輝きにみちた喜び

ペテロ第一1:6-9

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1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
1:8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
1:9 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

 このお言葉には読むだけで心に響くものがあります。ここには、神が与えてくださる信仰の喜びが、それこそ、輝いていて、それが伝わってきます。この喜びは「言葉につくせない」ものですが、出来る限り、言葉をつくしてお話ししたいと思っています。

 一、信仰の喜び

 この喜びは、第一に、「信仰の喜び」です。9節に「それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」とあります。「信仰の喜び」とは、イエス・キリストを信じて救われた「喜び」ということです。

 聖書で言われている「喜び」は、たんに、うれしいこと、楽しいことというようなものではありません。それは、もっと深いものです。6節に「さまざまな試錬で悩まねばならない」とありますが、「悩む」と訳されている言葉は、原語では、「喜ぶ」の反対語、「悲しむ」という言葉が使われています。6節には、「あなたがたは悲しんでいる、でも、喜んでいる」という、正反対のこと、矛盾と思えることが語られています。しかし、「悲しんでいる、でも、喜んでいる」というのは、信仰の世界では矛盾ではありません。聖書が教えているのは、「悲しみの中にも喜びがある」、「悲しみによって消し去られない喜びある」ということなのです。

 わたしたちの人生は喜びだけで成り立っていません。日本語に「悲喜こもごも」という表現があるように、喜びと悲しみが入り混じっています。もしかしたら、悲しいことのほうが多いかもしれません。ほとんどの人が、悲しみがあれば喜びはなくなり、喜びがあれば悲しみは消えていくと考えています。しかし、神がくださる喜びは悲しいことが起こっても消えることのない喜びです。また、神から来る喜びがあれば、どんな悩みも、苦しみも、悲しみもやって来ない、毎日がハッピーであるというのもありません。イエス・キリストを信じる信仰は、わたしたちを幸いに導くものですが、それはこの世の現実から目をそらせて、人をハッピーな気分に酔わせるものではないのです。聖書は、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」(使徒14:22)と教えています。ジャン・カルヴァンは「信仰者は丸太ではないし、悲しみに影響されず、危険を恐れず、貧しさに平気で、厳しく耐えられないような迫害にも動じないほどに、人間の感情を脱ぎ捨てたわけでもない。信仰者も悪のゆえに悲しみを経験する。しかし、それは信仰によってやわらげられており、それと同時に、絶えず喜んでいられるのである。悲しみは喜びを妨げるものではない。むしろ、喜びに場所を譲るのである」と言っています。

 「悲しんでいる、でも、喜んでいる。」この喜びを知っているのは、信仰者たちです。ペテロの第一の手紙は、イエス・キリストを信じる人たちに宛てて書かれました。しかも、この人たちは、信仰のゆえに迫害を受け、故郷を追われ、外国に寄留している人たちでした(1節)。寄留者、さらに迫害されている人たちといえば、最も不幸な人々といわれても不思議ではありません。彼らは、人々から見捨てられました。しかし、神に選ばれています。社会的には抹殺されたかのように見られていました。しかし、イエス・キリストによって新しい命に生かされています。人々は、信仰者を何か汚れた者たちのように扱いました。しかし、信仰者こそ、聖霊のきよめを受けているのです(2-3節)。迫害によって地上の財産を失いました。しかし、天に「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」を蓄えているのです(4節)。

 主イエス・キリストを信じることによって、神はわたしの神となってくださり、わたしは神の子どもとされました。天はわたしのもとなりました。わたしたちに、この救いの確信があれば、たとえ、悲しく、辛い出来事の中でも、喜びがまったくなくなってしまうことはありません。主イエスを信じたとき、どれだけ大きな恵みを受けたのかを知り、そのことを確信していたいと思います。主イエスが弟子たちに「あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と言われたように、イエス・キリストによって与えられている救いを確信して、それによって、消えることのない喜びを保っていたいと思います。

 二、愛の喜び

 主イエスがくださる喜びは、第二に「愛の喜び」です。8節に「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」とあります。ペテロの手紙を受け取ったクリスチャンはイエス・キリストを信じただけでなく、愛していました。もし、そうでなければ、迫害を受けることもなかったでしょうし、迫害に耐えることもできなかったでしょう。まわりからのプレッシャーで、信仰を隠したり、妥協した生活に戻っていったかもしれません。彼らは、主を愛しており、信仰によって救われた喜びだけでなく、今、主イエスが共にいてくださるという喜び、主イエスに愛され、主イエスを愛する喜びを持っていました。その喜びに満たされていました。

 ほんらい、イエス・キリストを「信じる」ことと、「愛する」こととは同じこと、ひとつのことであるはずです。しかし、イエス・キリストを信じたばかりで、まだ、主イエスの素晴らしさが分からず、主イエスへの愛が育っていないということもあります。それとは逆に、長年のクリスチャンでも、信仰生活がマンネリ化し、主イエスへの「初めの愛」を失うこともあります。また、「愛する」ということが、感情的なものだけで終わって、「イエスさま、あなたを愛します」などと言っていても、主イエスと主イエスの言葉を正しく知ろうとしないこともあります。愛する人のことをもっと知りたいと思うのは当然のことですから、主への愛が御言葉への愛、真理への愛と結びついていないとしたら、それは残念なことです。そうした場合、信仰と愛とが分離してしまうのです。

 最初から主イエスの弟子だった人以外は、主イエスを直接は見ていません。しかし、だから、主イエスを信じることができない、愛することができないというのではありません。「信仰は聞くことから来る」(ローマ10:17)とあるように、目で見ることはなくても、耳で聞いて信じ、愛することができるからです。肉眼で見ていなくても、信仰の目で主を見ることができるからです。「目」ではなく「耳」で見ると言っても良いでしょう。パブリック・スピーチの研修会では、「見えるように話せ」ということを学びます。情景や人物をまるで目で見ているように感じさせるのが、一番良いスピーチだと言うのです。そんな観点から見れば、イエス・キリストを見えるように描き出してくれるものは、聖書以外にありません。聖書はわたしたちの前にイエス・キリストを描き出しているのに、それを見ることができないとしたら、それは、わたしたちの側に問題があるのです。聖書を「見るようにして」読み、神の言葉を「見るようにして」聞いていないからです。「主イエスにお会いしたいのです。主イエスを示してください。」そんな祈りをもって神の言葉に向かいましょう。そこから、主イエスへの信仰が生まれます。愛が育ちます。主イエスに愛され、主イエスを愛する喜びで満たされます。

 初代のクリスチャンは「イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛して」いました。「現在、見てはいないけれども、信じて」いました。そして、「言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれて」いました。この喜びが、寄留者としてしての苦しい生活を支えるものとなりました。この体験は、今も真実です。迫害のある国からきたある青年があかしをしました。「人々は、クリスチャンを地面に叩きつけるようにして苦しめます。けれども、わたしたちは、叩きつけられれば、叩きつけられるほど、高く、イエスさまのところに向かって、跳ね上がります。わたしたちには喜びがみちあふれているからです。」とても素晴らしいあかしです。わたしたちも、このような喜びに満たされるなら、苦しみに押しつぶされることはありません。かえって、主イエスに近づくことができます。主イエスに愛され、主イエスを愛する喜びに満たされていたいと心から願います。

 三、希望の喜び

 この喜びは、第三に「希望の喜び」です。クリスチャンには信仰によって、「救われた」という喜びがあります。また、主イエスとの愛のまじわりによって、今、「救われている」という喜びがあります。そして、さらに、「やがて救われる」という喜びがあるのです。

 7節に「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう」とあります。「イエス・キリストの現われるとき」とは、イエス・キリストが再び世界においでになるときです。今、わたしたちはイエス・キリストを肉眼で見ることはできません。しかし、その日には、主イエスと顔と顔とをあわせて見ることができるのです。これは信仰者にとって夢のような出来事ですが、たんなる夢で終わりません。かならず実現します。

 そのとき、主イエスと共に生きた人たちは、きよめられて、主の前に立つことができます。金を精錬するときには、それをるつぼに入れて火で溶かし、「かなかす」(不純物)を取り除きます。迫害や試練、また、さまざまな苦しみは、決して無意味なものではなく、それによって、クリスチャンの信仰や品性、人格や生活から不純なものが取り除かれるのです。

 初代のクリスチャンたちにふりかかった迫害は文字通り、「火のような試練」でした。実際に、十字架にかけれられたうえ火炙りにされた人たちや、タールをかけられ、たいまつのかわりにされた人々も数多くいたのです。しかし、彼らは、それにもひるみませんでした。この世のしばらくの苦しみの向こうには、永遠の喜びが待っていることを知っていたからです。彼らはその希望によって、喜びをいだき、信仰を守り通しました。

 日本でのことです。わたしがまだ学生だったころ、結核の療養所にいるクリスチャンや信仰に興味のある人たちを訪ねていたことがあります。ある日、そこに、牧師先生と、もうひとりの人といっしょに、余命いくばくもないクリスチャンを訪ねました。彼女は個室にいて、あちらこちらにチューブがとりつけられ、寝たきりで起き上がることはできませんでした。少し言葉をかわしたあと、別れるとき、彼女が「祈ります」といって、こう言ったのです。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」ペテロ第一1:3-5の御言葉でした。彼女はそれを暗記していたのです。そして、「イエスさまによって救われたこと、今、救われていること、やがて救われることを感謝します。信仰により神の御力に守られていることを感謝します」と祈り、訪問に来たわたしちのために祈ってくれました。わたしは彼女の姿とその祈りに、天国を間近にみた気がしました。

 イエス・キリストを信じる者には確かな喜びがあります。イエス・キリストを愛する者には大きな喜びがあります。そして、イエス・キリストを待ち望む者には、どんな苦しみをも乗り越えさせてくれる力強い喜びが与えられるのです。この週も、この喜びに生かされ、満たされて歩みたいと思います

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスによって与えられる喜びを感謝いたします。主イエスが与えてくださる喜びは、決して消えることも、しおれることもありません。それはやがての日に栄光とほまれにかわります。どうぞ、わたしたちの日々をこの喜びで満たしてください。そのために、わたしたちが信仰によって、主イエスを仰ぎ見ていることができるよう、助けてください。主イエスによって祈ります。

1/31/2016