ここに愛がある

ヨハネ第一4:7-12

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 二月十四日はバレンタインデーです。この日は、アメリカだけでなく、日本でも二十年あるいは三十年まえから盛んになりました。日本では女性から男性にチョコレートを贈るのですが、その風習が日本からアメリカに逆輸入されたのでしょうか、この時期になると、シーズ・キャンデーでチョコレートを買う人が随分多くなるようです。しかし、こうして礼拝に集っている私たちは、バレンタインデーからチョコレートを連想するのではなく、聖書の主題は「愛」、「神の愛」なのですから、バレインタインデーから、聖書を連想し、この週、聖書が教える「愛」、「神の愛」について思いみることができたら、素晴らしいと思います。

 一、愛の種類

 さて、ひとくちに「愛」と言っても、さまざまな愛があります。良く言われることですが、愛には三種類あるそうです。それは、「もしも」の愛、「だから」の愛、そして「にもかかわらず」の愛です。

 「もしも」の愛というのは、「もしもあなたがお金持ちだったら」「もしもあなたが美しかったら」「もしもあなたが優しくしてくれたら」あなたを愛しましょうというものです。いうなれば条件付きの愛ですね。「もしも」の愛は、相手に条件を突きつけて、「こうでありなさい」「ああでありなさい」と要求していくわけで、結局のところ「もしも…だったら」というのは、相手にはそれだけの条件が備わっていない、だから「私はあなたを愛さない」ということになります。子どもに「もっと成績がよければ」、ご主人に「もっと給料がよければ」、奥さんに「もっと料理が上手だったら」愛してあげると言うのは、愛の言葉でなく、「今のあなたは駄目だから、私はあなたを愛さない」という残酷なメッセージになってしまうのです。

 「だから」の愛というのは「あなたは頭がいいから」「あなたは地位があるから」「ああなたはみんなに人気があるから」愛するというものです。これは「もしも」の愛よりももっといいかもしれませんが、やはり、何らかの理由や根拠に基づいて、相手を愛しているのです。こどもは、かわいいから誰も愛するでしょう。しかし、「かわいいから」という理由や根拠は、いつまでも続くものではありません。成長するにつれて親に反抗し、ちっともかわいくなくなってしまいます。頭のいい人も、いつかアルツハイマーになるでしょうし、社会的地位はいつまでもキープできるものではありません。若さも、力も、お金も、みんな変化していくものなのです。変化するものを根拠にした愛は、うつろいやすい愛で、いつか破綻がやってくるのです。

 私たちは「もしも」の愛や、「だから」の愛によっては、本当に心安らぐことはできません。「もしも」の愛に応えるには、必死で努力しなければなりません。私たちは自分のうちに自分でも愛せない、いやなものを持っていますから、「だから」の愛によっては、自分が愛されているという確信を持てないのです。私たちに必要な愛は「にもかかわらず」の愛です。相手に条件を求めない、相手に理由や根拠を求めない愛、つまり、無条件の愛を、私たちは必要としているのです。

 二、愛の性質

 神の愛は「にもかかわらず」の愛です。ローマ5:6-8にこうあります。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」キリストは、私たちがまだ罪人であった時に、私たちのために死んでくださったと教えています。キリストは、十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」と祈られましたね。イエスは、彼に背き、彼を苦しめ、彼を痛めつけている人々のために、その命を投げ出されたのです。もし、私たちが誰か他の人のために自分の命を投げ出すとしたら、それは、きっと、私たちに良くしてくれた人、愛してくれた人でしょうね。誰も、自分に悪いことをした人、自分を苦しめた人のために死ぬことなどできませんね。しかし、キリストは、私たちが罪人であった「にもかかわらず」私たちを愛して、十字架の上で死んでくださったのです。これこそほんとうの「にもかかわらず」の愛です。

 随分前のことですが、あるアメリカ人宣教師が、アフリカのモザンビーグの小さな村に入っていきました。そこは共産主義政権だったので、彼は村長に、伝道するための許可を申し出ました。それを聞いた兵士たちは、すぐ村にやって来て、村長に「あの宣教師はアメリカのスパイではないのか」と厳しく問いつめました。すると村長は、彼らの機嫌をとるために「そうだ」と言ったのです。このため、宣教師はただちに逮捕され、銃でたたかれ、自白を強要されました。この様子に驚いた村人たちは、宣教師を助けようとして口々に「この人はスパイではない」と言いました。その結果、宣教師は、命だけは助けられ、村から追放されてしまいました。

 それから一ヶ月して、その宣教師が再びその村に行ったところ、あの村長が、事故のため瀕死の重傷を負って、診療所に運びこまれるところでした。診療所の医師は、困りきった顔をして宣教師に言いました。「すぐに輸血が必要なんだが、村人はだれひとり協力してくれない。このままだと村長は死んでしまう。輸血以外に助かる道はないんだ。」

 宣教師は、自分の血液が合うことを知ると、すぐさま輸血を申し出ました。手術は成功しました。元気になった村長は、自分の命を救ってくれたのが、あの宣教師であることを知ると、宣教師を痛め、苦しめたことを泣いて悔い改めました。そして、この村長がまず、イエス・キリストを信じ、それから村人が次々と救われていったということです。

 この宣教師は、自分にひどいことをした村長のために、自分の血液を分け与えましたが、イエス・キリストは、自分を十字架につけた人々のために、その血を最後の一滴までも流されたのです。

 人は誰も「にもかかわらず」の愛を求めています。しかし、そのような愛は、どこにでもあるわけではありません。人の愛は、多くの場合「もしも」の愛や「だから」の愛です。それらは条件付きの、かけひきや取り引きのある愛です。多くの場合、「ギブ・アンド・テイク」の愛というよりも、「テイク・アンド・テイク」の愛です。「まず、あなたが私を愛しなさい。そうしたら、わたしもあなたを愛してあげましょう。」と、常に相手から求める愛です。しかし、神の愛、キリストの愛は違います。10節に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」とあるように、まず神が私たちを愛してくださったのです。神は、私たちが神を愛したから、私たちを愛してくださるのではありません。神は、私たちが神の愛に感謝もせず、それに背を向けていた時から、なお、私たちを愛し続けていてくださったのです。神の愛は永遠の愛、無限の愛、無条件の愛です。

 三、愛の証拠

 神の愛は、人の愛とは違って、広く、長く、高く、深いものです。(エペソ3:17)神の愛、キリストの愛は人間の知恵で完全に理解することはできません。しかし、神の愛はまったくとらえどころのないものでもありません。神の愛は、イエス・キリストの十字架の中にはっきりと、見える形で表わされています。神の愛を求める人は、それが、どこにあるかのかと、捜し歩く必要はないのです。今日の個所に「ここに愛があるのです。」(10節)と言われているように、神の愛はここに、十字架にあるのです。

 ある人の詩に、

というのがありますが、この詩のとおり、十字架は、神が私たちをどれほど愛してくださっているかを示しているのです。

 イエスと共に十字架につけられた犯罪人のひとりは、十字架のイエスを間近に見て、このお方こそ、メシア、救い主であると信じ、イエスから天国の約束をいただきました。十字架の下でイエスの最期を一部始終見ていたローマ兵は「まことに、この人は神の子であった」と叫びました。ヨセフやココデモは、ひそかにイエスを信じていましたが、ユダヤ人の手前、その信仰をおおやけにしてきませんでした。しかし、イエスの十字架を見て、大胆にもイエスの遺体の引取りを願い出ました。十字架は、それをまっすぐに見つめる人々をつくり変えてきました。それは、そこに愛が、ほんものの愛があるからです。

 『ベン・ハー』という小説の中で、主人公のベン・ハーは、自分の家族を不幸に落とし込んだ敵への復讐に燃えて生きてきた人でしたが、イエスの十字架によって、彼の心の中の激しい憎しみから解放されていきました。イエスの血潮が、まるで彼の心を清めていくかのように、十字架から流れ出るシーンは、みなさんも映画でご覧になったでしょう。

 ある日本の牧師から、こんな話を聞いたことがあります。この先生がフィリピンで、タガログ語の通訳をつけて、大勢の人々に英語で説教していました。この通訳者とはとても呼吸があって、すごく順調に説教が進んでいったのですが、一番大切なところに来て、通訳者が急に黙ってしまったのです。どうしたのかと思って、彼のほうを見ると、彼は涙を流していました。その時、イエスの十字架のことが語られていたのですが、通訳者は、十字架に示された神の愛に感動して、しばらくの間、通訳を忘れてしまったというのです。十字架、そこに、神の愛が示されいます。それは、今も、私たちに、大きく深い感動を与えるのです。

 神の愛は、概念とか教えとか理論といったものではありません。それは具体的なもの、形のあるものです。それは、歴史の事実であり、実証されたものです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」聖書は、ほんとうの愛が「ここにある」と、イエス・キリストの十字架を示しています。神の愛は、人間の努力で勝ち取ることができるようなものではありません。こんなに真実に愛してくださる神の愛を、私たちも、精一杯の真実で受け入れること、それ以外に私たちにできることはありません。そして、神のこの大きな愛を受けた人は、神に愛されていることから来る深い平安を体験し、人生を力強く歩んでいます。神の愛を知る人は、人から愛を求めるよりは、すすんで人を愛することができるようになるのです。

 今年のレント―イエスの十字架を思い見る期間―は、バレンタインデーの前日、2月13日から始まります。バレンタインデーがレントの中にあるというのは「神の愛を、イエス・キリストの十字架の中に見なさい」ということなのでしょうか。「ここに愛がある。」キリストの十字架の中にある神の愛を静かに、深く思いみる時を持とうではありませか。

 (祈り)

 父なる神さま、多くの人は孤独で「私は愛されていない」と感じています。そのために、自分の心を満たすものを求めて右往左往し、時にはそのために人を傷つけ、自分を痛めています。そのような人々がイエス・キリストの十字架に、ほんとうの愛を見つけることができますように。あなたから、十字架の愛で愛されていることを、信じ、受け入れ、孤独から解放され、満ち足りた人生を送ることができるように、導いてください。また、あなたの愛を知る者たちが、このシーズンに、その「広さ、長さ、高さ、深さ」をさらに深く思いみることができるよう、お導きください。主イエスの御名で祈ります。

2/10/2002