ソロモンの晩年

列王記第一11:1-8

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11:1 ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。
11:2 この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。」と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。
11:3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。
11:4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。
11:5 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。
11:6 こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。
11:7 当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。
11:8 彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。

 一、人生の結末

 ジョージ・イーストマンといえば、イーストマン・コダック社を起こした人で、彼は念願通り、巨額の富を手にしました。しかし、彼は「私の仕事は終わった。なぜ待つのだ」というメモを残し、拳銃で頭を撃ち抜きました。マリリン・モンローがネブトールという薬を大量に飲んで死んだ時の新聞には、「一週間に一万ドルの収入があっても、彼女は平安を買うことができなかった」という、編集者のコメントが載りました。アーネスト・ヘミングウェーはノーベル文学賞を受けたアメリカの代表的な作家でしたが、ショットガンで自殺しました。あれだけの才能も成功も、彼の心を満たすことはなかったのです。

 FMラジオを発明したエドウィン・アームストロング、自動車デザイナーのアーサー・シヴォレー、ワイオミング州知事レスター・ハントなど、みな成功者たちでした。しかし、その人生は、悲しいことに、自殺で終わっています。

 世界的な金融会社を起こしたチャールズ・シュワーブは会社を倒産させ、死ぬまでの五年間、借金で生活していました。全米最大の鉄鋼会社社長のサムエル・インスル、世界最大の設備会社社長のリチャード・ウィットニー、ニューヨーク証券取引所会頭アルバート・ホールらも失意のうちに死んでいます。

 こうした人々はその事業や業績において成功者だったのに、人生においてはそうではなかったのです。人生のしめくくりの時につまずいてしまいました。それまで良い人生を送ってきた人であればあるほど、その晩年が惨めなのは、実に、残念なことです。

 ソロモンは、その知恵が当時の世界に響き渡ったほどの賢い王でした。知恵、知識だけでなく、財力においても、軍事力においても、父ダビデを凌ぐものを持っていました。ソロモンは主なる神への信仰を持ち、主のために立派な神殿を建て、それを捧げました。ソロモンが神殿を捧げた時の祈りは、今日も、教会堂が捧げられる時に使われるほどです。ソロモンは生涯王の地位に留まり、長寿を全うし、その子に王国を譲りました。表面的には、その晩年に問題はなかったように見えます。しかし、信仰の面では、そうではありませんでした。聖書は「ソロモンが年をとったとき、…彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった」(列王記第一11:4)と書いています。そして、その結果、ソロモンの子レハブアムの時代にイスラエルは南北に分裂し、国は弱く、貧しくなり、まわりの国々から圧迫され、ついには外国に滅ぼされてしまいました。ソロモンは、人生の締めくくりのときに失敗をし、その失敗のツケを次の世代に残してしまったのです。

 二、家庭と信仰

 ソロモンが晩年に道を誤ったのはなぜだったのでしょうか。聖書はその「妻たち」のゆえであったと言っています。「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けた」(4節)とあります。ソロモンには七百人の妻と三百人のそばめを持っていました。そしてその多くは外国から来た女性たちでした。これはいわゆる「政略結婚」というもので、当時はどこの国でも、諸国の王たちの娘と形だけの結婚をし、実際には人質にするということが行われていました。ソロモンは強大な軍隊を持っていましたが、実際にはほとんど戦争をしておらず、外交によって諸国と友好関係を結んだのです。

 しかし、いくら平和のためとはいえ、結婚を政略のために使うのは、決して神の喜ばれることではありません。結婚は人類が子孫をのこし、社会を形成するために便宜上作りだした制度ではありません。それは、神ご自身が創造の初めに定められたものです。聖書には「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世記2:24)とあって、神ご自身がアダムとエバの結婚の司式をして、ふたりを合わせられたかのように書かれています。おられるのです。その後、社会が乱れ、一夫多妻や離婚、また、同性婚などといったことが行われるようになりましたが、そうしたことは、神のみこころではないのです。

 新約聖書では、創世記2:24の言葉は「奥義」であって、それは「キリストと教会とをさして言っている」(エペソ5:32)とあります。そこでは、キリストが教会のために自分の命を捧げたように、夫は妻を愛するようにと言われています。「キリストが私たちひとりびとりを救うために命を捧げられた。」これに勝る愛はどこにもありません。神は、この最も大きな愛、深い愛、貴い愛、そして変わらない愛を聖書の中に、またサクラメントの中に示すだけでなく、信仰者の家庭の中にも示してくださっています。神は、家庭を、キリストの愛を学びとる場、また、それを表す場としてくださったのです。家庭は小さな教会であり、一家の主人はその祭司、夫婦は祈りのパートナーであると言うことができます。家庭は信仰を伝え、育む場です。

 しかし、残念なことに、ソロモンは信仰のパートナーとしての妻を持ちませんでした。信仰を伝え、養う家庭がなかったのです。そのためソロモンは、女性たちが持ち込んだ外国の神々に心を寄せ、エルサレムの東にある山の上に「高き所」と呼ばれる礼拝所を作り、彼女たちが神々に香を炊き、いけにえを捧げるのを許しました。その神々とは、シドン人の神アシュタロテ、アモン人の神ミルコム、モアブ人の神ケモシュなどで、どの神々も人間の子どもを生け贄に要求する神々で、そのようなことが実際に行われました。アモン人の神ミルコムは、モレクとも呼ばれ、これは、後に北王国で大きな勢力となるバアルの神のことです。南王国でも、ソロモンの子レハブアムの時代に、早くも偶像礼拝が広がり、女神アシェラの像などが立てられ、礼拝されていました。聖書は「彼らは、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、すべての忌みきらうべきならわしをまねて行なっていた」(列王記第一14:27)と言っています。

 主に選ばれ、主の民とされた人々、神の言葉を与えられ、神殿を持っていた人々が、主から離れていったのは、なぜでしょう。聖書は、ソロモンの子レハブアムについて「彼の母の名はナアマといい、アモン人であった」(同14:31)と記しています。レハブアムは、アモン人の神、ミルコム、あるいはモレクを崇拝する母親によって育てられ、その心に真の神への信仰や愛、また畏敬の思いを持つことがなかったのです。それはソロモンが父ダビデの信仰を引き継いだものの、それを子どもに伝えることができませんでした。信仰は受け取るだけでなく、誰かに伝えてこそ、それを全うできるのだと思います。最後まで保つことができなかったことから来ています。ソロモンの家庭の問題が国家に分裂をもたらし、混乱をもたらしたのです。

 私たちは、ソロモンとは全く立場が違いますから、同じ誘惑を受けることはありませんが、しかし、事業で成功するためや自分の願いを達成したいため、夫や妻、また家庭を顧みないでしまうことがあるかもしれません。人は誰も、成功者になりたい、自己実現をしたいと願います。しかし、幸いな結婚や家庭なしには、ほんとうの意味では人生の成功者となることはできないと思います。信仰者の場合、豊かな晩年というものは、結婚や家庭が信仰によって築かれていてこそ、与えられるものだと思います。自分の人生を締めくくりをすることができるだけでなく、子どもたちや次の世代の人々に祝福を残していくことができるのだと思います。

 三、天を目指して

 学生に「何のために勉強するんですか」と聞くと、彼らは「いい仕事に就くためです」と答えるでしょう。「では、何のためにいい仕事に就くのですか」と聞けば、「それは、よい生活ができるためです」と言うでしょう。「では、何のためによい生活を求めるのですか」と聞くと、「それは、幸せな人生を送るためです」と答えるでしょう。では、ほんとうに幸せな人生とはどんな人生なのでしょうか。そのためには、どうすればよいのでしょうか。ビジネス・ピープルの間で広く読まれた『七つの習慣』を書いたコーヴィー氏は、「人生を結末から見なさい」と言って、たんに事業に成功する、財産を築く、地位を得るといったゴールだけでなく、「自分の人生は良い人生だった」という満足を得ることができるようにしなさいと勧めています。

 しかし、私たちが自分の人生を振り返って満足できるというのはどういうことでしょうか。健康が支えられ、必要なものが備えられ、さして大きな問題もなく日々を順調に過ごすということでしょうか。いいえ、それは、この世の旅を終えたのちに、天に行くことができるという確信のある人生です。人生を全体で考える時、私たちは、私たちのゴールが天にあることを考えずにはおれません。そして、そのゴールに至るためには信仰がなくてならないことが分かります。聖書は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書12:1)と教えています。若い時からしっかりとゴールを目指すことができたら、どんなにいいことかと思いますが、若い時は目先のことしか見えなくて、ゴールを見失ってしまうことが多いものです。しかし、人生も半ばを過ぎたなら、私たちは、しっかりと目指すべきゴールを見つめ、最後まで信仰の競走を走り抜く決意を新しくしたいと思います。マラソンの走者が今までトップを走っていたのに、ゴール間近で棄権してしまったら、それまでの努力が水の泡となってしまいます。それと同じように、もし途中で信仰を捨ててしまい、天にたどり着くことができなかったら、それ以上に悲惨なことはありません。

 日本語には「有終の美を飾る」という言葉があります。「最後までやり遂げ、その結果が素晴らしいこと」という意味です。この言葉は、中国最古の詩集「詩経」にある「初め有らざるなし、よく終わりあるはすくなし」という言葉から来ています。「始めるのは簡単だが、最後までやり遂げるのは難しい」という意味です。確かにその通りです。私もいくつかの習い事をしましたが、全部モノになりませんでした。習い事には、始めるにははじめても途中でやめてしまうことが多いものです。習い事なら、途中でやめてもさして問題はありませんが、信仰の場合はそういうわけにはいきません。信仰を最後まで守り通す。それは決して簡単なことではありません。バンヤンの『天路歴程』にあるように天に向かう道には「落胆の泥沼」「歓楽の山」「虚栄の市」「自惚れの町」などが待ち構えているからです。

 ですから、ヘブル12:1-2はこう言って、私たちに天に向かう秘訣を教えています。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」信仰者のゴールは天です。そして、そこに至る道を最後まで走り抜く秘訣は、私たちに信仰を与え、またそれを完成してくださるイエス・キリストを常に覚えていることです。イエスはスタートであり、ゴールですが、その途中も私たちと共にいてくださるお方です。目の不自由な人が競走をする時、その人といっしょに走る「伴走者」がつきます。イエス・キリストは、私たちの信仰の競走の「伴走者」でもあるのです。主と共に地上を歩む者は、主と共に天に至ることが約束されています。この幸いな約束を信じて、共に励まし合って、信仰の競走を最後まで走り抜きたいと思います。

 (祈り)

 私たちの父なる神さま。あなたは、私たちが満ち足りた人生を送ることができるため、あなたと、あなたの御子、イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださいました。この信仰を最後まで保ち続け、絶えず主に信頼することができるよう助けてください。さまざまな誘惑によってあなたから離れそうになるとき、私たちを信仰の道へと引き戻してください。信仰の創始者であり、完成者であり、また伴走者であるイエス・キリストのお名前で祈ります。

8/25/2019