける石」にしてくださったのです。それで、ペテロは、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」(5節)と呼びかけているのです。どんな人も、たとえ、捨てられたもののようになっていても、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」という信仰の告白をもってキリストのもとに来るなら、キリストはその人を「生ける石」に造り変え、教会の土台や材料にしてくださるのです。「主のもとに来なさい。」と、ペテロは呼びかけていますが、これは彼の体験から出た、実感のこもったことばです。たとえ、人の世から見捨てられたようになっていたとしても、さみしく片隅にうずくまっている必要はないのです。誰でも、主イエスのもとに来るなら、その人は生ける石となって、キリストが建ててくださる建物の土台となることができるのです。

 しかも、その建物は、建物の中でも最も大切な建物、「神の宮」、「神殿」なのです。コリント第一3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とあるとおり、教会は神殿です。キリストへの信仰を言い表わして主のもとに来る人は、すべてのものの主であり、栄光に輝くお方の住まいとなるのです。ペテロの手紙では、教会が「霊の家」と呼ばれていますが、それは、教会が聖霊の宿るところ、「聖霊の宮」だからです。

 教会が「聖霊の宮」であるというのは、何を意味するのでしょうか。神殿は、神がそこにおられるということを表わす場所ですが、教会もそのように、神がそこにおられるということを表わすところなのです。神の存在を、人々に示すこと、それが教会の使命です。神は永遠のお方であって、いつの時代も、どこにでもいてくださいますが、現代は、神が今、ここにおられるということを見出すのが困難な時代です。「こんなに不合理なことがいっぱいあるのに、それでも神はおられると言うのか。」というのが、教会に投げかけられた疑問であり、またチャレンジです。それに対して「教会に来なさい。ここに神がおられます。」と言うことができるようになりたいと願っています。神の宮が神の臨在を表わす場所であるように、教会も、ここに神がおられるということを表わす場所でありたく思います。

 旧約時代の神殿では、祭司が朝、夕、いけにえをささげて、神を礼拝していました。今は、動物の犠牲をささげることはありませんが、そのかわりに、賛美や祈りをささげ、わたしたちの心をささげ、からだをささげて、私たちは神を礼拝します。それで、ペテロは「聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」(5節)と教えています。教会は礼拝の場所として存在し、教会が第一にすべきものは礼拝だというのです。もちろん、教会には、礼拝以外のさまざまな活動が必要です。教会を支える柱には、礼拝のほかに伝道、教育、福祉といったものがあります。しかし、伝道の働きは、人々を神を礼拝する者にすることであり、教会の教育の働きは、人々を礼拝者として整えることであり、教会の福祉の働きは、より多くの人々が共に礼拝を守ることができるよう配慮することであると言っても良く、それぞれは、礼拝が中心に、あるいは、礼拝が第一にあって、はじめて、目的や意味を持つのです。他のことがどんなに活発でも、そこに霊とまことをもってする生きた礼拝がなければ、それは教会と呼べないものになってしまうでしょう。たとえ、他の活動が何もできなくなったとしても、もし、そこで真実な礼拝が守られているなら、その教会は命を保ち、かならず、息を吹き返すでしょう。教会は神殿であり、神の臨在を表わす場所ですが、中でも礼拝は、最も神の臨在を表わすものです。礼拝で、人々が、神の真実や愛に触れることができなくて、どこでそれができるのでしょうか。教会は、共に礼拝を守っていく中に建てあげられていきます。私たちの礼拝堂には、観客席があってはならないと思います。ひとりびとりが、主によって、礼拝者として招かれているのです。ひとりびとりが、祭司となって、神への礼拝をささげるのです。私たちの教会の、この礼拝が、人々に「神がここにおられる」ということをあかしできるよう、ごいっしょに励みましょう。

 三、教会の建設

 今ほど、私は、「教会が礼拝によって建てあげられていく。」と申しましたが、聖霊の宮、神殿としての教会は、実は、只今建設中なのです。ペテロは「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられなさい。」と言っています。「築き上げられました。」とは言っていません。築き上げられつつあり、まだ出来上がっていないのです。それが、完成するのは、キリストの再臨の時ですが、その時まで教会は建て続けられるのです。教会の完成のために、もっともっと生ける石が必要なのです。使徒パウロも、エペソ3:20-22で、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このようにキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」と言っています。聖霊の宮である教会は、出来上がってしまった建物ではなく、常に、新しく「生ける石」が加えられ、成長しているものなのです。

 ある人は、このことを「教会は只今、工事中!」と言いました。教会は工事現場のようなものですから、散らかっていて、躓いて倒れたり、上からものが落ちてきて、怪我をしたりということがあるかもしれません。足場が崩れて大変な目に遇うかもしれません。あってはならないことですが、教会で躓きを経験したり、こころに傷を受けたりすることがないともかぎりません。そういうことが起こると、教会に属する者は失望し、教会の外の人々も、期待を裏切られた気持になります。教会は、キリストにつながるもの、神によって生み出されたものなのに、なぜ、そんなことがあるのかと疑問を感じます。そのようなことが起こるのは、教会は、いまだ地上にあって、それぞれの地域の文化や、各時代の影響を受け、罪も弱さも持った不完全な人々で構成されているからです。教会は過去に様々な罪や過ちを犯しましたし、今も、聖書が教える基準に立っていない教会があり、キリストではなく人間がかしらになっている教会もあることでしょう。ですから「キリストは好きだが、教会は嫌いだ。」と言う人がいても不思議ではありません。既成の教会を批判して、さまざまなクリスチャンのグループが出来ました。日本には、「無教会主義」というものもあります。しかし、どんな名前をつけようと、それもやはり「教会」であって、ほんとうにキリストを愛する者は、教会の中の不正や偽善を憎むことはあっても、決して教会を憎むことはできないのです。教会の中に足らないものを見て嘆くことはあっても、だからと言って教会を否定することはできないのです。地上の教会は、まだ未完成です。それは建築中です。だからこそ、キリストを愛する者は、教会を愛し、教会が、キリストのみこころのとおりに建てあげられていくように励むのです。

 こんな話があります。何人もの男たちが大きな石にロープをつけて丘の上に引き上げていました。石を滑りやすくするために、石の下に丸太をならべ、少し動かしてはまたそれを並べ替えるというようにして、長い坂道を登っていました。そこにとおりかかった旅人が好奇心から「どうしてこんな大きな石を運んでいるのかね」と聞きました。一人の男が、苦しそうな顔をして、こう言いました。「そんなこと知るもんか。俺は一日何ドルかで雇われただけさ。しかし、こんなにきつい仕事じゃ割にあわないぜ。」ところが、一緒に働いていた別の男は、汗だらけの顔でしたが、白い歯をみせてこう言いました。「だんな、ご存知じゃないんですか。この丘の上にはね、この町一番の立派な教会が建つんですぜ。これはね、その礎石なんですよ。さあ、もうひとがんばりだ。」どちらの男が喜びを持っていたか、そして、その日の仕事に満足できたか、お分かりですね。サンタクララ教会に集う者たちみなが、この教会は、キリストとともに、私が建てているのだという意識を持つことができたら、ひとりびとりが石を運ぶだけではなく、自分自身が、「生ける石」になって、聖霊の宮の一部となることができたら、教会のための苦労もまた喜びとなり、それは主を喜ばせることになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちを生ける石にし、聖霊の宮の一部にしてくださいました。あなたが、わたしたちのうちに住み、教会によって、あなたの臨在を示してくださるというのは、なんという特権でしょうか。この栄光ある特権を喜び、あなたの臨在を表わすという使命を私たちに、果たさせてください。主イエスが「わたしはわたしの教会を建てる。」と言われたように、キリストが教会の礎となり、また、所有者、建設者となってくださいます。この主イエス・キリストとともに、あなたの宮である教会を、喜びをもって建てあげていく私たちとしてください。教会のかしら石、イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/18/2004