選ばれた人々

ペテロ第一1:1-2

オーディオファイルを再生できません
1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、
1:2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

 わたしたちは、ホセア6:3の「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」との御言葉で新年をはじめました。教会学校、礼拝、祈り会、家庭集会など、教会のすべての集まりが「主を知る」ために用いられるよう祈り続けましょう。「主を知る」のに聖書の学びは欠かせません。どの聖書も、「主を知る」ために有益なのですが、ペテロの第一の手紙は、今年の目標にかなっていると思いますので、今年は、少しづつ、この手紙を学んでいきたいと思います。

 この時代の手紙は、最初に差出人、次に受取人が書かれ、それから挨拶の言葉へと続くのですが、ペテロの第一の手紙も、その順序で書かれています。わたしたちも、この順にしたがってこの部分を学びましょう。

 一、差出人

 差出人はペテロで、ペテロは「イエス・キリストの使徒」であると名乗っています。エペソ4:11に「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」をあるように、初代教会では「使徒」はキリストが任命された指導者の中で、第一の者でした。一国の大使には、大きな権限があたえられていますが、使徒たちには、キリストの大使としての権威が与えられていました。

 だからと言って、ペテロは自分の権威を誇示するために、自分を「使徒」と名乗ったのではありません。ペテロが強調したかったのは、自分が、他の誰かのではなく、「イエス・キリスト」の使徒であることでした。彼の心は、自分を使徒としてくださったイエス・キリストのことでいっぱいでした。イエス・キリストを伝えたいという思い、イエス・キリストへの信仰を励ましたいという願いでいっぱいでした。実際、ペテロの手紙には、ペテロの個人的なことはほとんど書かれていません。すべてイエス・キリストのこと、イエス・キリストへの信仰のことです。ペテロは、差出人の名前を書くときにも、自分の名前だけを書いて終わることができず、イエス・キリストの名前を書くために、自分を「イエス・キリストの使徒」と呼んだのだと思います。

 「使徒」という言葉のもともとの意味は「遣わされた者」「使者」です。その意味では、すべてのクリスチャンもまた、キリストを証しするようにと、遣わされている「イエス・キリストの使者」です。「使者」は自分のことよりも自分を遣わした方のことを思います。その人から託された使命を大切にし、自分の考えで行動せず、命じられたことに忠実に従います。イエス・キリストの使者であるなら、なにより、イエス・キリストのことを語りたいと願います。「クリスチャン」という名は、「キリストの者」という意味で、そこにはすでに「キリスト」のお名前が入っています。ですから、クリスチャンがキリストを語り、キリストについて語り合うことを大きな喜びとするのは当然のことです。教会で、キリストのことを語り合う喜びが満ちあふれてこそ、教会から家族のもとへ、職場へ、地域へと遣わされていくとき、キリストを語るクリスチャンになれるのだと思います。クリスチャンのひとりひとりが、「キリストの使者」であることを自覚して、ペテロがしたように、自分のことよりも、他のどんなことよりも、「キリスト」のことを語りたいと願うことができたら、とんなに素晴らしいことでしょう。

 二、受取人

 次に受取人について学びます。1-2節にこう書かれています。「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。」この手紙の受取人は「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤ」にいました。これは今日のトルコの北部にある比較的寂しい地域です。「離散し寄留している」という言葉がありますが、これは、シリア難民のことを思い起こさせます。2011年からはじまったシリアの内戦のため、シリア全人口二千二百万人のうち、四百万人以上が外国に逃れています。トルコにはシリア難民の半数、二百十万人以上が押し寄せてきています。ペテロの手紙に出てくる人たちもまた、わたしたちがニュースで見ているようなトルコへの難民だったのです。

 しかし、ペテロの手紙にある「離散し、寄留している人たち」というのは、今日のシリア難民とは少し違います。戦争や政治的理由のためではなく、信仰のために故郷を追われ、やむなく外国に移り住まなければならなくなった人たちでした。紀元一世紀にローマ帝国でクリスチャンへの迫害が始まったとき、地方の役人たちは、善良な市民であったクリスチャンにいいがかりをつけ、その財産を没収し、自分のものにしました。役人たちは信仰のことには何の興味もなかったのですが、クリスチャンへの迫害を利用して私服を肥やしたのです。それで、土地や財産を奪われたクリスチャンたちは、新しい地に移って、そこで信仰を守りました。大都会ではなく、寂しい地域が選ばれたのは、そうした地域には迫害の手が届きにくかったからでしょう。

 「難民」といえば、社会の中で一番大変な立場にある人たちです。「難民」と呼ばれることをおそらくは恥じたことと思います。ところが、ペテロは、この手紙の受取人である「難民」を、じつに誇らしく描写しています。原文では、ペテロは受取人を「選ばれた人、寄留者、離散者」と呼んでいます。「難民」と言えば、人々からは「捨てられた人」とみなされています。しかし、ペテロは、そうした人々を「選ばれた人」と呼んで、信仰のために「難民」となったクリスチャンを励ましています。

 神に選ばれているのは、この手紙の受取人だけではありません。すべてのクリスチャンも同じように神に選ばれているのです。では、とんなふうに選ばれているのでしょうか。2節を原文に忠実に訳すと「父なる神の予知に従い、御霊のきよめのうちに、イエス・キリストへの服従と血の注ぎの中へ」となります。

 わたしたちは父なる神の「予知」に従って選ばれました。この場合の「予知」というのは、神の「ご計画」を意味します。わたしたちが選ばれたのは、偶然ではなく、神のご計画よってです。神は、わたしたちの人生を導いて福音に触れることができるようにしてくださいました。アメリカで信仰を持った多くの人が、「もし、わたしが日本にいたら教会に行くことも、他のクリスチャンといっしょに聖書を学ぶこともなかったと思います」と話してくれましたが、わたしたちがアメリカに来たことも、アメリカで日本語の教会に来たことも、すべて神のご計画のうちにあったのです。ですから、わたしたちは、確信をもって信仰の道に歩むことができます。わたしたちを信仰に導いてくださったお方が、これからの信仰の歩みを守り、導いてくださらないわけがないからです。

 次に、わたしたちは「聖霊のきよめ」によって選ばれています。神に選ばれるということは、神に近づけられるということです。そして、神に近づくためには、わたしたちはいっさいの罪の汚れからきよめられる必要がありますが、聖霊はそのことをしてくださいます。わたしたちの内面に働いて、わたしたちを生まれ変わらせ、神の前に傷のないものとして立たせてくださるのです。

 さらに、わたしたちは、「イエス・キリストに従順な者となるため」に選ばれました。この「従順」は、イエス・キリストへの信仰を表わします。聖書では「従順」は「信仰」と同じ意味で、「不従順」は「不信仰」と同じ意味で使われています。わたしたちはイエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従うようにと選ばれたのです。ですから、誰も、イエス・キリストへの信仰を持つまでは自分が選ばれていることを確信することはできません。しかし、イエス・キリストを信じるとき、自分が神に選ばれた者だということが分かるようになります。

 「イエス・キリストの血の注ぎを受けるために」という言葉は、クリスチャンがイエス・キリストの十字架による罪の赦しと、罪からのきよめを体験するように選ばれたことを意味しています。「イエス・キリストを信じています」「わたしはクリスチャンです」と言いながら、自分には赦され、きよめられなければならない罪がある、イエス・キリストはそのために十字架で死んでくださった、ということが、もし、分かっていなかったとしたら、もういちど、自分の信仰を吟味する必要があります。イエス・キリストの十字架は聖書の中心であり、信仰の原点だからです。クリスチャンはイエス・キリストの十字架に結び合わされるようにと選ばれたのです。

 わたしたちクリスチャンは、自分たちが「選ばれた人」であることをどれだけ自覚しているでしょうか。自分が神に選ばれていることを確信できたら、どんなにか、確かな生活を送ることができるでしょうか。自分たちが何のために選ばれているのかを理解できたら、どんなにか意味のある、目的のある人生を送ることができるでしょうか。「神を知る」ことは「自分を知る」ことです。神がどんなお方であるかが分かれば、自分がどんな者でなければならないかが分かります。神の選びを学ぶにつれて、自分が神に選ばれていることの意味をさらに深く知っていきたいと思います。

 三、挨拶

 最後は挨拶です。「恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」とあります。「恵み」と「平安」。これはクリスチャンの麗しい挨拶です。

 「恵み」は、それを受けるのに値しない者にも注がれる神の愛です。クリスチャンが「選ばれている」とは言っても、それは、神に選んでいただけるような何か優れたものがあったからではありません。神の選びはただ恵みによるものです。神の選びは、決して人に誇るためのものではありません。自分が選ばれていることを、ほんとうの意味で知り、理解している人は、「わたしのような者さえ選んでくださった」と、神に感謝することでしょう。

 「平安」は、わたしたちの心の中ばかりでなく、人間関係や社会生活の中にも必要なものです。わたしたちの心が神からの平安にで満たされるとき、それは他の人との「平和」を生み出します。そして、それが社会にほんとうの豊かさ、繁栄をもたらすのです。

 そして、この恵みと平安は、成長し、増え、何倍にもなっていきます。「恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」とある通りです。しかし、恵みも平安もほうっておいて、増し加わるわけではありません。恵みも平安も神から来るのですから、わたしたちがしっかりと神とつながっていなければなりません。また、神の愛は聖霊によって注がれるのですから、わたしたちが聖霊に逆らったり、聖霊を悲しませたりすることがないようにしなければなりません。また、わたしたちが人々にキリストを伝えれば、恵みと平安もその人に与えられ、それは増え、広がっていくのです。

 選ばれた人たち、つまり、イエス・キリストに結ばれて生きる者には、恵みと平安は必ず伴い、増し加わっていきます。そのことを信じて、この週も、選ばれた者として歩みを進めていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは、自分があなたの選びあずかっていることを、時として忘れてしまうことがあります。そのことをお赦しください。自分が誇るためではなく、あなたがわたしたちを選んでくださった目的を果たすために、あなたの選びを確信することができますよう、助けてください。そのようにして、わたしたちが受けた使命と選びとを、さらに確かなものとすることができるよう、お導きください。主イエスによって祈ります。

1/17/2016