愛はここに

ヨハネ第一4:7-10

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4:7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
4:8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
4:9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。

 一、犠牲の愛

 アドベントのキャンドルは四本あります。最初は「預言のキャンドル」、次は「天使のキャンドル」、第三が「羊飼いのキャンドル」、第四が「ベツレヘムのキャンドル」です。四本のキャンドルのそれぞれにはテーマがあり、預言のキャンドルは「希望」を、「天使のキャンドル」は「平和」を、「羊飼いのキャンドル」は「喜び」を表わしています。そして、きょう灯した「ベツレヘムのキャンドル」は「愛」を表わします。しかし、「愛」といっても、それは一般的な「愛」ではありません。特別な「愛」です。

 日本では、クリスマスは、かつては、ケーキを食べる日でしたが、最近は、若い男女が恋人といっしょに過ごす日とされています。けれどもアドベントキャンドルが示している愛は、そうした男女の愛ではありません。アメリカでは、クリスマスは家族で過ごす日です。5年前の2011年も、今年のようにクリスマスが日曜日でした。そのとき、「25日はクリスマスなので、礼拝を休みます。皆さん、家族で楽しい時をお過ごしください」と言って、ほんとうに礼拝を休んだ教会がいくつかありました。わたしはそれを聞いて、あきれてしまいました。たぶんクリスマスイヴにかわりの礼拝があったのだろうと思いますが、教会は「クリスマスは家族の日」といった考え方に呑み込まれてはいけないと思いました。家族の愛は大切ですが、クリスマスで覚えるべき「愛」は家族の「愛」以上の愛、神の愛です。

 そして、この神の愛は、ひとことで言うとすれば、「犠牲の愛」です。現代は「犠牲」という言葉にとても否定的です。心理学では「自己犠牲」は良くないものとされています。心理学でいう「自己犠牲」とは、相手の歓心を買おうとしたり、状況を丸く収めようとして、自分を押し殺して我慢することを指すからです。わたしは、アルコール依存症者の家族の会にかかわったことがあり、そこで実際に体験したことなのですが、アルコール依存症者の家族が払っている犠牲がその典型だと思います。アルコール依存症者の妻は夫に対してじつに献身的で、その子供はとてもけなげです。夫が酔っ払って暴力を振るってもじっと耐えます。子供も、そんな父親をかばおうとします。夫がアルコール依存症のため職を失い、家計が苦しくなれば、妻はパートタイムの仕事を増やして家計を支えます。子供も決して欲しいものをねだったりはしません。ところが、夫はそうした家族の苦労を見て、「自分が立ち直らなければ」と考えるどころが、その犠牲によりかかって、ますます依存症におぼれてしまうのです。家族の中で、誰かが犠牲を強いられ、その人が必死でそれをこらえているとしたら、それが幸福な家庭であるはずはありません。また、そのような犠牲は決して健全な犠牲ではありません。

 しかし、「犠牲」のすべてが不健全なものではありません。ほんものの愛にはかならず「犠牲」が伴います。わたしたちはみな、両親、家族、他の多くの人々の「犠牲」を伴った愛に育てられ、支えられて、今、ここにあるのです。誰の、どんな犠牲もなしに、今がある人は誰もいません。アメリカの今日の繁栄の背後にどんなに大きな犠牲があったことでしょうか。神がクリスマスに示してくださった愛は「犠牲の愛」ですが、それは真実な愛から出た「犠牲」です。今週、「愛のキャンドル」を見つめながら、この神の「犠牲の愛」を思いめぐらしてみたいと思います。

 二、御子への愛

 この神の愛について考えるのに、神が御子を愛されたということからはじめましょう。そのために、まず、御子が永遠の先から父なる神とともにおられたということを、確認しておきたいと思ます。

 この世にあるものはすべて神がお造りになったものです。大宇宙も、生物の細胞や細胞の中の遺伝子も、あらゆる物質、元素、原子、素粒子にいたるまで、すべては神がお造りになりました。目に見えるものだけではありません。天の世界も、そこで神に仕える天使たちもまた、神がお造りになりました。どれひとつとして、みずから存在していたものはありません。ただ神のみが存在者です。すべては神に造られ、神に造られたときから存在を始めたのです。

 では、神の御子も神に造られたのでしょうか。いいえ、御子は造られたお方ではなく、はじめから存在しておられたお方です。ヨハネの福音書は、このことを、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」(1:1-2)と表現しています。ここで「言」と呼ばれているのは神の御子のことです。御子は造られたもののひとつではありません。逆に御子によってあらゆるものが造られたのです。ヨハネ1:3に「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」とある通りです。

 古代のクリスチャンは、御子が神であって、造られたものではないことをこう表現しました。「主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。」(ニケア信条)御子は永遠のさきに父より生まれ、存在しておられたお方です。ですから、厳密にいえば、クリスマスは神の御子が「生まれた日」ではなく、神の御子が「人になられた日」ということになります。御子は永遠の先に「生まれて」おられたからです。

 わたしたちは神を「父」と呼びます。それは、神が造り主として、すべてのものを生み出し、「父」のように、大きな愛で、生きとし生けるものを導き、守っておられるからですが、では神は、世界を造られる前は「父」ではなかったのでしょうか。いいえ、神ははじめから「父」でした。神は永遠の先から御子をお持ちになっていたからです。神が「父なる神」と呼ばれるのは、なによりも神が御子の父であるからなのです。

 聖書は「神は愛である」(ヨハネ第一4:8)と言っており、神が永遠であるように、神の愛も永遠です。神の愛が永遠であるということは、神が人を造り、人を愛される以前、永遠の先から、神が愛の対象を持っておられたということになります。神の永遠の愛の対象、それは御子でした。神は、御子を限りなく愛しておられました。この父の御子への愛は、父なる神ご自身が、「これはわたしの愛する子」(マタイ3:17、17:5)と、二度にわたって語っておられることに表わされています。御子もまた、父の愛をこう証言しています。「父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。」(ヨハネ3:35)「なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。」(ヨハネ5:20)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。」(ヨハネ15:9)

 神は父親のような大きな愛とともに、母親のような細やかな愛をも、持っておられます。イザヤ49:15にこうあります。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」これは神の民に対する愛の表現ですが、神が神の民をこれほどに愛されたなら、ご自分の御子をどんなに大きな愛で愛しておられたかは、容易に想像できることと思います。

 三、人への愛

 ところが、神は、その愛してやまない御子を、この世にお送りになりました。ヨハネ3:16に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とある通りです。神は、人々が御子を歓迎するどころか、御子を憎み、退けることを十分にご存知でした。しかし、神は御子にその罪を背負わせることによって、人々の罪を赦すことを心に決められました。罪のない者が罪を背負わされて罰される、これほどの不条理はありません。それこそ、正義にかなわないこと、神が最もお嫌いになることです。しかし、神はあえてそうされました。御子イエスもまた、進んで、十字架の上で自らを犠牲とされました。

 ずっと以前、わたしは暖房の吸気口の蓋を布で掃除していて思ったことがあります。吸気口の蓋はきれいになっていきましたが、最初真っ白だった布がどんどん汚くなっていきました。わたしの罪がきよめられるため、御子イエスも、このように、わたしの罪と汚れを引き受け、ボロ布のように捨てられていったのだと思って、感動を覚えました。神は、御子に向けられた愛を、わたしに向けてくださった。神の愛によって、御子の犠牲によって救われているのだとの喜びがあふれました。

 ある人が、神の犠牲の愛を、小さなストーリーに書きました。クリスマスを前に、ふたりの天使が話している場面を想像して書いたものです。

 「御子が近々、人間の世界に行かれると聞いたのですが、本当なんですか?」「ええ、確かなようですよ。それも、あの輝く王冠も、聖いお衣も、みんな脱ぎ捨てて、裸の赤ん坊になって、処女の胎を通って行かれるそうですよ。その事は、あのガブリエルさまが、もうマリアという娘に告げておられるそうです。」

 「えっ、そんな!何か大変なことが起こるんですね。」「実は、それは、ずっと以前から、父なる神さまが人間を救うために計画された事だと聞きました。」

 「人間って、神さまに背いて醜い事や悪い事をいっぱいしている、あの罪深い生き物の事でしょう?どうして神さまは、人間のためにそこまでなさるのでしょうか?」「神さまは何よりも、人間を深く愛しておられるから、人間を見捨てておくことができなかったのではないでしょうか?」

 「そうかも知れませんね。神さまは、人間のためには、なりふりかまわず、何でもなさるって感じですから。」「御子は人間の世界で“イエス・キリスト”と呼ばれ、貧しい大工のヨセフの子どもとなられるそうです。」

 「ふむ、きっと、お辛い日々を過ごされるのでしょうね。」「もちろん、そうだと思いますが、実はもっと大変なことが御子を待ち受けているのだそうです。御子は、人間の年齢で三十歳くらいになられてから、神さまの事を、人間たちにお話になるのですが、その後、十字架の上で罪の罰を受けて、処刑されると聞きました。」

 「えっ、まさか?… 御子が罪の罰を受けて、お命を落とされるんですか?」「そう、人間の身代わりに…。それが神さまのご計画なのだそうです。それ以外、人間を罪から救う道はないからだそうです。処女マリヤから生まれて、その血の中に罪のないお方が、人間の身体をもって罪の罰を受ける以外には、聖い神さまが人間をゆるす方法はないからだそうです。」

 「それじゃ、御子は、死なれるために、地上に降られるのでしょうか。人間の罪の身代わりになるために…。」「そうなんでしょうね。もう時が迫っているようで、大きな星が旅支度をしていました。御子を待っている人々に、御子の誕生を知らせるためにでしょうか、ずいぶん急いでいるようです。」

 「それでは、わたしたちも、天使長の指示をよく聞いて、地上を歩まれる御子を、できる限りお助けしましょう。」「御子が、救いのご計画を成し遂げて、天にお帰りになるまで、心してお守りいたしましょう。」

 この天使の会話のように、クリスマスは、御子イエスにとって、あの救いの十字架への第一歩だったのです。ある人が「愛はハートの形で表わされる。しかし、神の愛は十字架の形で表わされる」と言いました。聖書は、十字架を指差して、「ここに愛がある」と言っています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」この十字架の愛を、わたしたちのまごころ、ハートに受け入れるとき、わたしたちは、神が御子を愛されたその愛でわたしたちを愛しておられることを知るのです。アドベントの第四週、ベツレヘムにお生まれになった幼な子に示されている神の愛を、静かな心で思い見ましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはわたしたちを愛してくださいました。その愛は決して言葉だけの愛ではなく、犠牲を伴った愛でした。「愛の大きさははその犠牲の大きさによって分かる」と言われますが、あなたは、御子という、大きな犠牲をもって、わたしたちを愛してくださいました。世には「愛」と呼ばれるものがいくつもありますが、わたしたちを生かし、満たす愛は、あなたの愛の他ありません。このクリスマスにあなたの愛を受け入れ、この愛に満たされ、この愛に生きるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

12/18/2016