愛・喜び・平安

コリント第一13:1-3

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13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 9つの「御霊の実」は3つづつに分けることができます。「愛、喜び、平安」、「寛容、親切、善意」、「誠実、柔和、自制」です。最初の3つ「愛、喜び、平安」は自分と神とを結びつけてくれるもの、次の3つ「寛容、親切、善意」は自分と他の人との関係を良いものにしてくれるもの、そして最後の3つ「誠実、柔和、自制」は自らを整えるために必要なものです。御霊の実について学んでおくことは、御霊の実に満たされるために役立つことですので、今週から、御霊の実を3つづつ学ぶことにしました。きょうは、最初の3つ、「愛、喜び、平安」についてです。

 一、愛

 「御霊の実」の最初は「愛」です。「愛」が最初にあるのは、それが御霊の実の一つでありながら、そこに他の8つの実がすべて含まれているからです。コリント第一13:4-7に、こうあります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」4節には「愛は寛容であり、愛は親切です」とあって御霊の実である「寛容」と「親切」が、そのまま出てきます。また、「愛は自慢せず、高慢になりません」は「柔和」につながります。5節に「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず」とありますが、これは「自制」の姿を表しています。「人がした悪を心に留めず」は「善意」、6節の「不正を喜ばずに、真理を喜びます」は「誠実」のことです。また、「真理を喜ぶ」というところに「喜び」が出てきます。7節の「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」との言葉は、困難や苦しみの中でも私たちを支えてくれる「平安」のことを言っています。

 このように、「愛」には、他の御霊の実がすべて含まれています。「愛」から「喜び」、「平安」、「寛容」、「親切」、「善意」、「誠実」、「柔和」、「自制」が生まれて来ると言うことができます。「愛」が御霊の実で第一のものであるのは、そのような理由によるのです。

 しかし、「愛」と言っても、世の中にはさまざまな「愛」があります。男女の愛(エロース)もあれば、親子の愛、兄弟姉妹の愛などの肉親の愛(ストルゲー)、また友情(フィリア)という愛もあります。新約聖書では、それらはそれぞれ、別のギリシャ語で表されています。しかし、御霊の実の「愛」には、そのどれでもなく、「アガペー」という言葉が使われています。「アガペー」には「ひたむきな愛」、「無条件の愛」、「犠牲の愛」といった意味があって、「アガペー」は、人間の愛を超えた神の愛を表すときに使われます。

 神の愛は無条件の愛ですが、人間の愛は条件つきの愛です。結婚相手を選ぶにも条件が伴います。日本の内閣府が行った「結婚・家族形成に関する意識調査」(2014年)によると、男女ともに結婚相手に求めるものに、「価値観が近いこと、一緒にいて楽しいこと、気を使わないこと、金銭感覚がしっかりしていること」などがあげられていました。しかし、これはお役所の調査で、あまり本音が反映されていないように思います。民間の調査では男性は女性に「容姿が好みに合っていること、家事や育児ができること、感情のコントロールができ、文句を言わないこと」を求めます。女性が男性に求めることは、「背が高く、高学歴、高収入で、長男でない人、結婚したら専業主婦にしてくれ、東京に住み続けられる人」だそうです。こういうのを「だからの愛」、あるいは「もしもの愛」と言います。「あなたは私の条件に合っている。だから愛します」「もし、条件通りにしてくれたら愛します」というわけです。親が子どもを愛する愛は無条件の愛に近いものですが、それでも、「もしいい子にしていたら」、「親の期待に応えてくれたら」といった条件がどこかに入り込むこともあるのです。

 しかし、神の愛、「アガペー」の愛は違います。聖書はこう言っています。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6-8)神が私たちを愛してくださるのは、私たちが善い行いを積み重ね、努力して神の子どもにふさわしい者になったからでしょうか。いいえ、神が私たちを愛してくださったのは、私たちの正しさや善良さのゆえではありませんでした。もし、そうしたものが基準となり、条件となるなら、私たちは誰一人、神の愛を確信することができないでしょう。神は、私たちが信仰を持たず、神に逆らっていたときでさえ、私たちを愛してくださっていました。神は、「罪人」であり、「不敬虔な者」であった私たちを愛してくださった。愛される理由など何もないのに、神は無条件で私たちを愛してくださいました。

 無条件の愛は無代価の愛、無償の愛です。愛には犠牲が伴います。誰かを愛するとは、その人のために心を使い、労力を使い、時間を使い、お金を使うことです。誰かをかばうために自分の名声を犠牲にすることもあります。究極の犠牲は自分の命を捧げることでしょう。愛の大きさは犠牲の大きさによって証明されますが、神は、ご自分の最愛の御子イエスを犠牲にされたことによって、ご自分の愛を証明されました。天にも地にもイエス・キリスト以上に尊いお方はありません。ところが、神は、私たちを御子以上に尊いものとみなし、御子の命で、私たちを罪と死と滅びから買い戻してくださったのです。ローマ5:8に「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」とある通りです。

 このように、神は一方的に私たちを愛してくださったのですが、神が私たちを愛されたというだけでは、じつは、愛はまだ半分だけのもので完全ではありません。愛とは、愛され、また、愛する双方向のものですから、私たちが神に愛されるだけでなく、私たちが神を愛する者とされることによって、愛は、はじめて完全なものとなるのです。聖霊は私たちに対する神の愛を私たちに届けるだけでなく、私たちの内に、神を愛する愛を生み出し、育ててくださるのです。ローマ5:5に「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」とありますが、この「神の愛」は、神が私たちを愛してくださる愛と、私たちが神を愛する愛の両方を指しています。聖書には「御霊の愛」や「御霊による愛」(ローマ15:30、コロサイ1:8)という言葉があって、聖霊が私たちの内に神や人を愛する愛を与えてくださることを教えています。

 人は自らの功績によって神の愛を勝ち取ることができないように、自分の力で神を愛することはできません。それをさせてくださるのは聖霊です。「愛」は、じつに、御霊の実です。木が実を実らせるためには光や熱、水や養分が必要ですが、聖霊は私たちを照らす光であり、温める熱です。また、私たちを活かすいのちの水であり、私たちに愛の実を豊かに実らせる養分です。心を開き、この「神からの愛」を受けましょう。そして、聖霊に信頼して、「神への愛」を育てていきましょう。

 二、喜び

 「御霊の実」の第二は「喜び」です。この「喜び」がこの世の楽しみや「面白、可笑しいこと」でないことは、言うまでもないことです。これは、それ以上のもので、私たちのたましいが救われていること、やがて天の栄光にあずかり、御国を受け継ぐことの喜びです。それは、地上での成功によって得られる満足以上のものです。弟子たちが悪霊を追い出すことができ、それに大喜びしていたとき、イエスは彼らにこう言われました。「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)イエスの権威によって力あるわざを行うことよりも、自分のたましいが救われ、天に名前が記されていることのほうが、はるかに素晴らしいこと、喜びに値することだと言われたのです。

 この喜びがあれば、私たちは、どんな困難や苦難にも耐えることができます。ローマ5:2-3には「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます」とあります。

 あるクリスチャンが、迫害を受けたとき、こう言いました。「信仰に反対する人たちは、私を地面に叩きつけました。しかし、私はぺしゃんこになりませんでした。彼らが私を強く叩きつければ叩きつけるほど、私は、高く跳ね上がって、イエスに近づくのです。なぜなら、聖霊が私を喜びで満たしていてくださるからです。」聖霊による喜び、それが私たちを苦しみの中でも支えてくれるのです。

 三、平安

 「御霊の実」の第三は「平安」です。これもまた、たんなる心の「やすらぎ」以上のものです。聖霊が私たちの心に与えてくださる平安は、イエス・キリストによって罪を赦していただき、神との間に成立した「和解」に基づくものです。キリストは、私が支払わなければならない罪の代価をすべて支払ってくださいました。神に対する負債はすべて帳消しになったのです。このことによって私たちは大胆に神に近づくことができるのです。私たちは、正しい意味で聖なるお方を恐れなければなりませんが、それは、神の前でびくびく怯えることではありません。私たちは、神との平和を持っているのですから、イエスが与えてくださる赦しの恵み、また、聖霊によるきよめの恵みを信じて、神に近づくのです。ローマ5:1にこう書かれています。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」私たちの平安は、この「神との平和」に基づいています。

 「愛」も、「喜び」も、「平安」もすべて、神から出て、イエス・キリストが私たちのために勝ち取ってくださったものです。そして、聖霊は、キリストが勝ち取ってくださったものを、私たちに届けてくださるのです。聖霊のお働きによって、「愛、喜び、平安」が私たちのものとなり、それによって、私たちは父なる神と、御子イエス・キリストとまじわることができるようになるのです。

 聖霊が与えてくださる「愛、喜び、平安」を求めましょう。その中でも愛を第一に求めましょう。聖書は、もし愛がなければ、知恵、知識、信仰、癒やし、奇跡、預言、異言などの「御霊の賜物」は意味を持たず、何の役にも立たないと教えています。愛は「御霊の賜物」にまさるだけでなく、そのあとに続く「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」などの出発点です。愛を第一にし、愛を求めましょう。それは、素直な心で神の愛を受け入れることから始まります。それが、御霊の実に満たされる第一歩です。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、あなたの限りない愛をイエス・キリストによって私たちに示し、聖霊によって私たちの内に注いでくださいます。それは、私たちがあなたの愛を喜び、その愛に安らぐだけでなく、あなたを愛することができるためです。私たちを、愛の実で満たし、喜びで満たし、平安で満たしてください。そして、もっとあなたに近づく者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/4/2023