からだの調和

コリント第一12:19-27

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12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 今年、私たちは、コリント第一12:27のみことば、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」を標語にかかげ、礼拝のメッセージでは、教会とは何か、教会は何のためにあるのかをお話ししてきました。来週からはサンクスギヴィングのメッセージ、そして、キリストの降誕を待ち望む待降節(アドベント)のメッセージ、年末のメッセージと続きますので、今日が、今年の標語にちなんだメッセージの最後になります。もういちど、今年の標語が意味していることをご一緒に考え、この標語が教会のあり方にどう反映されるべきなのかを学びましょう。

 一、聖霊による調和

 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」このみことばは、「教会はキリストのからだである。」と教えています。多くの人は「教会」という言葉を聞いて「建物」を思い浮かべるでしょうが、教会は単なる建物ではありません。ある人は教会を「組織」や「活動」であると考えていますが、教会はたんなる組織でも、活動でもありません。それは「キリストのからだ」なのです。「教会がキリストのからだである。」と言われると、多くの人は「なるほど、聖書は、教会を人間のからだにたとえているのか。からだには手や足、目や耳のそれぞれに違った役割をするものがあっても、からだはひとつであって、調和を保っている。聖書は、人間のからだを例にあげて、みんな仲良くしなければならないということを教えているのだ。」と考えるでしょう。そうした考えは、まるで的外れというわけではありませんが、大切なことを見落としています。聖書は、教会を「からだのようなものである。」とは言わず、「キリストのからだである。」と言っています。教会はからだにたとえられているのではなく、教会はキリストの正真正銘の「からだ」だというのです。教会はかしらであるキリストにつながっていて、それはキリストのいのちで生かされています。「どこを切ってもそこからキリストの血が流れ出る。」と言ってよいほどの、生きたキリストのからだです。キリストは、私たちの罪のために十字架の上で死なれましたが、三日目によみがえり、今も、変わらず生きておられるお方です。キリストが生きておられるお方であるように、教会も、キリストの生きたからだなのです。

 そして、キリストを信じて教会に属しているひとりのひとりのメンバーは、キリストのからだの器官のひとつひとつです。私たちは、お互いに、キリストのからだの「手」であり、「足」であり、「目」であり、「耳」であるというのです。人間のからだは、206個の骨、およそ400種類の筋肉、循環器や消化器と呼ばれる十個の内臓、呼吸器や感覚器と呼ばれる表面の器官から成り立っています。骨はカルシュウムから出来、筋肉はたんぱく質から出来ています。からだの各器官は、みんな違ったもので出来ており、違った形をしており、違った働きをしていますが、からだは一つです。そこには、一致があり、調和があります。なぜでしょうか。各器官が、お互いに一致できるよう努力したり、譲りあったりしているからでしょうか。そうではありませんね。それぞれの器官は、それぞれ自分の役割を果たしているだけです。しかし、からだには一致があり、見事な調和があります。それは、からだにはさまざまな器官があっても、もとはひとつの命から生み出されたものだからです。同じように、キリストのからだの各器官が、ひとつの命、キリストのいのちによって生み出されたものであるなら、そこには、もとから一致があり、調和があります。キリストのからだに属する人々が、懸命に努力してやっと一致や調和を生み出すというのではありません。キリストのからだに属する者たちは、自分たちで一致や調和を造り出すのではなく、キリストによって与えられた一致と調和を保っていくのです。しかし、キリストのからだに、もしキリストによって生み出されたのでないものがあったなら、ちょうど、他人の臓器を移植しても拒絶反応が起こるように、どんなに努力してもそこには一致も調和も生まれないでしょう。キリストによって生み出されたものと、そうでないものとはひとつのキリストのからだになることができないのです。

 キリストのいのちは聖霊によって私たちに届けられます。コリント第一12:13には、キリストのからだを生み出し、保っておられる聖霊の働きが示されています。こう書かれています。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」「ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も」とありますね。「ユダヤ人とギリシャ人」、「奴隷と自由人」というのは、聖書の書かれた時代には、決してお互いにひとつにはなれないものでした。当時、ユダヤ人は、「自分たちは聖なる神の民だが、ギリシャ人は汚れた偶像礼拝者である。」と考え、ギリシャ人は、「私たちは洗練された文化人だが、ユダヤ人は野蛮で狂信的な人々である。」と考えていました。ユダヤ人とギリシャ人は、宗教的に相容れないものでした。奴隷と自由人というのも、誰も変えることのできない社会制度でした。しかし、イエス・キリストの救いによって、宗教の壁はくずれ、人々を縛り付けていた制度は無意味なものとなりました。教会では、ガラテヤ3:28にあるように、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子も」ないのです。アメリカでは奴隷制度は、南北戦争というひとつの革命によって廃止されました。人間的な差別のいっさいをこえて、キリストを信じる者がひとつのからだに結びあわされるのは、聖霊の力によって、はじめて可能となるのです。

 「一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」とありますが、これは、私たちがバプテスマ(洗礼)を受けた時に、キリストのからだにつながれたということを教えています。人は、教養を蓄えてキリストのものになるのでも、良い行いを積み重ねて救われるのではありません。どんなに努力しても、自分をきよめることも、神の子になることもできません。自分の罪を認め悔い改めて、キリストによって罪を赦し、きよめていただく、キリストを信じ、聖霊によって神の子として生んでいただくこと以外に、救われる道はありません。ここでは「聖霊のバプテスマ」は「聖霊による生まれ変わり」という意味で使われています。イエス・キリストを信じた者が受けるバプテスマ(洗礼)は、聖霊による生まれかわりを目に見える形で表わしたものです。私たちは洗礼によってキリストにつながり、キリストのからだの生きた器官となります。「すべての者が一つの御霊を飲む者とされた」というのは、聖餐を意味しています。洗礼によって、キリストのからだの一部とされた者は、洗礼を受けてからあずかる聖餐で、自分がキリストのいのちによって生かされ、キリストのからだにつながっていることを確かなものにしていくのです。

 「一つの御霊によってバプテスマを受け」「一つの御霊を飲む者とされた」と、「一つの御霊」ということばが強調されているのは、聖霊が私たちをひとつにしてくださるお方であるからです。もし、私たちが聖霊によって生まれ変わっているなら、私たちはキリストのからだです。聖霊によって「イエスは主です。」と告白しているなら、私たちはひとつです。聖霊によって歩んでいるなら、私たちはその一致を味わうことができるのです。キリストのからだには、人間的な結びつきで出来るものではありません。それは、イエス・キリストへの信仰を通して働く聖霊によるのです。信じる者を生まれ変わらせ、信仰の告白に導き、日々につくりかえてくださる聖霊のお働きを受け入れようではありませんか。

 二、役割における調和

 教会は、聖霊によって結び合わされたキリストのからだです。メンバーのひとりびとりがキリストのことばにしたがい、聖霊によって歩んでいるなら、キリストのからだは一致を保ち、調和を保ち続けて成長していきます。しかし、教会といえども、この世に取り囲まれ、たえずこの世の影響にさらされています。この世の考え方、やり方が教会の中に入ってきて、教会の一致や調和が乱されることもあります。

 どのようにしてでしょうか。教会が活動だけで忙しくなってしまうことによってです。教会は、何よりも神を礼拝し、信仰を育てるところなのですが、そのことが忘れられて、教会がたんなる活動の場、アクティヴィティ・センターやカルチャー・センターになってしまう危険があります。もちろん、礼拝や祈り、聖書の学び以外の活動が何も要らないと言うのではありません。人々のニードに応えることは伝道のはじまりですし、教会員の信仰的な養いとともに、健康管理、経済管理、精神管理に役立つことを提供することも、必要でしょう。実際、今までもそういう活動は多く行なわれてきましたし、来週は女性の会で健康管理に役立つ日常のエクササイズを学びますし、来年一月には全教会でファイナンス・セミナーが行われます。しかし、こうした活動をする時は、教会の本来の目的が忘れられないように注意が必要です。アメリカにある日系の教会には、さまざまな日本人のグループや日本語で行なわれる催しの、ほとんどすべての案内がやってきます。そうしたものに関わる場合、何を優先するかの賢い選択が必要です。

 教会が、たんなる活動の場になってしまうと、特別な催しがある時にしか教会に来ない、今日は、自分の当番があるから教会に来るが、何もなければ休むといったことになりかねません。実際、いくつかの教会でそのようなことを見てきました。また、人の目に見えるところで活発に活動している人は重んじられても、陰の働きをしている人は軽んじられるというようなことが起こるかもしれません。コリント第一12:15-16に足が「私は手ではないから、からだに属さない。」と言い、耳が「私は目ではないから、からだに属さない。」と言うとありますが、ここで、「足」や「耳」というのは、教会の中で目立たない人々、軽んじられている人々のことをさします。手と足を比べれば、もちろん、手のほうが目立ちます。「口八丁手八丁」ということばがありますが「口八丁足八丁」とは言いませんね。アメリカでは手ぶりを交えて話すことが多いですし、握手をして挨拶します。手は、足よりもうんと目立ちます。また、目と耳を比べれば、もちろん、目のほうが「目立ち」ます。耳などは髪の毛に隠れて見えないことだってあります。それで、「足」や「耳」から「どうせ、自分たちは必要ないのでしょう。自分たちはからだに属していませんよ。」というなげやりな不満の声が出て来るのです。しかし、手があれば足はいらないのでしょうか。目があれば耳はいらないのでしょうか。そんなことはありませんね。からだのどの部分も、目立つものも目立たないものも、外側のものも内側のものも、大きいものも小さいものも、全部必要で大切なものです。キリストのからだも同じです。キリストのからだの各器官はそれぞれに役割が違います。それぞれに役割が違うからこそお互いが必要なのです。17節に「もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。」とあります。みんなが目立ちたくって、全身が目になったら、それはキリストのからだではなく、化け物になってしまいます。キリストのくださった一致と調和を保つために、神がそれぞれに与えてくださった役割を喜ぶ信仰が必要です。自分の役割を謙虚に受けとめることができなければ、他の人の役割を重んじることはできません。また、お互いの間に、陰の働きを重んじる思いが育って欲しいと思います。プラスティックのショッピンバッグを綺麗にたたんでキッチンに置いてくださる方、ふきんを消毒して洗ってくだる方など、ほとんど人の目に触れない奉仕を、黙々と、喜んでしてくださる方が大勢いてくださいますが、そうした陰の働きに感謝する思いがもっと欲しいと思います。ある人が「私は、教会で目立ちたいとは思いません。キリストのからだの足の裏でありたいのです。でも、私は自分を卑下しません。足の裏が全身を支えているのですから。」と言いました。このようなスピリットで、おごらず、てらわず自分の役割を果たせたら、どんなに幸いなことでしょう。

 三、愛における調和

 教会の一致、調和は、教会にこの世の考え方、やり方が入ってくる時、乱されると言いましたが、教会が最も乱されるのは、教会が個人の目的達成の場になってしまうことによってです。教会の活動にやりがいを見出す、教会の奉仕に生きがいを見出すのは、決して悪いことではありません。教会の活動や奉仕は、歯をくいしばって嫌々するものではなく、自分も楽しみながらするものなのですが、注意しないと、教会の活動や奉仕が、神のためではなく、自分がそれによって満足を得るためのものになってしまいます。神のための奉仕なのか、自己実現のための活動なのかは、神の目には明らかですが、人の目には区別がつきにくく、自分でも気付かずに、自己実現に走ってしまうことがあります。教会の奉仕は義務としていやいやすることではありませんが、同時に、それによって自分のやりたいことを達成するための手段でもありません。そうしたことが嵩じると、教会の中でアクティヴィティやプロジェクトが優先され、それについていけない人々が、おいてきぼりにされてしまいます。21節に、目が手に向かって「私はあなたを必要としない。」と言い、頭が足に向かって「私はあなたを必要としない。」と言うとあります。これは、足や耳が自らを卑下して、「自分たちはからだに属していない。」と不満をもらしたのと逆ですね。目や頭がおごり高ぶって、目が「手は要らない。」頭が「足はいらない。」と言っているのです。手足がなければ、からだは動くことができません。からだに手や足が要らないわけはありませんが、そもそも、ここに「頭」が登場するのはおかしいことなのです。キリストのからだで、頭(かしら)はイエス・キリストの他ないはずです。なのに、いつの間にか、教会の中で「かしら」になってしまっている人がいたのです。人間のからだでも、からだの各部分は、それぞれの役割を果たすだけで、決して、目が手を支配したり、口が足を支配したりはしません。からだの各部分には上下関係はなく、それぞれ頭(脳)によってコントロールされて、役割を分担しあっているだけです。キリストのからだも同じです。教会にはさまざまに責任ある立場がありますが、それは、決して地位や権力や支配ではありません。それはキリストからいただいた役割りや機能にすぎません。キリストだけがかしらであり、私たちは、かしらであるキリストによって自分に与えられた役割を果たすのです。

 このことが分かれば、22節からのことばはおのずと分かるでしょう。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」

 世の中の組織では、互いに切り捨てあったり、斥けあったりしています。えこひいきや差別的な扱いがあります。しかし、キリストのからだである教会は違います。教会がキリストのからだとして建て上げられていくために、まず、キリストへの信仰を育てていきましょう。そして、それと共に、他の人の苦しみを感じ取ることができる心、他の人の喜びを素直に喜ぶことのできる思いを育てていこうではありませんか。キリストのからだは、そのような愛のうちに調和を保ち、建てられていくのです。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」このみことばが、まず、泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶ教会のまじわりの中に実現することを心から願います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、今年一年、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」とのみことばを標語にかかげてきました。しかし、それをどれだけ深く理解し、考え、自分自身と、教会の歩みに反映することができたでしょうか。まだまだそのことができないでいることを、あなたの前に悔い改めています。教会が、悔い改めと信仰によって、また、みことばと御霊に導かれて、与えられた目的に向かって歩むことができますように。互いを認め合い、理解し合い、励まし合う愛のまじわりによって、あなたが与えてくださった一致と調和を保つことができますよう導いてください。教会のかしら、主イエス・キリストのお名前で祈ります。

11/14/2004