主のわざに励む

コリント第一15:58

15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 今週も、今年の教会標語「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」からお話ししましょう。先週は、「堅く立って、動かされることなく」の部分から、私たちが信仰に堅く立つために、その土台となるものは何かということを学びました。覚えていらっしゃいますか。土台、"B-A-S-E" の "B" は "Bible"(聖書)、"A" は "Action"(聖書を実行すること)、 "S" は "Holy Spirit"(聖霊の助けに頼ること)、"E" は "Eternity"(永遠を見つめること)でしたね。

 今週は、「いつも主のわざに励みなさい。」という部分をご一緒に考えてみたいのですが、「主のわざ」"the work of the Lord" の "W-O-R-K" という言葉を使って、私たちが励まなければならない主のわざについて学びます。

 一、礼拝

 まず、主のわざ "W-O-R-K" の "W" は "Worship"(礼拝)です。ある説教者が「礼拝はクリスチャンにとって第一の、そして最高の義務だ」と言いましたが、そのとおりです。イスラエルがエジプトから救い出されて、最初にしたことは、幕屋をつくり、祭司を立て、主を礼拝することでした。イスラエルは、主を礼拝するために救われたと言っても良いでしょう。クリスチャンもまた、イスラエルと同じく、主を礼拝するために救われました。先週の礼拝で、クリスチャンは、キリストという土台の上に建てられた神殿であるということを学びました。クリスチャン自身が神殿であるなら、クリスチャンのすべきことは当然何であるかわかりますね。神殿が礼拝のためにあるように、クリスチャンも主を礼拝するために存在しているのです。ペテロ第一2:5に「あなたがたも生ける石として、霊の家に築きあげられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」と教えられているとおりです。

 礼拝を守ること、これはクリスチャンにとって一番大切なことです。伝道することも、みことばを学ぶことも、奉仕をすることも、もちろん、クリスチャンにとって大切なこと、なくてならないことです。しかし、礼拝は天国にまで続くものです。天国には救われた人しかいないわけですから、そこでは伝道する必要はなくなります。そこでは、私たちは主を、顔と顔とをあわせて見、「主を知る知識が地をおおう」わけですから、みことばを学ぶこともなくなるかもしれません。天国は完全なところですから、私たちが、今、ここでしているような奉仕のほとんどは不必要になるでしょう。しかし、礼拝は天国でもなくなりません。天国では絶え間なく礼拝が行われており、天国での私たちの主な仕事は主を礼拝することになるでしょう。そうであるなら、この地上で主を礼拝することを学び、礼拝の喜びを味わっておかないと、天国で困るのではないかと思います。

 私は、ある教会で、「今日は礼拝で何も奉仕がないから行かない」ということを聞いて悲しく思ったことがあります。教会は単なる活動の場にすぎないのでしょうか。教会は、本来、主を礼拝するところです。主を礼拝することは、教会で何かの当番をしたり、仕事を分担したりする以上に価値あることなのです。「あの人は、このごろ礼拝に来ていないから、礼拝の司会をさせたら、出てくるんじゃないだろうか」というのも聞きました。それも、その人を励ますためのひとつの方法かもしれまえんが、やはり、まず礼拝を守ることを学び、礼拝することの喜びを味わって、そこから奉仕へと導かれていってほしいと思います。そうでなければ、教会は、礼拝をささげるところではなく、ボランティア活動のためのものになってしまいかねませんね。

 また、ある時、私が「礼拝を守りましょう」と説教しましたら、「礼拝を守るといっても、機械的、形式的に教会に来ていてもしょうがないのではないか。わざわざ日曜日に礼拝に出てこなくても、いつでも、どこでも礼拝を守ることができるのではないか。」と反論されたことがありました。確かに、私たちはいつでもどこでも主を礼拝することができますし、主を礼拝しなければなりません。やむを得ぬ事情で、日曜日の朝、飛行機に乗らなければならないこともあるでしょう。そのような時は、飛行機のシートでひとり静かに、主を賛美し、主に祈り、みことばを開いて主を礼拝する時を持っていただきたいと思います。また、病気のため礼拝に出席できない時、ベッドに寝たままであっても、主を仰ぐことができます。「飛行機に乗っている時は、天に近いし、ベッドに寝ている時は、上を仰ぐから、より良く礼拝できるのだ」という冗談もありますが、冗談ではなく、そうした礼拝によって思わぬ恵み、祝福をいただくことがあります。

 しかし、それはあくまでも個人の礼拝であり、私たちは、おおやけの礼拝をミスしています。礼拝の本来の姿は、共に集まり、心を合わせ、声を合わせて、主を賛美し、主を告白し、主に祈るところにあります。聖書は、日曜日を「主の日」と呼んでいますが、もともとの「主の日」というのは、主イエス・キリストが再び天からおいでになる日のことを意味しています。その時、主を信じる者たちが地の四方から集められ、天に携えあげられます。その時、すべての聖徒たちが、共に、声を合わせて主を賛美するのです。私たちの日曜日ごとの礼拝は、その「主の日」を待ち望んで、その日に起こることを小さな規模ですが、前もって表わしているのです。毎週、毎週の主の日に共に集まり、主を心に迎え入れ、声をあわせて主を賛美し、心をあわせて礼拝することによって、やがてくる主の日に起こることの予行演習をしているのです。個人の礼拝がどんなに祝福されたものであっても、このおおやけの礼拝にとってかわることはできません。テープやインターネットでも礼拝メッセージを聞いたり、読んだりすることができるでしょう。大きな教会の礼拝をテレビで観ることもできるでしょう。しかし、そこには、「共に集まる」という礼拝にとって最も大切な要素が欠けてしまっているのです。

 礼拝から遠ざかることは、神からも遠ざかることです。ですから聖書は「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)と教えているのです。たとえ礼拝に出ることに意味を感じられなくなったり、おっくうに思える時も、自分の気持ちや感情にかかわらず、礼拝に出ることは大切なことです。フォーサイスというイギリスの神学者は「義務的な信仰の歩みもあなたを霊的に成長させる」と言いました。たとえ、習慣でも、義務でも、礼拝を守り続けることによって、それによって養われ、やがて、自分を養ってきた礼拝の素晴らしさを味わうことのできる日がやってくるでしょう。

 二、伝道

 「礼拝」については、まだまだお話ししたいことが多くありますが、また別の機会に譲ることにして、次に、主のわざ "W-O-R-K" の "O" に進みましょう。これは、"Outreach" 「伝道」です。「伝道」が、私たちが励まなくてはならない大切な主のわざであることは、いうまでもないことであり、私たちの教会では、いままで「伝道」を大切にし、それに励んできました。

 しかし、まだ「伝道」についての誤解があるようです。羽鳥明先生、本田弘慈先生、また村上宣道先生たちが日本で力を入れてやってこられたプログラムに「総動員伝道」というのがあります。これは「みんなが良い証し人になろう」を合言葉にすすめているもので、もう40年の歴史があります。私も日本で、総動員伝道のプログラムに加わり、教会員みんなで「良い証し人」というテキストにしたがって訓練会をしたことがあります。その時のことですが、ひとりのご婦人が私のところに来て、「『教会で伝道する訓練を受けているなんて、けしからん。そんなことをするなら、教会に行ってはいけない。』と、主人に言われました。」と言いました。その方のご主人は「伝道」というと、子どもの手をひいて家々を訪ねて雑誌を売ったり、街角に立って、大きな声で「ただ信ぜよ」と歌うことだと、誤解していたのです。でも、私たちの学んでいた伝道はそういうことではなく、まず、自分自身がキリストの良い証し人になれるよう励むこと、自分の愛する人々のために祈ること、また、キリストを求めている人たちを真実な愛でヘルプしてあげることだったのです。この方のご主人の誤解は、やがて、解けましたが、クリスチャンの間でも、「伝道」というと、人を説得して無理やりにでも信じさせることと考えている人も多いようです。ですから「私は口下手だから伝道できません。聖書の知識がないからだめです。」としりごみしてしまうのです。でも、本当は口下手な人のほうが、人の話をじっくり聞いてあげられる分だけ、キリストの愛を伝えることが出来ますし、やたら、聖書の知識をひけらかす人よりも、行いをもって神の真実を示す人のほうが、もっと良く伝道できるのです。

 ある人が伝道を定義して「人格から人格へと神の真理が伝えられること」と言いましたが、その通りですね。伝道は、単にプログラムや方法でできるものではありません。神の真理、キリストが命がけで私たちを愛してくださったという、この真理は、機械的に伝えることのできる冷たい真理ではありません。それは、私たちが神を愛し、人を愛して歩むうちに、人格から人格へと伝えられるものです。私たちから神の愛がにじみ出し、多くの人々に浸透していく、そんな伝道を目指し、励みましょう。

 三、弟子づくり

 主のわざ "W-O-R-K" の "R" は "Reproduction" です。Reproduction(再生産)とは「キリストの弟子をつくる」ことを言います。パン屋さんはパンをつくります。靴屋さんは靴をつくります。ビジネススクールはビジネスマンをつくり、メディカル・スクールは医者をつくります。では教会は何をつくり出すのかというと、それは、「キリストの弟子」をつくるのです。救われて、キリストの弟子となった私たちには、自分と同じようなキリストの弟子を、もうひとりつくり出すこと、再生産する使命が与えられているのです。イエスは天にお帰りになる前に、弟子たちに「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と言われました。これは、「宣教命令」として知られているみことばで、しばしば「全世界に出て行く」ということが強調されますが、何のために全世界に出ていくかというと、それは「弟子をつくる」ためなのです。

 「キリストの弟子」とは、キリストを信じ、キリストのために生きる人々のことです。私たちが目指しているのは、たんにキリスト教が好きな人、クリスチャンを理解してくれる人が増えるようにということでなく、本物のクリスチャン、キリストの弟子を生み出すことです。私たちが、キリストの弟子として成長していく時、私たちは他の人をもキリストの弟子として育てていくことができるようになるのです。もちろん、人を救い、成長させてくださるのは、神ご自身です。しかし、私たちは、その人のために、祈ったり、声をかけたり、お世話したりという、神のお手伝いができるはずですし、しなければならないと思います。

 あなたにとってもうひとりの弟子とは、だれでしょうか。それはあなたの配偶者かもしれませんし、あなたの子どもかもしれません。自分の子どもを持っていない人でも、サンデースクールの子どもたちがあなたのもうひとりの弟子かもしれません。私が以前いた教会のある姉妹は、教会に来る若い人たちを暖かく世話する賜物があって、若い人たちからも慕われていました。彼女は、彼女が霊的にケアしている若い人を紹介して「これはわたしの霊的な娘です。」と言っていましたが、素晴らしいことですね。私たちも、すでに数多くのクリスチャンを、日本に、他の州に送り出しましたが、この教会で救いに導かれた方が、どこに行っても、キリストの弟子として成長していくことができるよう育てて、送り出し続けたいと思います。

 四、交わり

 主のわざ "W-O-R-K" の "K" は "Koinonia" です。"Koinonia" は、"Community" とか"Fellowship" とかいう意味の言葉で、もともと英語ではありませんが、聖書で使われている "Koinonia" ということばには、英語で"Community" とか"Fellowship" とか訳してしまうと失われてしまう大切な意味が含まれています。それは、キリストにあるお互いの結びつき、一致ということです。

 クリスチャンのお互いの結びつきは、隣近所の人たちとの結びつき、職場での結びつき、あるいはスポーツ・クラブや趣味のグループの結びつきとは全く違います。私たちの結びつきは、人間的な何かの共通点や、共通の利害関係などによるのでなく、お互いのもっと深いところにあるもの、たましいの部分でかかわっているもの、信仰によって結びあわされているものなのです。それは、家族のような結びつきです。家庭には父親もいれば母親もおり、それぞれ全く違った仕事をしています。そこに子どもや、赤ちゃんもいれば、おじいさん、おばあさんもいいます。年齢が何十歳もかけ離れている者たちが、ひとつの家族として深いかかわりを持ち、喜びも悲しみも共にしています。クリスチャンが教会で持つ交わりも、それと同じような「神の家族」の交わりなのです。特に、私たちの教会の場合は、人種も、言葉も違う者たちが「ひとりひとり、キリストを信じ、神の子として生まれた、だから、お互いがみな兄弟姉妹なのだ。」ということで、神の家族として共に交わりを保っています。

 この神の家族の中で「喜ぶものといっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)ということが実践されています。昨年、何人かの方が手術を受けました。「祈ってください。」という祈りの課題が寄せられ、みんなで祈りました。手術が成功して、それぞれに元気な姿を礼拝で見せてくれ、私たちは、まるで自分のことのようにその回復を感謝することができました。また、サンタクララ教会出身のT姉妹の弟さんが、火災のため重症を負い、生死の境をさ迷うという時があり、私たちも彼のために、熱心に祈りました。ようやく一命をとりとめましたが、片足を失った彼は、今度は、精神的に落ち込んでしまいました。でも、それから一年たって、彼は今、希望をもってリハビリテーションに励み、昨年末には、私たちの祈りを感謝して、教会宛てにサンキューカードを出してくださいました。主にある交わりが、遠く日本にまでひろがり、また、その家族にまで広がっていることを聞く時、私たちは主にあるコイノニアの喜びを感じます。私は、私たちの教会がそういう教会であることを誇りに思っています。

 「堅く立って、動かされることなく」私たちの信仰の土台、"Bible"(聖書)、"Action"(聖書を実行すること)、"Holy Spirit"(聖霊の助けに頼ること)、"Eternity"(永遠を見つめること)という "B-A-S-E" にしっかり立ち、「主のわざ」"Worship"(礼拝)、"Outreach"(伝道)、"Reproduction"(弟子づくり)、"Koinonia"(キリストにある交わり)に「いつも励んで」まいりましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、今年、私たちのために「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」とのみことばをお与えくださり、感謝いたします。あなたのおことばには、常に約束が伴っています。あなたは、私たちを動かないものとしてくださり、私たちに、私たちしかできない主のわざをさせてくださることを信じて、ありがとうございます。この一年も、あなたが与えてくださったこのみことばに励まされ、また、互いに励ましあって前進する私たちとしてください。わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。

1/13/2002