聖なる者と

ペテロ第一1:13-17

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1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
1:17 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。

 一、救いの目的

 ペテロの第一の手紙は、1章12節まで、イエス・キリストの救いについて書かれていましたが、13節からは新しい主題に移っています。それは15節と16節に「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」とあるように、救われた者が「聖なる者となる」ということです。「聖なる者となる」ことは、別の言葉では「きよめ」(Sanctification)、または「きよさ」(Holiness) と言います。「きよめ」(Sanctification)は、イエス・キリストを信じて救われた者が、同じ罪を繰り返し犯さなくなり、神の子どもらしく変えられていき、神に従い、神に仕えていくようにしてくださる神のわざのことで、「きよさ」(Holiness)は、「きよめ」の恵みによって形づくられる人格的な実のことです。

 神が、旧約時代にイスラエルをエジプトから救い出し、神の民とされたとき、こう言われました。「わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記11:45)神がイスラエルを「神の民」とされたのは、偶像礼拝にふけり、道徳的に乱れきっていた当時の世界に対して、聖なる神を証しさせるためでした。神が聖なるお方であり、人間にきよい心と正しい生活を求めておられることを示すためには、イスラエル自身が「聖なる者」となる必要がありました。それで神はイスラエルに「聖なる者となる」ことを求められました。

 イエス・キリストを信じる者は、新約時代の神の民です。神は、クリスチャンにも、旧約時代の神の民と同じように「聖なる者となる」ことを望んでおられます。聖書に「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである」(テサロニケ第一4:7)とあります。「神はクリスチャンをきよさ(ホーリネス)に召された」とはっきり書かれています。わたしたちがイエス・キリストによって救われたのは、「聖なる者となる」ためです。「聖なる者となる」というのは救いの目的です。何事でも目的を見失うと、その意義も失われてしまいます。旅行は目的地があるから楽しいので、目的地を失った旅行は、旅行ではなく、放浪になってしまいます。信仰生活は天への旅です。「聖なる者となる」ために救われたということを見失うとき、わたしたちは天への旅て迷ってしまいます。自分が何のために救われたのかを、しっかりと覚えていたいと思います。

 二、命令と約束

 しかし、「聖なる者となる」ことなど、人間にできるのでしょうか。みなさんは、「聖なる者となりなさい」という言葉をはじめて聞いたとき、どう思いましたか。「賢くなりなさい」、「親切にしなさい」、「忍耐しなさい」ということなら、努力すれば、なんとか出来そうですが、「聖なる者となる」というのは、よほど神に近い特別な人だけができることのように感じたのではないかと思います。神は「聖なるお方」です。神は、あらゆるものをこえて高くおられるお方であり、栄光に満ちておられます。天使たちが、昼も夜も、絶え間なく「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美しても、なお足らないほどのお方です。天に住む天使でさえ、神のきよさの前に震えおののいているのに、「あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」(15節)という命令を、人間が守ることができるのでしょうか。人々が、金持ちになりたい、偉くなりたい、有名になりたい、楽しく暮らしていきたいと願い、自分の欲望を満たそうとして競争している中では「聖なる者となる」ことは何の価値もないこと、馬鹿げたこと思われています。もしかしたら、クリスチャンの中でも「聖なる者となる」ことがトップ・プライオリティになっていないかもしれません。そんな中で、わたしたちは、この神の言葉に従うことができるでしょうか。

 もちろん、人間の力ではできません。しかし、神にはおできになります。いや、神はすでにしてくださっています。1章2節ではクリスチャンが「御霊のきよめにあずかっている人たち」と呼ばれていました。イエス・キリストを信じる者は聖霊によって新しく生まれて神の子どもとされています。そして、聖霊は、信じる者のうちに住んでくださいます。聖なるお方は汚れたものの中に住むことはできませんから、聖霊は、わたしたちをご自分の住まいとするために、わたしたちをきよめてくださったのです。ですから、イエス・キリストを信じる者は、ひとり残らず、聖なる者、「聖徒」(Saint)と呼ばれているのです。すでに「聖なる者」とされている、そのことを信じ、「聖徒」としての心を養い、「聖徒」にふさわしく歩んでいくとき、わたしたちは、より「聖なる者」となっていくことができるのです。

 「聖なる者となりなさい」という言葉は、もっと厳密に訳せば「聖なる者とされなさい」となります。受け身の命令形です。聖書では受け身の命令形は特別な意味をもっています。聖書学者たちはこれを「神学的受動態」(theological passive)と呼んでいます。「聖なる者とされなさい」というのは、命令です。しかし、それは、命令でありながら、同時に「わたしがあなたを聖なる者とする」と言う神の約束でもあるのです。神の命令には、どれも約束が伴っています。神は、わたしたちに「このことをせよ」とおっしゃるだけでなく、わたしたちがその命令に従おうとするとき、それを守り、行う力もくださるのです。たとえば、主イエスは、わたしたちに「思いわずらうな」と命じておられますが、同時に「天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」と仰って、神が必要を満たしてくださるという約束を与えておられます(マタイ6:25-34)。わたしたちが神の命令を重荷に感じたり、真面目に受けとめないでいるとしたら、それは、命令に伴う約束を見落としているからです。「聖なる者となりなさい」という命令には、「わたしがあなたを聖なる者とする」という約束が伴っています。この約束を信じて、「聖なる者となる」ことを祈り、求めていきたいと思います。

 三、約束への応答

 では、どのように「聖なる者となる」ことを求めていけばよいのでしょうか。今朝の箇所には、「聖なる者となる」ことが、具体的に示されています。13節は「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい」と言っています。「心の腰」とは何を意味するのでしょうか。「腰」は「からだのかなめ」と書きますから、いちばん大切な部分のことでしょう。イエス・キリストを信じる者の心のかなめは、もちろん、「信仰」です。現代は、ありとあらゆる思想が入り混じっている時代です。聖書が教える信仰を、体系的に、整理された形で学んでいないと、さまざまな教えの風にもてあそばれてしまいます(エペソ4:14参照)。13節には「イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい」とあって、天への「希望」が教えられていますが、消えることのない「希望」は確かな「信仰」からしか生まれません。信仰の学びのために時間を割き、信仰を確かなものとし、「聖なる者とされ」ていきましょう。

 14節には「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず」とあって、神への「従順」が教えられています。信仰を持つ前、わたしたちは自分の思いに従い、この世の流れに従っていました。ある意味では、葛藤のない生活を送っていました。しかし、信仰を持って神に従おうとするとき、神に従わせまいとする力に出会い、心の中での戦いを体験するようになります。しかし、これは「聖なる者となる」ために必要な戦いです。人々から「聖徒」として尊敬されてきた信仰者たちもまた、そうした心の中の戦いを体験しています。しかし、その人たちは誘惑を退け、神のみこころを選びとりました。そして、この世が決して与えることができない幸い、神に従うことによってだけ与えられる喜びを味わってきたのです。

 17節には、わたしたちが「聖なる者となる」ことの、もうひとつの理由が加えられています。「あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである」とあるように、人はそれぞれ、自分の生き方を神に問われる時を迎えます。人は自分の撒いたものを刈り取るのです。自分の欲望のままに生きた者はその実を刈り取り、「聖なる者となる」ことを目指して生きた人は「きよさ」という実を刈り取ります(ガラテヤ6:7-8参照)。もし、地上の人生でそれらを刈り取ることがなくても、神の前に立つ時には、自分の生き方の実を刈り取ります。そのことを思うと、おのずと神への「おそれの心」が生じます。そして、神に喜ばれる生き方をしたいとの願いが強められてきます。この心の願いを、祈りとし、神に求めていきましょう。「聖なる者となりなさい」との神の言葉を真剣に受けとめ、「聖なる者としてください」と祈り、求めましょう。

 15節に「あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」とあるように、「聖なる者となる」とは、そのために、何か特別なことをしなければならないことではなく、日常の中で行われることです。神への信仰、従順、畏れを日常の中で養っていくことなのです。マザー・テレサはこう言っています。「きよめは特別な人たちの贅沢品ではありません。それは、あなたやわたし、また、すべての人の単純な義務なのです。…きよめは並外れたことをすることで成り立つものではありません。それはイエスがわたしたちに送ってくださるものを微笑みをもって受け取ることによって成り立っています。それは神のみこころを受け入れ、それに従うことによって成り立っているのです。」

 あるクリスチャンのラジオ番組は、いつもこの言葉で終わります。"Be a saint! What else?" その通りです。「聖徒」として生きること、「聖なる者となる」ことは誰もが求めるべきもの、また求めて得られるものなのです。神がわたしたちに願っておられることを、わたしたちも願い求める。ここに「聖なる者となる」ことへの第一歩があるのです。この一歩をごいっしょに踏み出しましょう。

 (祈り)

 聖なる神さま、あなたはあなたのもとに行く者をきよめて「聖徒」としてくださいました。自分が「聖徒」とされていることを忘れることなく、「聖徒」として歩み、さらに「聖なる者とされ」ていくことができますよう、導いてください。そして、「聖なるものとされる」こと、「ホーリネス」が、わたしたちの心と、思いの中で第一のものとなりますように。主イエスのお名前で祈ります。

3/6/2016