からだのよみがえり

コリント第一15:20-26

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15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
15:23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
15:26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。

 一、死後の世界

 「人は死んだらどうなるのか。」それは、誰もが、興味があり、関心があり、知りたいことです。それで、死後の世界について様々なことが言われていますが、どれも、想像にすぎません。多くの人が「臨死体験」を語っていますが、それも、その人の記憶に基づいたもので、確かなものではありません。臨死状態は本当の死ではなく、蘇生は復活ではないからです。ほんとうに死んで、復活した人はイエス・キリストの他誰もありません。死後の世界については、イエスが直接に、あるいは、使徒たちを通して教えてくださったことによってしか知ることはできないのです。

 人は死んだら、その魂が祝福の場所か、苦しみの場所のどちらかに行きます。ルカ16:19-31には「金持ちとラザロ」の譬話があります。これは譬えですが、「ラザロ」という名前が使われているので、実際にあったことに基づいていると思われます。カトリック教会では、このラザロは、マルタ、マリアの兄弟「ベタニアの聖ラザロ」とは別に、「聖ラザロ」と呼ばれ、「聖人」とされています。全身できものだらけの病人で、金持ちの家の食卓のおこぼれだけて生きていた貧しい人が「聖人」とされているのは、驚きです。ラザロの魂は、その惨めな身なりとは正反対に、神に頼り切った清らかな信仰で満たされていたからでしょう。

 ラザロは、死後、天使に連れられて、「アブラハムの懐」に行きましたが、金持ちのほうは苦しみの場所に行きました。金持ちはアブラハムに向かって、「父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません」と願うのですが、アブラハムの答えは「私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない」というものでした。生きている者と死んだ人々との世界の間に、行き来できない隔たりがあるように、同じ死後の世界にも、ラザロのいる場所と金持ちのいる場所には厳格な区別があったのです。

 イエスは、ユダヤの人々にこの譬えを話されたので、死後の幸いな場所を「アブハムの懐」と呼びましたが、イエスと共に十字架に架けられた強盗には、同じ場所を「パラダイス」と呼んでいます。この強盗は、十字架の上で悔い改め、イエスを信じたとき、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)との約束を頂いたのです。この強盗は、今までさんざん悪事を働いてきたでしょう。十字架の上で死のうとしている彼には何の善いこともできません。しかし、イエスは、この強盗の悔い改めと信仰に答えて、彼をパラダイスに入れてくださいました。「ここまできたらどうにもならない。今さら信仰を持っても、悔い改めても…」などと、誰ひとり言うことはできません。悔い改めるのに、信仰を持つのに、遅すぎることは決してないのです。今日という日、今という時が、救いの日、恵みの時なのです。

 パウロやヨハネは生きながらパラダイスを垣間見ました(コリント第二12:4、黙示録4:1)。ヨハネは、そこに神の御座があり、天使たち、長老たちがいて、さらに、数え切れないほどの人々が「白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持って」(黙示録7:9)神と、神の子羊イエス・キリストを賛美していると言っています。これは、「天の教会」と言ってもよいでしょう。「パラダイス」と「天の教会」は同じところです。イエス・キリストの贖いを受け、地上の信仰の歩みを終えた者たちは、「天の教会」に移っているのです。

 聖書は、人は死んだらそれで終わりではなく、死後もその魂が続くことを教えています。しかし、キリストから離れたところに、安らぎのあるはずがありません。大切なことは、生きている時も、死んだ後もキリストと共にいることです。イエスは弟子たちに約束されました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14:1-3)ここで大事な言葉は「わたしがいるところに、あなたがたもいる」です。主イエスは、私たちが地上にいる間、「あなたのいるところに、わたしもいる」と言ってくださいました。この地上で、主に従い、主と共にいた者は、死後も変わらず、主と共にいることができるのです。どんなものも、たとえ、死でさえも、私たちを主から引き離すことはできないからです。

 二、からだのよみがえり

 死んで復活されたイエス・キリストは、私たちに死後の世界を明らかにしてくださいました。そればかりでなく、死後の世界のその後にある希望を確かなものとしてくださいました。それが「からだのよみがえり」と「永遠の命」です。

 この希望は、イエスが来られる前から、イスラエルの人々に明らかにされていました。人は死んで死後の世界に行く。しかし、永遠にそこにいるのではなく、神の裁きの時がやって来るとき、死者の運命が定められます。ダニエル12:2はこう言っています。「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。」

 ベタニアのラザロが死んだ時、イエスがマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と言いました。それは、ラザロが今、ここで生き返るという意味だったのですが、マルタは、それを一般的な意味に受け取って、「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」とイエスに返答しています(ヨハネ11:23-24)。「終わりの日のよみがえりの時」に信仰者が復活することは、信仰深いイスラエル人なら、誰もが持っていた信仰でした。

 ユダヤ教にはパリサイ派とサドカイ派があって、パリサイ派は復活を信じ、サドカイ派は信じていませんでした。パウロはパリサイ派で復活を信じていましたが(使徒23:6-8)、復活されたキリストに出会って回心してからは、律法に教えられて復活を信じるだけでなく、イエス・キリストの復活によって、復活の希望をより確かなものとしました。しかも、この復活の希望はイスラエル人だけのものではなく、異邦人であっても、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられることを理解したのです。

 それで、パウロは、コリント第一15:20で、キリストの復活は、「眠った者の初穂」だと言っているのです。「初穂」というのは、そのあとに大きな収穫が続くことを表す言葉です。復活はイエスおひとりの身に起こったことではなく、イエスを信じる多くの人々の復活がその後に続くことを教えています。イエスの復活は、第一にイエスが神の御子であることを証明します。第二に、キリストを信じる者を罪と死から救います。そして、第三に、キリストを信じる者も、やがて、キリストと同じようにもう死ぬことのない栄光のからだに復活することを保証するものなのです。

 では、この復活はいつ起こるのでしょうか。それは、キリストの再臨の時です。コリント第一15:23に「しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです」とある通りです。テサロニケ第一4:16-17には、「キリストに属している人たち」のうち、まず、先に世を去った人々が復活し、続いて、生きていてキリストの再臨を迎えた人々が死を体験しないで、復活した者と同じように変えられます。この時に起こることは、コリント第一15:52に、こう描かれています。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

 使徒信条で「からだのよみがえりを信ず」と告白するとき、私たちは、ここでもう一度「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」という部分を思い起こします。そして、キリストの審きの時は、真の信仰者にとっては、復活の時であることを覚えて感謝するのです。

 三、永遠の命

 使徒信条は、「からだのよみがえり」に続いて、最後に「永遠のいのちを信ず」と告白して、「アーメン」で閉じています。聖書では、神の審判ののちに確定する究極の祝福を意味するものとして、「永遠のいのち」という言葉が使われています。 マタイ19:28-30で、イエスはこう言われました。「人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」キリストの審判のとき、受ける報いのうち、最高のものが「永遠のいのち」という言葉で言い表されているのです。マタイ25:31-46では、その裁きが、きわめて具体的に語られています。そして、最後に、主は、「正しい人たちは永遠のいのちに入る」と言われました。ここでも「永遠のいのち」は究極の祝福、幸いを意味しています。

 それでテモテ第一6:12で、パウロは「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」と言っているのです。ここでは「永遠のいのち」が、来たるべき世で受ける、信仰者への報いとして描かれています。ローマ6:23に「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とあるように、「永遠のいのち」は、もちろん、恵みによって与えられるもの、信仰によって受け取るものです。けれども、信仰を失えば、誰も「永遠のいのち」を確信することはできません。ですから、パウロは、「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」と言っているのです。このことは、救いの恵みが「高価な恵み」であることを知っている人には、よく分かることだと思います。

 しかし、聖書は同時に、信仰者にはすでに「永遠のいのち」が与えられているとも教えています。イエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」(ヨハネ5:24)「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47)と言われました。またヨハネは「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです」(ヨハネ第一5:13)と、その手紙に書いています。

 これはいったいどういうことでしょうか。それは、イエス・キリストの救いには、「過去に救われ、現在、救われて続けていて、将来、完全に救われる」という三つの時制があることを知れば、よく分かります。キリストの十字架により罪の負い目が赦されました。今、キリストの復活により罪の力から守られています。やがてキリストの再臨によって罪の存在からも救われるのです。

 からだの命は時間とともにだんだん減っていきます。生まれた時は100パーセントであっても、寿命がくるとゼロになります。しかし、神から受けた「永遠のいのち」は、だんだん増えていく命で、地上の命が終わっても、信仰者は「永遠のいのち」によって生かされ続け、キリストの再臨のときに100パーセントになるのだと思います。いや、100パーセンを超えるのかもしれません。その栄光は人間の言葉では言い表せないほどのものでしょう。

 「からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず。」この信仰告白は、私たちの最後の敵である死への勝利を宣言しています。初代のキリスト者は、迫害のため殉教していった人々を思いながらも、復活の信仰によって、力づけられ、励まされ、また慰めあってきました。パウロはコリント第一15章全部を使って「からだのよみがえり」を説きましたが、最後にこう言っています。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(コリント第一15:58)「からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず。」この信仰は、私たちを、さまざまな苦しみの中で支えるばかりでなく、順調で平穏な時にも私たちを導き、力づける信仰なのです。

 (祈り)

 父なる神さま。御子イエス・キリストの復活によって、私たちに「からだのよみがえり」と「永遠のいのち」の希望を確かなものとしてくださり、心から感謝します。この希望、この命に生かされて、日々の生活をあなたのため送ることができるよう、助け、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/28/2019