堅く立って、動かされることなく

コリント第一15:58

15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 新年、明けましておめでとうございます。みなさんは新しい年をどのようにお迎えになったでしょうか。おひとりびとりが「今年はこのみことばによって歩もう」と、決意を新しくされた聖書の個所を与えられていることでしょう。祈り会や他の集会で、そうしたみことばを紹介してくだされば大変励まされます。教会としても、今年の標語にコリント第一15:58「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」が与えられています。今年も、みんなでこのみことばをそらんじて言えるように覚えましょう。そして、このみことばに導かれ、励まされて、前進していきたく思います。

 一、聖書の土台

 コリント第一15:58は「堅く立って、動かされることなく」と言います。「堅く立って、動かされないもの」というと、皆さんはどんなものを思いうかべますか。ヨセミテ公園にあるようなそびえ立つ岩山でしょうか。ミアウッドにある樹齢何百年もの大木でしょうか。しかし、それらもやがて時が来ればくずれ落ち、倒れてしまうでしょう。「堅く立って、動かされないもの」は、なかなかありそうでないものです。この国なら絶対大丈夫、この会社なら絶対大丈夫などということなど、世の中には何にもないということを、昨年はいやというほど思い知らされましたね。また「あの人なら絶対大丈夫」「他の人はどうでも、私は絶対大丈夫」ということも言えませんね。人は変わり、自分も変わります。「今年こそ…」と決心したことも、一日過ぎ、二日過ぎ、そして三日過ぎて、もう出来なくなってしまい、三日坊主で終わるというのが、お互い様のようですね。この世界に、自分も含めて変わらないものはありません。では、時代が変わっても、状況が変わっても動かされることのないものをどこに見付けることができるのでしょうか。私たちが堅く立つことのできる土台はどこにあるのでしょうか。

 私たちの土台となるべき第一のものは、なんといっても「聖書」です。旧約聖書は三千年前、新約聖書は今から二千年も前に書かれた書物ですが、それは今もなお、変わらない、私たちの人生の土台です。旧約聖書の主な部分が編纂された紀元前9世紀ころといえば、イスラエルでは預言者たちが活躍した時であり、ギリシャではホメロスの詩『イリアス』や『オデュッセイ』が出来上がったころです。しかし、同じ時代につくられた聖書の詩篇は、今なお、多くの人々に読まれ、愛されていますが、ホメロスの詩は文学の専門家によって読まれるだけで、人々から忘れられてしまっています。聖書の詩篇について、W. E. グラッドストーンは「ギリシャ文明のすべての驚異を集めても、この素朴な詩篇にはおよばない」と言いましたが、まさにその通りです。新約聖書ができた紀元一世紀にも、セネカの『幸福論』、プリニウスの『博物誌』、タキトゥスの『ゲルマニア』、プルタコスの『英雄伝』など、名だたる書物が作られていますが、皆さんは、こうした作者や書物の名前を聞いても、全く何のことだか分からないことでしょう。そのように、こうした書物はみな過去のものになってしまっています。しかし、聖書は、どんなに時代が変わっても決して古びることなく、二十一世紀においても、私たちを導く確かな光になっているのです。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)とある通りです。

 二、みことばの実行

 明治から大正にかけて世界一周旅行をして、各地で伝道した木村清松という牧師がいました。彼がグランドキャニオンを訪れたとき、あるアメリカ人が「どうです、すごいでしょう。日本にはこんな雄大なものはないでしょう」と言ったところ、「そりゃすごいさ。だって、これはぼくのお父さんのものだもの」、つまり、天の父の作品だと答えて、その人をギャフンとさせたという話があります。また、彼があるアメリカ人の教会で説教することになったのですが、その教会の講壇は小柄な彼には高すぎて、どうもぐあいが悪かったのです。すると、そこの教会の牧師が講壇にある大きな聖書を持ってきて、この上に立って説教しろと言うのです。木村清松先生は、いくらなんでも聖書を踏み台にするわけにはいかないと答えると、その牧師は「聖書に立って話しをするのだからいいのだ」と言ったそうです。それで木村清松先生がどうしたか、その先は話を聞いていませんが、私たちの人生の土台である「聖書に立つ」というのは、聖書の上に実際に乗っかることでないことは皆さんもお分かりですね。では、どうやって、私たちはこの聖書の上に堅く立つのでしょうか。

 それは、聖書に聞き従うこと、聖書を守り行うことです。イエスはマタイの福音書五〜七章にある「山上の説教」をされた時、その締めくくりに「岩の上に家を建てた人」と「砂の上に家を建てた人」のお話をなさいました。ひとりの人は、家を建てる時に、堅い岩盤に達するまで掘ってそこに基礎を築きました。しかし、もうひとりの人は、十分な基礎づくりをしないで家を建てました。でき上がって、外から見れば、どちらの家も同じように見えたでしょうね。しかし、やがて、嵐になり、洪水が両方の家に押し寄せました。十分な基礎を置かなかった人の家はたちまち倒れましたが、岩を基礎にした人の家は大丈夫でした。家の土台が確かかどうかは、嵐がになった時に明かになるのです。ここでいう建物の土台、基礎は神のことばのことです。神のことば、聖書は、動かない、確かな岩であり、この上に立つ時、私たちの人生は、たとえ、嵐にあうことがあっても、ゆるがないものになるのです。

 マタイの福音書のこの部分を注意深く読んでみますと、岩の上に家を建てた人は「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者」(マタイ7:24)と言われ、砂の上に家を建てた人が「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者」(マタイ7:26)と言われていることが分かります。岩の上に家を建てた人も、砂の上に家を建てた人も、おなじように、神のことばを「聞いた」のです。しかし、一方は聞くだけで終わらず、聞いたことばを信じ、それに従い、それを行いました。しかし、一方は、聞くには聞きましたが、それを信ぜず、それに従わず、それを行いませんでした。聞いたみことばを行ったか、行わなかったが、このふたりを分けたのです。聖書に立つ、みことばに堅く立つとは、単に聖書の知識を頭に詰め込むことではありません。聖書の知識は多ければいい事は言うまでもありませんが、それよりももっと大切なのは、その知識が信仰に結びつき、その信仰が行いとなって現われることです。100のことを知っていても、そのひとつも行わないよりも、10のことしか知らなくても、それを信じ、守り、行おうとする人を、神は喜んでくださるのです。

 ヤコブの手紙にこう書かれています。「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:21-22)みことばは、それを信じる時、あなたを救うものとなり、それを実行する時、私たちは祝福を受けるのです。もちろん、私たちは、神のことばのすべてを完全に守り行うことはできません。罪を犯すことも、失敗することもあるでしょう。しかし、それらを乗り越えてなお、みことばに取り組んで行く時、私たちはみことばに堅く立つものとなることができるのです。みことばを信じ続け、それを行い続けていくなら、私たちは、どんな嵐にも倒れない、どんな大水にも流されない人生の家をを建て上げることができるのです。

 三、聖霊の働き

 「堅く立って、動かされることがない」ために、私たちは、確かな土台、基礎、"BASE" に立たなくてはなりません。その "BASE" の 'B' は "Bible"で、"BASE" の 'A' はみことばを実行するという意味での "Action" です。では "BASE" の 'S' は何かというと、それは "Holy Spirit" 聖霊です。

 聖書は、いたるところで、私たちの土台はイエス・キリスト、そして、その土台の上に家を建ててくださるのは、聖霊であると教えています。たとえば、コリント第一3:11に「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」と書かれています。そして、16節から「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」と言っています。私たちが聖霊の宮であることは、コリント第一6:19-20にも繰り返されており「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」と書かれています。私たちがイエス・キリストを信じた時、キリストは私たちのうちに聖霊を住まわせてくださいました。聖霊は「助け主」と呼ばれるお方であって、私たちがキリストという土台の上に人生の家を築きあげていくのを助けてくださるお方です。クリスチャンは、自分の力だけで人生を築きあげていくのではありません。クリスチャンのうちに住んでいてくださる聖霊が、クリスチャンを聖霊の宮として建てあげてくださるのです。

 聖書の一番はじめの書物、創世記は、みなさん、お読みになっていますね。そこには、世界のはじめのことが書かれていますが、そこにすでに聖霊が登場しているのにお気づきでしょうか。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」(創世記1:1ー2)とあります。神がこの世界をお造りになった時、聖霊は、この世界を包みこむようにして、これを育まれたのです。「神の霊は水の上を動いていた」の「動いていた」という言葉は、母鳥が雛鳥をおおうようなしぐさをあらわす時に使うことばだと言われています。聖霊は、神の創造のわざに深く関わって、この世界をいつくしみ、育て、造りあげてくださったのです。聖霊は、建物を建てる時のコントラクターのように、この世界のあらゆるものを組み立て、そこに命をお与えになったお方です。世界を創造された聖霊が、キリストを信じる者に新しい命を与え、神の宮として建てあげてくださるのです。「堅く立とう」「動かされるまい」と頑張ってみても、自分の力でそれができる人は誰もいません。私たちには聖霊の力が必要なのです。神が「堅くたちなさい。動かされてはいけない。」と命じるだけでなく、そうすることができるために、私たちに助け主を与えていてくださるのです。「聖霊が助けてくださる」―このことを忘れないで、聖霊により頼み、助けを求めていきましょう。

 四、永遠の目標

 私たちの土台の第四のもの、 "BASE" の 'E' は "Eternity" 「永遠」です。永遠に目を向ける時、私たちは「堅く立って、動かない」ものとなることができます。目先のことだけを見ていると私たちは、絶えず一喜一憂していなければならず、道を間違えてしまいます。

 ずっと前のことですが、甲子園球場で、ベースボールのホームベースからファースト、セカンド、サード、そしてまたホームベースへとラインを引く仕事をしている人の話を聞いたことがあります。その人は「自分の足もとを見ていたら、まっすぐなラインを引くことができない。遠くにあるポールを見ているとまっすぐなラインを引くことができる」と言っていました。

 イエスの弟子たちがガリラヤ湖で嵐に遇った時、イエスが水の上を歩いて、弟子たちの船に近づいてこられたことがありました。それを見た時、弟子たちは「幽霊だ」とおびえてしまったのですが、ペテロは勇敢にも「主よ。もし、あなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と願い出て、ペテロも水の上を歩いて、イエスの方に向かったのです。皆さんもご存じのように、ペテロは、二、三歩進んですぐに沈んでしまいました。なぜでしょうか。それはペテロが「風を見て、こわくなった」からだとマタイ14:30は言っています。ペテロは、まっすぐにイエスを見つめていなければならなかったのに、自分の足もとを見、波立つ湖を見たために沈んでしまったのです。

 旧約時代の信仰者たちも、地上のものではなく、天にあるものを見つめ、待ち望んでいました。聖書は「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:16)と言っています。

 使徒パウロが、コリント第一15:58で「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」と教えているのも、実は、復活について論じた後でした。キリストがもう一度来てくださり、永遠の国を打ち立ててくださる時、復活されたキリストと結びあわされた私たちも復活して栄光の中に入るのです。この地上でキリストを信じる者は、永遠の状態をすでに保証されているのです。だからパウロは、この地上で「堅く立って、動かされることなく」歩むようにと、勧めているのです。パウロはコリント第二4:16-18でこうも言っています。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」私たちも、目先のことに心奪われることなく、もっと遠くを、永遠を見つめようではありませんか。今日のこの日の歩みが永遠につながっているのだということを思って、一日一日の歩みを大切にしていこうではありませんか。

 私たちの "BASE" は "Bible" "Action" "Spirit" そして "Eternity" です。神の言葉、聖書を人生の基盤にし、それを実行し、聖霊の力に頼り、永遠を見つめて前進していく、そんな一年であるよう、ご一緒に祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま。今年、私たちのために、この一年のみことばをお与えくださってありがとうございます。この一年、このみことばを心に覚え、ことあるごとにこのみことばに照らして自らをふりかえることのできる私たちとしてください。週ごとの礼拝を通して与えられるみことばによっても、私たちを導き、私たちをさらに動かぬものとして建てあげてください。主イエスの御名で祈ります。

1/6/2002