イエスは主

コリント第一12:1-3

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12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。
12:2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。
12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

 今年も残すところあと一ヶ月と少しになり、来年のカレンダーを用意する時期になりました。一般のカレンダーでは一年は1月1日から始まりますが、教会のカレンダー(教会暦)は、一般のカレンダーよりも早く、クリスマスの四週前のアドベントから一年が始まります。聖書に「ダビデの子として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」とあるように、教会暦は、一年を通してイエス・キリストを覚えるために、イエス・キリストを中心に組み立てられています。アドベントではイエス・キリストが人となって世に来られたことを覚え、エピファニーではイエス・キリストのおおやけの生涯を覚え、レントではイエス・キリストのご受難を覚え、イースターにはイエス・キリストの復活を覚えます。ペンテコステとその後に続く夏から秋にかけての長い期間には、教会とともにいて私たちを養い、導いておられるイエス・キリストを覚えます。来週はいよいよアドベントですから、きょうは教会暦の最後の日曜日です。この日は「王なるキリスト主日」(Christ the King Sunday)と呼ばれ、イエス・キリストが「王」であることを覚える日になっています。この日はたいてい感謝祭の週と重なり、礼拝のメッセージも「感謝」について語られることが多いのですが、今朝は、教会暦に従って、イエス・キリストが主であり、王であることについてお話したいと思います。イエス・キリストが主であると信じ、王であることを覚えることが、ほんとうの感謝につながるのですから、それは、きょうの感謝祭礼拝にふさわしいと思います。

 一、イエスは神

 コリント第一12:3に「イエスは主です」ということばがあります。これは、クリスチャンの信仰を言い表わしたことばの中で、一番短かいものです。ローマ10:9にあるように人は「イエスを主と告白し…救われ」ます。そして、救われた者がともに集まって「イエスは主なり」と言って、主イエスの前に膝をかがめるのが、クリスチャンの礼拝です。

 しかし、「イエスは主なり」と言う場合、「主」という言葉にはどんな意味があるのでしょうか。それは、第一に「神」という意味があります。

 神はさまざまな呼び名で呼ばれますが、多くの場合、「ヤーウェ」というお名前で呼ばれています。これには「わたしは有って有る者」という意味があります。このお名前は、神があらゆるものの存在の根源であるということを表わしています。自分の意志でこの世に生まれ、自分の力だけで生きている人は誰もいません。私たちは皆、自分以上の意志と力によってこの世に生まれ、生かされています。重い病気の後やっと回復した人、また、大きな災害から救い出された人たちのほとんどが「私は今まで、自分で生きていると思っていました。でも、ほんとうは生かされていたんですね」と口を揃えて言います。そのとおりで、人は神によって造られ、生かされているのです。神がその手を少しでも引っ込められたなら、私たちはたちまち消えさってしまうのです。人は「有って無きがごときもの」です。しかし、神は何ものによっても支えられる必要のない、「有って有るお方」です。

 ユダヤの人々は、この神のお名前をそのまま口にするのは畏れ多いと考えて、「ヤーウェ」のお名前があるところを「わが主」という意味の「アドナイ」という言葉で読み替えました。それで、ヘブル語聖書がギリシャ語に翻訳されたとき、「ヤーウェ」と書かれていたところはギリシャ語で「キュリオス」(「主」)となりました。キリストの使徒たちが、イエス・キリストの福音を伝えた時代はギリシャ語が共通語で、使徒たちはギリシャ語聖書を使い、そこから引用しました。使徒たちはヘブル語で「ヤーウェ」とある箇所を引いて、イエスこそ主、神、ヤーウェであると説いたのです。

 聖書にはイエスご自身が「わたしはヤーウェである」と言っておられる箇所があります。ヨハネ8:58です。そこには、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」とあります。英語では "Before Abraham was, I AM." となっています。イエスはユダヤ人として生まれました。ですから聖書はイエスを「アブラハムの子」と呼んでいます。しかし、イエスは、二千年も前のアブラハムのその先からおられたのです。イエスは、母マリヤの胎内に宿ったときにその存在をはじめられたのではなく、はじめから存在しておられたのです。イエスが言われた「わたしはいる」("I AM.")ということばは、神が「わたしは有ってある者」("I am that I AM.")と言われたのと、同じ意味です。イエスはご自分が旧約時代に「ヤーウェ」の名で呼ばれた神であることをはっきりと示されたのです。

 使徒たちは、このイエス・キリストに「あなたは生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と告白し、「わが主、わが神」(ヨハネ20:28)と呼んで礼拝しました。

 「イエスは主なり。」これは第一に、イエス神がであることを教えています。信仰を求めている方々が、残らず、イエスが神であることを知り、「イエスは主なり」との告白に導かれますよう、心から祈ります。

 二、イエスは人生の主

 「イエスは主なり。」このことばは第二に、イエスが私たちの人生の主人であることを教えています。

 神はあらゆるものの主権者です。すべてのものを思いどおりに治める権利を持っておられます。そして、イエスが神であるなら、イエスは、私たちを支配される主です。イエスを神と信じることは、同時に、イエスを自分の人生の主人として受け入れること、自分をしもべの立場に置いてイエスに従うことなのです。「主」という言葉は、「サー」とか「ミスター」というような敬称として使われることもありますが、聖書では、「主」という言葉は、ほとんどの場合、「主権者」という意味で使われています。

 使徒パウロは、自分を「キリストのしもべ」と呼びましたが、その「しもべ」という言葉に「奴隷」という言葉を使いました。「私はキリストの奴隷だ」と言ったのです。当時奴隷は主人の所有物でした。奴隷を生かすも殺すも主人次第でした。パウロは、かつては罪と死の奴隷であった自分が、イエス・キリストによって解放され、自由になったことを知っていました。しかし、その自由というのは、好き勝手なことをする自由ではなく、人を罪の奴隷から買い戻すためにご自分の命という尊い代価を払ってくださったイエス・キリストに仕える自由なのです。ですから、パウロは、みずからを「奴隷」と呼び、イエスを「主」と呼んで、自分の人生の主権者であるイエス・キリストに仕えたのです。自分がキリストの奴隷、つまりイエスの所有物であることを恥じるどころか、それを誇ったのです。

 イエスを神として信じることと、イエスを人生の主として従うこと、このふたつのことは切り離すことはできません。もし、人が「イエスには、私を守ってくれる神であってほしい、でも、私は、私の思い通りの人生を送りたい。イエスといえども、私に命令したり、指示したりして欲しくない」と言ったとしたら、それは、矛盾したことを言っていることになります。もしかしたら、その人は、イエスをほんとうに神として信じているのではなく、イエスを、気落ちしたときに慰めてくれる「お友だち」、あこがれの対象である「スーパースター」、寂しさをまぎらわしてくれる「マスコット」のようにしているだけなのかもしれません。それでは本当の信仰ではなく、偶像礼拝になってしまいます。

 もちろん、真実な信仰者であっても、イエスが自分の人生の主人であることが分かっていても、その通りに生きられないことがあります。この世に生きる限り、誘惑があり、迷いがあります。疑いを持つこともあるでしょう。イエスを自分の心の王座に迎えたはずなのに、いつしか、自分が再びその王座に座ってしまっているというようなことがあるかもしれません。しかし、真実な信仰者は、イエスを神としながら、イエスを主としていない矛盾、イエスを「主」と呼びながら、自分をしもべにしていないことに気付きます。その矛盾に苦しみ、その間違いを悔い改め、「イエスは主なり」と告白して、新しい歩みを始めます。イエスが自分の人生の「主」であることが、どんなに、平安で、力強く、喜びに満ちたものであるかを体験していくのです。

 この信仰の喜びを体験し続け、「イエスは主なり」と告白し続けていきたいと思います。

 三、イエスは世界の王

 「イエスは主なり。」これは、第三に、イエスは神の国の王であることを教えています。

 聖書が書かれた時代には、皇帝、王、領主たちが世界に君臨し、国を支配し、地域を治めていました。今では、王さまがいる国は少なくなりましたし、王国といえども、王さまが絶対的な権力を持つ国はほとんどなくなりました。しかし、ヨーロッパではイギリス、オランダ、ベルギー、スペイン、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、ルクセンブルク、モナコ、リヒテンシュタインの10カ国、アジアでは日本、タイ、ネパール、そして、最近ジグミ・ケサル国王が日本を訪問して話題になったブータン、ブルネイ、マレーシア、カンボジアの7カ国、太平洋ではトンガとサモアの2カ国、中東ではサウジアラビア、バーレーン、ヨルダン、オマーン、カタール、クウェートの6カ国、アフリカではモロッコ、スワジランド、レソトの3カ国で、合計28カ国もあります。ですから、イエスが「王」であることは、まったく、時代離れした、理解できないことではないでしょう。

 イエスは、王としてこの世においでになりました。イエスのお誕生のとき、東方の博士たちは「ユダヤ人の王」として生まれたイエスに黄金、乳香、没薬の贈り物を捧げて、その前にひれ伏しています。また、マタイ5-7章で「山上の説教」をされたとき、イエスは、山の上で人々を見下ろす場所に「座って」教えを与えました(マタイ5:1)。これは、イエスが王として、その王座に着き、その王座から国民に王の支配を告げたことを意味しています。イエスは、ローマ総督の前でも、ご自分が王であることをはっきり告げています(ヨハネ18:33-37)。

 イエスの国は、アメリカや中国などのような目に見える国ではありません。イエスの国に国境はありません。人種の区別もありません。それは、戦車や大砲、核兵器の恐怖によって成り立っている国ではありません。平和のうちに、愛によって支配される国です。そこには、貧富の差も、強い者と弱い者の差もありません。みんなが平等で、自由です。しかし、民衆の声が支配するところではなく、キリストのことばが支配するところです。その国は王国であり、王はイエス・キリストです。王であるキリストが治める国、それは豊かで、完全で、栄光に満ちています。

 この国はまだ来ていません。しかし、必ず来ます。そのときにはアメリカの大統領も、中国の首相も、世界28カ国の王国の王たちや女王たちも、王であるイエス・キリストの前にひれ伏すでしょう。私たち、信仰者たちはそのときを待ち望んでいます。だからこそ、世界がどんなに暗くなり、混乱しても恐れません。その中で「イエスは主なり」と告白して、王なるイエスを待ち望むのです。

 今朝の交読文、「栄光の賛歌」は、迫害の中にあった初代教会で作られ、今にいたるまで歌われているものです。当時、クリスチャンは皇帝を神として拝むよう強要されていました。しかし、王なるキリストに仕える人々は、たとえ、命を取られるようなことがあっても、そうしませんでした。「主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエス・キリストよ」と賛美し、王なるキリストを崇めたのです。

 2001年以来、世界はテロの脅威におびえてきました。アメリカの金融危機が世界を混乱させました。ヨーロッパでは破産寸前の国まで出るようになりました。各地で災害が起こり、アフリカではエイズで多くの人が苦しんでいます。道徳が衰退し、たいした理由もなく人を殺す、恐ろしい犯罪が増えています。自然環境が破壊され、ストレスがいっぱいの社会で、精神の障害を持つ人が増えています。世界はますます混乱していくでしょう。聖書に預言されているように、国と国とがぶつかりあい、民族と民族が争うようになるでしょう。しかし、私たちはくじけません。イエスの御国が来ることを信じ、この神の国の福音を伝えるのです。「イエスは主なり。」この信仰がすべての人に伝えられ、人々が王なるキリストを迎える備えができるよう、祈り続けていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、教会暦の最後の主の日に、私たちは、あなたの恵みを数えながら、この礼拝に集いました。罪を赦し、病をいやし、私たちを養い、励まし、導いてくださったことを感謝します。なによりも、イエス・キリストを私たちの神、私たちの主、そして世界の王として与えてくださったことを感謝します。この不安な時代にあっても、神であり、主であり、王であるイエス・キリストを見上げ、さらに感謝を深めることができますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

11/20/2011