父の愛

ヨハネ第一3:1-3

3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです。―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

 今日は父の日です。父の日がいつごろできたのかわかりませんが、「母の日」があるのだから「父の日」があっても良いだろうというので出来たのがこの日だと聞いています。「父の日」は「母の日」にくらべるとあまり重んじられていないようです。そのように父親も家庭の中であまり重んじられていないかも知れません。昔は「地震、雷、火事、親父」と言って、恐いものの四番目に父親が入っていたのですが、今は、家族の中で父親が一番小さくなっているかも知れませんね。子どもたちが描く家族の絵では、父親はたいていソファーで横になってテレビを見ているのです。それで、日本にいるある宣教師が『父親もまた親である』という本を書き、父親たちを叱咤激励しています。またアメリカではプロミス・キーパーズという男性だけの大会があり、クリスチャンの男性、父親が神との約束を守り、家庭を守ろうと立ち上がっています。

 私は、サンタクララ教会でも、クリスチャンホームの家長たちが、それぞれの家庭で、また神の家族である教会でリーダシップを発揮してほしいと祈っています。そのために男性たちがもっと深くまじわり、共にみことばを学び、祈りあえたらと願っています。神はわたしたちの「天の父」です。神が「天の父」と呼ばれるのは、神が地上の父親たちのモデルとなっていてくださるからでもあります。神が父親たちのモデルであるということは、地上の父親たちは天の父にならい、天の父の愛を地上で表わすという大きな責任を与えられているということです。これはたいへん重い責任ですね。今朝は、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」とのみことばから、私たちの天の父がどんな愛で私たちを愛してくださっているかを学びましょう。そして、この愛に力づけられて、すこしでも天の父の愛を地上で反映するものとさせていただきましょう。

 一、受容の愛

 神の愛、私たちの天の父としての愛はどんな愛でしょうか。聖書は神の父親としての愛をさまざまに描いていますが、一番わかりやすいところは、なんといっても「放蕩息子」のたとえ話でしょうね。ルカの福音書十五章にその物語が書かれています。あるところに息子を二人持っていた父親がいました。その弟息子のほうが、独立したいので、財産を分けて欲しいと父親に申し出ました。父親はそれを許し、弟息子はまとまったお金を持って遠い町に旅立ちました。そこで親の財産を元手に事業をすれば良かったのですが、彼は毎日遊び歩いて親から得たお金を湯水のように使ってしまいました。苦労しないで手にしたお金とうものはあっと言う間になくなってしまうものなのでしょう。弟息子はたちまちホームレスになり、食べるものにも困るようになりました。彼はやむなく豚飼いになるのですが、空腹のあまり豚の食べる餌に手を出そうとしました。どん底まで落ちたわけです。しかし、その時、彼は我に返り、父親のことを思い出すのです。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」彼は、このような父親へのお詫びのことばをくりかえし、くりかえし練習しながら父親のもとへと戻っていきました。

 ある日のこと、父親がいつものように夕方外に出てみると、遠くからぼろをまとった人がとぼとぼと歩いてきました。町の人がおそらくは何人も息子に会ったでしょうが、それがあの家の息子だと気づく人は誰もいませんでした。息子があまりにも落ちぶれていたからです。しかし、誰が気づかなくても、父親はそれが自分の息子だと気づきました。親の愛とはそういうものです。父親は、自分の方から走りよって、息子を抱きしめキスをしました。息子が父親にお詫びの言葉を言おうとしても、それを途中でさえぎって、息子を家に入れ、しもべたちにこう命じました。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。」自分の財産を浪費し、乞食同然になって帰ってきた息子、親の顔に泥を塗るようなことをしてきた息子を、父親は再び自分の愛する息子として受け入れたのです。

 息子の過去を許し、あるがままを受け入れたこの父親は、私たちの天の父を表わしています。天の父は、旧約時代も新約時代も変わらず、ご自分に立ち返るものを受け入れてくださるお方です。エレミヤ書に「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」とのおことばがあります。(エレミヤ3:22)私たちの天の父の愛は、大きな愛、ゆるしの愛で、神に帰って来るものを、神の子どもとして受け入れてくださるのです。神は人間を、神に愛され、神を愛することができるものとして造ってくださいました。しかし、人間は、創造主である神を否定し、神のおこころに全くかなわないことを考え、語り、行うものとなってしましました。イザヤ53:6に「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」とありますが、あの放蕩息子のようになってしまったのです。人間は造り主である神に公然と歯向かい、神の子どもどころか、神の敵となってしまったのです。しかし、神は、そんな私たちに、「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」と呼びかけてくださっています。「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです」と言って、私たちが神に立ち返るのを待っていてくださるのです。神は敵を赦し、それをご自分の子どもにして受け入れてくださるお方であり、天の父の愛とはそのような愛です。

 二、犠牲の愛

 ところで、神が父と呼ばれるのは、子どもを持っておられるからです。神の子どもというのは、神を信じる者たちのことですが、神が私たちを神の子どもにしてくださる前に、神は「ひとり子」イエス・キリストを持っておられました。父なる神と御子イエス・キリストとの関係については、今朝は立ち入りませんが、御子は父なる神と等しいお方であって、御子キリストこそ本来の「神の子」なのです。私たちも神の子どもと呼ばれますが、それは英語で Child, Children に相当する言葉が使われており、イエス・キリストが御子であるという時には、英語で Son を意味する言葉が使われていて、この二つの言葉は厳密に区別されています。イエス・キリストはバイオロジカルな神の子で、私たちはアダプトされた神の子どもであると言って良いでしょう。

 アメリカで、偉いなと思うのは、子どもをアダプトして、アダプトした子どもに、自分の子どもと変わらない愛情を注いでいる人が大勢いるということです。子どもたちも、アダプトされたということを早いうちから聞かされますが、全く引け目を感じないどころか、むしろ「お父さんはぼくを選んで愛してくれたんだ」と誇りにさえ感じるのだそうです。しかし日本では状況が違いますね。私は、子どものころ、顔も体格も少しも他の兄弟と似ていませんでした。それで姉から「あんたは、橋の下からひろわれてきたんよ」とからかわれていました。私の子どものころの遊び場は、橋の下にある無花果の木のところで、そこに行くと何かこころが休まるので、やっぱり自分は橋の下から拾われてきたのかなと、ずいぶん姉のことばを気にしていました。最近、私は一番上の兄とずいぶん似てきたようで、娘がひとりで日本に行った時、私の兄に会って「お父さんとそっくりだったよ」と言っていましたので、やはり橋の下からひろわれてきたんじゃなかったようです。私が私の父から受けた愛は、もらってきた子を愛する特別な愛でなく、普通の父の愛だったわけです。バイオロジカルな子どもに愛情を注ぐのは、自然なことですが、子どもをアダプトし、その子どもに愛情を注ぐというのは、生まれつき備えられた親としての愛以上に、もっと意思の働いた、成熟した愛が必要だと思います。アメリカ人が子どもをアダプトするのにあまり抵抗がないのは、神が私たちをアダプトして神の子にしてくださったということ、そのような神の愛を知っているからではないかと思います。

 神が私たちを愛してくださったのは、単に情緒的、本能的にでなく、意思的な愛、決断の愛で愛してくださったのです。実際、神は、私たちを神の子どもにするために大きな決断をしてくださいました。それは私たちをアダプトするためにご自分の本当の子、御子キリストを十字架で死なせるという決断です。ヨハネ三の十六のおことば、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」が、この神の愛を物語っています。神の愛は、犠牲の愛であるということができます。ヨハネの第一の手紙4:10にも「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とあります。神の愛は雲をつかむような漠然としたものではありません。それは「ここにある」ということができるほど確かなもので、イエス・キリストの十字架の中にはっきりと表わされているのです。神は、この十字架から、今朝も私たちに語りかけてくださっています。「わたしはおまえを選んだ。おまえをわたしの子どもにし、わたしはおまえの父になる。」このような天の父の愛を心から感謝しましょう。この愛のゆえにもっと天の父を礼拝しましょう。

 三、変革の愛

 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」聖書はこう言ってから、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」と、私たちは、神の子どもとして変化していくべきことを記しています。

 神は、私たちをあるがままで神の子どもとして受け入れてくださいました。私たちが神の子どもであるのは、神の愛によることであって、決して、私たちの善良さや努力、信仰深さによるのではありません。たとえ私たちがちっとも神の子どもらしくなくても、私たちが神の子どもであることは変わらないのです。私たちはイエス・キリストを信じた時に神の子どもとされ、天の戸籍に登録されたのです。それが簡単に消し去られることはありませんし、神の子どもとしての特権や、神の子どもに与えられる保護が取り消されることもありません。しかし、もし、私たちが神の子どもとして成長することがなかったら、それは神を悲しませるでしょう。

 父親は子どもに、自分のようになって欲しいと思うものです。スポーツが得意だった父親は子どもにそれを教えるでしょうし、芸術が得意だった父親は、子どもにもおなじようにその道で秀でていてほしいと思うでしょう。おなじように父なる神も、私たちに、神の持っておられる愛や忍耐、寛容などを身に着けて欲しいと願っておられるのです。人間の父親が、親の持っているものを子どもに受け継がせるため、子どもを訓練するように、天の父も私たちを訓練されます。私たちの人生にあるいろいろな苦しみや困難の多くは、天の父が私たちをより神の子らしくしようとするための訓練である場合が多いのです。ヘブル人への手紙2:10-11に「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」とある通りです。神が私たちを訓練されるのは、私たちを愛してくださっているからです。苦しい時には、ついつい神が私を神の子どもとして愛してくださっているということを忘れがちですが、その時こそ「神は私を愛して、この訓練をくださっているのだ」ということを思い起こしましょう。

 父なる神の愛、それは無条件で私たちを受け入れてくださる大きな愛です。それは、ご自分の御子を犠牲にするほどの深い愛です。また、それは、私たちを神の子どもとして造りかえてくださる高い愛です。私たちは、この神の愛によって互いに受け入れあい、よろこんで他のために犠牲をはらい、互いの成長のために励むものとさせていただきましょう。

 (祈り)

 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」父なる神様、私たちが、あなたを父と呼ぶことができるのは、あなたがまず、私たちを神の子どもと呼んでくださったからです。私たちに与えられた神の子どもとしての特権を感謝します。私たちがどんな時にも落胆することなく、神の子どもとして成長していくことができるために、神の子どもとして特権をしっかりと確信し、用いることができますように。あなたの御子イエス・キリストの御名で祈ります。

6/17/2001