神を見る

コリント第一13:8-13

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13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
13:11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
13:12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

 一、聖なる神

 イエスは「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」(マタイ5:8)とおっしゃいました。主は、心の清い人には「神を見る」という祝福が与えられると約束しておられますが、神は「霊」であって、姿や形を持っておられません。その神を、わたしたちはどうやって見ることができるのでしょうか。また、罪ある人間が聖なる神を見ることが可能なのでしょうか。

 旧約の時代、神は、人の姿や天使の姿でご自分を現わされました。アブラハムは、三人の旅人を迎えましたが、二人は天使で、ひとりは主なる神でした。アブラハムは、主の前に立ち、主と語り合っています(創世記18章)。ヤコブは、ペヌエルというところで、ひとりの人と取っ組み合いをしましたが、その人は、人の姿で現われた神でした。それで、ヤコブは「わたしは顔と顔とをあわせて神を見たがなお生きている」(創世記32:30)と言って、驚き、恐れました。「ペヌエル」という地名には「神の顔」という意味がありますが、ヤコブをはじめ、選ばれた人々は「顔と顔とをあわせ」て神を見る体験をしたのです。

 ヤコブが言ったように、罪ある人間が「神を見る」というのは「死」を意味する恐ろしいことでした。ですから、神が、燃える柴の中からモーセに語りかけられたとき、「モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した」(出エジプト3:6)のです。

 預言者イザヤは、幻の中で神を見ました。イザヤが見たのは主なる神が天の王座に座っておられ、その衣のすそが神殿に満ちているという幻でした。神殿は神がそこに住まわれる場所とされていましたが、神殿は神の衣のすそさえも入れることができませんでした。神は地上のどんな場所にも閉じ込めることができない、偉大で聖なるお方であることを、この幻は伝えています。この幻を見たとき、イザヤは「わざわいなるかな。わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ6:5)と叫びました。イザヤのように、神の言葉に聞き従い、それを人々に伝えた預言者でさえ、神の栄光の前に立たされる時、自分が滅びていくのを感じたのです。

 日本でのことですが、信仰をさげすんでいたある人が、私の家内に「神がいるなら、おまえの神を見せてみろ」と言って詰め寄ったことがあります。家内は「わたしが神さまを見せるということはできませんが、神さまがあなたに会ってくださるように祈ります」と答えました。すると、その人は慌てて、「やめてくれ、そんなことは祈らないでくれ」と言い出したのです。神を否定するような人でさえ、もし、ほんとうに神が見えたら、それは恐ろしいことになるということを知っていたのです。イザヤのような信仰者でさえ、神の前に立つことができず、滅び行く自分を感じたとしたら、神に逆らって「神を見せてみろ」などと言う人は、神を見たらなら、たちまち滅びてしまうでしょう。そういう人には、「あなたが今、神を見たら、死んでしまいますが、それでもいいですか。本気で神を見たいと思っていますか」と答えるしかないのかもしれません。神はそれほどに聖なるお方であり、神を見るということは、決して軽々しいことではないのです。

 二、神の顔

 しかし、恵み深い神は、神を信じる者に、神を見てなお生きていられるばかりか、神を見て、心が満たされる恵みを与えてくださいました。「見る」といっても、それは、五感によってではなく、五感を超えたところで、つまり霊によって霊である神を見るという恵みです。霊によって、また信仰によって神を見ることは、聖書で「神の顔を見る」という言葉で表現されています。アダムとエバは罪を犯すまでは、神の顔を仰ぎ見て生活していました。ところが、罪を犯した時、「人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」(創世記3:8)のです。それ以来、人はずっと神の顔を避け続けてきましたが、神は、そのような人間にも、み顔を向け続けてくださいました。人の霊は、神の顔を仰ぎ見ることなしには、生かされることはないからです。

 聖書には神の「手」や「足」、「目」や「耳」といった表現がありますが、それは、神が人間のような姿、形をしておられるという意味ではありません。こうした言葉は、神の力や知恵、知識、そして、神のさまざまなご性質を表わしているのです。同じように神の「顔」という言葉も、神のご人格を表わしています。神の「顔」を求めるとは、神との人格と人格との交わりを求めるということなのです。

 オックスフォード大学の教授であったジェームス・フーストン先生は、その著書の日本語訳の序文に、日本を訪ねたときの印象を、次のように書いています。「日本文化について、私に最初に強い印象を与えたのは、雨の日に都心に向かう地下鉄から降りてきた人々でした。誰もが傘の中に隠れるようにして歩いていました。ですから人の顔は、ビニール袋に包まれているかのようで、見ることができませんでした。」(『喜びの旅路』12頁)フーストン先生は、「人格」(パーソン)の大切さに触れるために、こうしたことを書きました。よく、「顔の見えない日本人」ということが言われます。日本では、「集団」は重んじられても「個」が大切にされない、「人格」(パーソン)が物質主義や生産活動の中に埋もれてしまっていると指摘されます。しかし、聖書は、神が「パーソン」であり、人は神にあって「パーソンフッド」(真の人間らしさ)を取り戻すことができると教えています。神は、神の「顔」を求め、「顔と顔とをあわせて」神にまみえること、つまり、神との生きた関係、人格と人格のまじわりを持つようにと、わたしたちを招いておられるのです。

 聖書は「主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ」(詩篇105:4)と呼びかけています。詩篇27:8は、その呼びかけに、こう答えています。「あなたは仰せられました、『わが顔をたずね求めよ』と。あなたにむかって、わたしの心は言います、『主よ、わたしはみ顔をたずね求めます』と。」

 人は神を見ることができます。肉眼によってではなく、信仰の目によってです。しかも、神を見て滅びるのでなく、神を見て生かされ、満たされるのです。主イエスが言われた「心の清い者」とは、神のみ顔をたずね求める信仰の心を指しています。神は信じる者に「わたしはあなたの神、あなたはわたしの者」と言ってくださいます。ですから、信仰者は「あなたはわたしの神、わたしはあなたの者です」と、答え、神と「わたし」と「あなた」という人格の関係を築きあげていくのです。詩篇27:4に「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」とあります。信仰者の中に、この心の願いが与えられるよう、心から祈ります。

 三、キリストによって

 新約の時代には、人は、キリストによって神を見ることができるようになりました。ヨハネ1:18に「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」とありますが、ここで「神を見た者はまだひとりもいない」とあるのは、旧約時代にアブラハムやヤコブ、またモーセなど、選ばれた人々が「神を見る」という体験をしたことを否定するものではありません。ましてや、信仰によって神のみ顔を仰ぎ見た人々の信仰を無意味なものにすることでもありません。ヨハネの言葉は、神は、過去にも、さまざまな方法でご自分を「見せて」こられたが、神の御子イエス・キリストによって、過去のあらゆる方法にまさるしかたで、ご自分をお示しになったということを言おうとしているのです。

 ですから、イエスは「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9)と言い、コロサイ1:15に「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」とあり、ヘブル1:3には「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる」とあるのです。神の御子が人となって、この世に来てくださったことによって、わたしたちは、見えない神を見ることができるようになったのです。そして、神の御子は、神そのものですから、新約時代のわたしたちは、旧約時代のどんな預言や幻や特別な出来事を通してよりも、もっとはっきりと神を知り、神を「見る」ことができるのです。

 しかし、神がどんなにご自身を明らかに示されても、人間の側にそれを見る「視力」がなければ、人は神を見ることができません。ジャン・カルヴァンは「聖書」を「メガネ」にたとえました。神は、人が神をはっきりと見ることができるために聖書をくださいましたが、もし、人に視力そのものがなければ、いくら「メガネ」をかけても、ものは見えません。それで、カルヴァンは、人にはどうしても神を見る視力を与えてくれる聖霊が必要だと言っています。

 聖霊は、信じる者のうち働き、神を知る「知力」や神を見る「視力」を与えてくださるのです。使徒パウロは、モーセが神と顔と顔とをあわせて語り合ったときのことに触れ、クリスチャンはそれよりも、もっと大きな啓示を受けている、神の栄光を見ていると言っています。コリント第二3:18にこう書かれています。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」クリスチャンは、旧約時代の聖徒たちよりも、もっと確かに神を知り、神を見ることができるのです。この幸いに気づき、感謝し、この特権をもっと用いて、さらに主を知るものになりたいと思います。

 「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」このことは救われて聖霊を受けた信仰者の内面ですでに始まっています。信仰者は、この世にあっても、神を「見」、イエス・キリストを「見る」ことができるのですが、救いの完成のときには、もっとはっきりと神を見ることでしょう。コリント第一13:12にこうあります。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」古代の鏡は、青銅を磨いて作りました。表面に水銀を塗ってよく見えるようにしたものもありましたが、今の鏡のようにはくっきりとは見えません。今は、神を「鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」にすぎません。しかし、「その時」には、直接主を見るのです。

 わたしたちは、この地上で、「なぜなんだろう」と思うこと、「なぜこんなことが起こるのだろう」と、この世の矛盾や、理不尽なことに疑問を持つことが多くあります。いくら考えても答えのでないこともあります。しかし、わたしたちが直接主を見るときには、そのすべてが解決するのです。真面目な信仰者ほど、自分の信仰の足りなさを感じます。神とのまじわりが不十分であることに心の痛みを覚えます。しかし、そうしたもどかしさが吹き払われる時がやってくるのです。

 イエス・キリストを信じる者は暗闇の中には生きてはいません。死の暗闇を体験するようなことがあっても、信仰者は、輝く主の顔を仰ぎ見ることができるのです。盲目の讃美歌作者ファニー・クロスビーは、「いつかはさらばと」という賛美で、こう歌いました。「み顔を拝して、われは告げまつらん。恵みにわが身も贖われたりと。」彼女は障碍(がい)のある人とは思えないほど快活な人だったと伝えられていますが、それは、肉眼は見えなくても、信仰の目で、いつも主を見ていたからだろうと思います。そのように、今、顔を顔をあわせて神を見ながら生きる人には、やがての日に、主を直接見るという恵みが与えられるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、わたしたちが闇の中をさまようことがないように、イエス・キリストの光によってご自身を示し、聖霊の光によって信じる者の内面を照らしてくださいました。主イエスが言われたように、あなたを信じ、あなたのみ顔を求める「心の清い人たち」となって、「神を見る」さいわいにあずかりたいと、心から願います。なおも、わたしたちの信仰の目を開いてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/4/2016