寛容・親切・善意

コリント第一13:4-7

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13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

 御霊の9つの実の最初の3つ、「愛・喜び・平安」は神との関係における「実」でしたが、次の3つ、「寛容・親切・善意」は他の人との関係における「実」です。私たちのかかえる問題の多くは人間関係の問題で、それは昔も今も、世界のどの国でも共通しており、生きているかぎりつきまとうものです。けれども、私たちが、聖霊によって「寛容・親切・善意」という実を結ぶことができたら、きっと多くの問題が解決していくことでしょう。

 一、寛容

 最初に「寛容」についてですが、この言葉はもとの言葉で「マクロスミア」と言います。「マクロ」に似た言葉で、反対の意味を持つのが「ミクロ」、あるいは「マイクロ」です。「マイクロ」は小さいものを表わします。マイクロフォンは小さな音も拾うことができるので、「マイクロ」という言葉が使われています。これに対して「マクロ」は、大きなものを指します。今、パンデミックや戦争、紛争によって、どの国の経済も大きな打撃を受けています。経済が一国だけで成り立たず、世界規模のものになっているからです。そうしたものを扱う経済学を「マクロ経済学」と呼びます。「ミクロ」が小さいものを表すのに対して「マクロ」は大きいものを表すからです。ですから、ギリシャ語の「寛容」(マクロスミア)は、大きな心、広い心という意味になります。すべの良い人間関係は、大きな心、広い心で相手を受け入れることから始まるのです。

 私たちはお互いに、生まれ育った文化や環境によって、なんらかの「先入観」や「偏見」を持っています。そうしたものによって物事を判断すると、「こういう人は悪い人だ」、「こんなことは間違っている」と、他の人を頭から否定してしまうことになります。実は、パウロも、もとはそういう人でした。彼は、パリサイ派というユダヤ教の中でも、最も保守的なグループに属していました。この人たちは他のグループを決して受け入れようとはせず、同じユダヤ人でも、律法を守っていない人々を「罪人」と決めつけ、同じ国に住むサマリヤ人を憎み、ユダヤ人でない人々を人間以下のもの、「犬」と呼んで軽蔑していました。パリサイ人たちはイエスを十字架に追いやり、イエスをキリストと信じる人々を迫害しました。パウロは、その迫害の先頭に立っていた人物で、「寛容」のひとかけらもない人でした。

 ところが、神は、そのようなパウロを大きな心、広い心で受けとめ、彼を、キリストを迫害する者から、キリストを宣べ伝える者へと変えてくださいました。パウロは、神の「寛容」によって救われました。パウロはローマ人への手紙でこう書いています。「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」(ローマ2:1-4)ここでパウロは、自分を正しいとし、「他人をさばく人」を責めていますが、それは、彼の過去の姿でした。パウロはクリスチャンを罪に定め、迫害していた「他人をさばく人」でした。しかし、そんな彼も神の「豊かないつくしみと忍耐と寛容」によって悔い改めに導かれました。パウロは、自分と同じ過ちに陥っている人たちに、神の大きな寛容を軽んじることがないようにと訴えているのです。

 誰からも愛されたことのない人は、誰をも愛することができません。人は、愛を受けてはじめて、愛を与える者になることができます。それと同じように、自分がどんなに大きな寛容によって神に受け入れられているかが分からなければ、他の人に対しても寛容になることができません。

 風呂敷は、たった一枚の布ですが、小さいものでも、大きいものでも、四角いものでも、丸いものでも、どんな形でも包むことができます。アタッシュケースは、頑丈で格好のいいものですが、その中にスイカは入りません。しかし、風呂敷ならできます。私たちも、アタッシュケースのように四角四面で、規格以外のものを入れることができない狭い心ではなく、風呂敷のように、どんな人でも包み込んでしまうような大きな心を持ちたいと思います。

 マーカムという人の詩に次のような一節があります。

彼らは輪を描いて私たちを締め出した。
しかし、私たちは、彼らを取り込む、
もっと大きな輪を描いた。
相手が、私たちとの間に線を引いたからといって、私たちも線を引く、相手が背を向けたから私たちも背を向けるというのでは、人間関係の問題は解決しません。神からいただく寛容で相手を包み込むことができるなら、良い人間関係を作ることができます。「寛容」という漢字は、「寛(ひろ)い容(い)れもの」と書きます。神が私を、寛容をもって受け入れてくださった、そのことを知るなら、私たちも他の人に対してそうでありたいと願い、寛容を祈り求めることでしょう。

 二、親切

 次に「親切」ですが、ローマ2:4には「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか」とありました。ここで「いつくしみ」と訳されている言葉は「親切」で、そこにも「親切」と「寛容」が書かれています。

 イエスの有名な言葉にも「親切」が出てきます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)ここで「負いやすい」と訳されているのが「親切」という言葉です。「くびき」は二頭の家畜が首にかける木です。くびきに鋤(すき)や鍬(くわ)をつけて田畑を耕すのに使います。二頭の家畜の足並みが揃わないと、くびきは苦痛を与えますが、足並みが揃うと、一頭づつの労力は、半分になります。それで、家畜にはじめてくびきをかけるときには、すでにくびきを負ったことのある家畜とペアにして、くびきに慣れさせます。イエスは、私たちにくびきを負うように言われますが、ご自分がまず十字架というくびきを負ってくださいました。そして、私たちの隣に来て、私たちのくびきの一方を負ってくださるのです。それによって私たちのくびきは、うんと楽なものになります。イエスは「わたしのくびきは負いやすい、いつくしみ深い、親切なものである」と言われたのです。

 このように、イエスは私たちに徹底して「いつくしみ」と「親切」をくださるのですから、私たちも何かをする時には、それが「親切」かどうかを考えみたいと思います。よく言われることですが、何かを語るとき、三つのことを考えてみると良いでしょう。まずは、「それは正しいか、真実か」ということです。本当でないことを言えば、嘘になってしまいますし、間違ったことを言えば、人を中傷することになります。子どもを叱る時、「あなたはいつも悪いことばかりして…」と言うことがありますが、これは本当ではありません。子どもは朝から晩まで悪いことばかりしているわけではありませんし、子どの全部が悪いのでもありません。ですから、相手を正しく評価してあげなければなりません。

 次は、「それは適切か、必要か」ということです。たとえそれが正しいこと、本当のことであっても、今、この場で、口に出す必要のないこと、口にしてはいけないこともあるのです。夫婦や親子、友人同士、信仰の仲間など、親しい間がらであっても、いつでも何でも思ったとおりのことを口にしていいわけではありません。言わなくてもいいことが、案外多くあるものです。それを言ってしまったために、人間関係がこじれてしまうことが良くあります。「それは本当か」ばかりでなく、「それは必要か」ということも心に留めたいものです。

 そして、それと同時に「それは親切か」ということも考えて言葉を選びたいと思います。同じことを言うにも、責めるような言葉や口調ではなく、柔らかい言葉で優しく言ったほうが相手に「親切」です。聖書は「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります」(コロサイ4:6)と教えています。私たちの態度や行ない、言葉に、暖かさ、優しさ、心遣いなどの「親切」が伴うよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

 三、善意

 最後に、「善意」ですが、これは英語では "Good will" です。"Goodwill Industries" という慈善団体がありますが、聖書で使われている「善意」に「慈善」という意味もありますが、そのもともとの意味は、「真実を求める切実な思い」です。聖書をラテン語に訳したヒエロニムスは、「『善意』という言葉の意味は、イエスが神殿で商売をしている人たちを追い出した、あの神の家を思う熱心の中に見ることができる」と言っています。あのとき、イエスは鞭(むち)を振るって、商売人を神殿から追い出しました。ですから、聖書が教える「寛容」は真理が曲げられても平気な顔をしていることではないこと、また、「親切」も、それによって人々の罪を助長するようなものではないことが分かります。寛容も親切も「真実を求める切実な思い」という意味での善意に支えられてはじめて、ほんとうのものになるのです。

 エペソ5:8-9には「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです」とあります。「善意」と「正義」と「真実」がほとんど同じ意味で使われています。また、ローマ15:14には「私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています」とあります。本当の寛容は、善も悪もごちゃ混ぜにし、悪と妥協することではありません。それは、ひたすら善なるもの、善なるお方を求めていくことの中にあるのです。また、本当の親切は、間違ったことをそのままにしておくのではなく、それを「互いに訓戒しあって」正していくことにあるのです。

 聖書の人間関係についての教えは、人との関係でうまく立ち回わることを教えるものではありません。そこでは真実が貫かれなければなりません。けれども、それは、相手に真実を要求するだけのものであってはなりません。自分の判断が、偏見や誤解に基づいていないだろうか、自分の好みや感情に左右されたものでないだろうか、表面だけしか見ていない浅はかなものではないだろうかと、まず自分を吟味することが必要です。自らに真実を求め、人に対して真実を尽くすことが「善意」です。

 コリント第一13章は「愛の賛歌」と呼ばれる章です。どこかの平和な国の宮廷詩人が書いたのではないかと思えるような、じつに繊細で美しい文章です。これは、かつての迫害者、今は使徒とされ、福音を伝え、教会を建てあげるために苦闘していたパウロによって書かれました。しかも、この「愛の賛歌」は、分裂や分派、不道徳、裁判沙汰、礼拝の混乱など、いくつもの問題を抱えていたコリント教会に宛てて書かれたものなのです。そうと知って驚くかもしれませんが、神の愛によって、その寛容と親切と善意によって救われたパウロだからこそ愛を歌うことができ、問題だらけのコリント教会だからこそ、それを解決する本物の愛が必要だったのです。

 私たちも、神の愛によって、その寛容と親切と善意によって救われました。本物の愛がすべての問題を解決することを知りました。神からいただいた寛容と親切と善意をもって他の人に接することができるよう、聖霊に信頼し、その実を祈り求めていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが寛容で、親切で、善意にあふれたお方であることを感謝します。あなたが私たちにどんなに寛容でいてくださったか、どんなに親切にしてくださったか、また、善意をもって取り扱ってくださったかを、より深く知らせてください。それによって、私たちがもっとあなたに信頼することができ、その信頼によって、私たちのうちに御霊の実を結ぶことができるようにしてください。救い主キリストのお名前で祈ります。

6/11/2023