主が来られる時に至るまで

コリント第一11:23-26

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11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

 この箇所は、主の晩餐のときに読まれる「制定の言葉」です。主の晩餐は、主イエスご自身が言われたように、主イエス・キリストを「覚えるため」、また「記念するため」に行うものです。では、主の晩餐でわたしたちは何を「覚え」、何を「記念する」のでしょうか。今朝はそのことを学びましょう。

 一、主の死を覚える

 主の晩餐式でわたしたちが覚えるのは、何よりも「主の死」です。26節に「それによって、…主の死を告げ知らせるのである」とあるとおりです。晩餐式でパンを手にするとき、わたしたちは、主の背中が鞭で、その頭が茨の冠で傷つけられたこと、その両手両足が釘で貫かれたこと、さらに脇腹から心臓へと槍が刺し込まれたことを思い起こします。杯を受け取るとき、わたしたちは背中から、頭から、両手両足から、そして、脇腹から流れ出た主の血を思い見るのです。主イエスはわたしの罪を背負い、わたしに代わって、この苦しみを受け、わたしが罪赦されて、神とともに生きることができるために、ご自分の命を差し出してくださいました。パンを食べ、杯を飲むたびに、この救いの事実を覚え、それを味わうのです。

 日本では「3月11日」は大震災と大津波、そして原発事故という惨事があった忘れられない日となりました。アメリカでは、同時多発テロのあった「9月11日」は、今も特別な日です。人々は、わたしたちの生活を大きく変えた出来事を心に刻むため、それを記念します。中国に「水を飲む者は井戸を掘った人の労苦を忘れてはいけない」ということわざがあります。わたしたちは、過去の人々の犠牲や労苦の上に立って今、生きています。どこの国でも先人たちの遺した恩恵を記念し、それを感謝します。わたしたち信仰者は、わたしたちの罪を赦し、永遠の命を与えるという最高の恩恵を遺してくださったイエス・キリストの恵みを覚え、感謝するため主の晩餐を守っています。

 詩篇103:2に「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(新改訳)とあります。聖書が「忘れるな」と戒めているのは、わたしたちが忘れやすい者だからです。「忘れやすい」といっても、それは「記憶力」のことではありません。むしろ、心のあり方、人生の基本姿勢のことです。わたしたちはとかく自分の都合で物を覚えていたり、忘れたりするものです。人から借りたものは忘れてしまって返さないのに、人に貸したものはいつまでも覚えていて取り立てるようなことをします。人を傷つけたことは簡単に忘れてしまうのに、人から傷つけられたことはいつまでも覚えているということもあります。

 心理学では、子どものころや思春期に受けた心の傷がその後のその人の人生を大きく左右すると言われます。みなさんもそういうことを体験したことがあると思います。何かをしようとしても、過去の嫌な思い出がよみがえってきて、そのために先に進めないということがあったのではないかと思います。「嫌なことはさっさと忘れなさい」というアドヴァイスをもらっても、何の役にも立ちません。しかし、神がどんなにわたしを愛してくださっているか、どんなに大きな恵みをくださっているかを知り、それを忘れず、覚えることによって、過去の束縛から解放されるのです。

 聖書にこうあります。

キリストは…わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(ペテロ第一2:24)
イエス・キリストが流された血が私たちの罪を赦し、イエス・キリストが受けた傷がわたしたちの心の傷をいやすのです。

 釘をぬいても釘跡は残り、手術を受けて悪いものが取り除かれても、その傷跡は残ります。そのように罪の赦しを受け、心のいやしを受けても、自分を束縛していた過去の出来事の記憶は残るでしょう。しかし、それはもはや心の中心にはありません。神の恵みが心を大きく占めるとき、それは心の隅においやられ、もう力を持たなくなるのです。キリストがわたしのために命を差し出してくださった。これ以上の恵みはありません。御言葉を学ぶことによって、この恵みをさらに理解しましょう。主の晩餐でパンをいただき、杯から飲むたびに、赦しといやしの恵みを受け取りましょう。主の恵みを覚えることによって、わたしたちはほんとうに自由で、力強い人生を送ることができるのです。

 二、主の復活を覚える

 主の晩餐で「覚える」のは、次に、主の復活です。使徒20:7に「週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、…」とあります。「州の初めの日」とは「日曜日」のことで、主が復活された日です。ユダヤでは「土曜日」が「安息日」でしたが、クリスチャンは主の復活の日、「日曜日」を礼拝の日に変えました。「パンをさくために」というのは「主の晩餐を守るために」という意味です。晩餐式は「パン裂き」(Breaking Bread)とも呼ばれてきました。初代教会では日曜日の礼拝ごとに晩餐式が行われていました。晩餐式は礼拝の中心でした。

 初代教会は晩餐式を、主がそれを制定された木曜日でも、主が十字架にかかられた金曜日にでもなく、主が復活された日曜日に守り行いました。なぜでしょう。それは主の晩餐が「主の死を覚える」とともに、主が復活されて、今、ここに、教会と共におられることを覚えるためのものだからです。晩餐式で主の死を覚えるといっても、それは、葬式や記念会のように、亡くなられたイエスを偲んで行うものではありません。わたしたちのために死なれましたが、復活され、今も生きておられるお方と出会うために行うのです。イエス・キリストは「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と約束されました。この約束のとおり、主がわたしたちと共におられることを、この晩餐で確認するのです。  わたしたちは主の晩餐でパンや杯を目で見、手にします。そのように、主が共におられるということが、目で見て、手でさわることができるほどに確かなことであることを、確認するのです。主が生きてわたしと共におられるとの信仰をもってパンを食べ、杯を飲みます。そのようにして、キリストの恵みと復活の命にあずかるのです。主は生きておられる。わたしと共におられる。これ以上に力強い励ましはありません。主の晩餐のたびごとに、主の死を覚えると共に主の復活も覚えましょう。今も生きておられ、わたしと共におられる主をさらに身近なお方として覚えたいと思います。

 三、主の再臨を覚える

 わたしたちは、主の晩餐で、さらに、主の再臨(Second Coming)を覚えます。聖書では「覚える」という言葉は過去のことを思い起こす場合だけでなく、将来を待ち望む、期待するという意味でも使われます。

 「再臨」というのは、「再び来られる」ということです。今から二千年前、神の御子は、人となり、最初にこの世に来てくださいました。神の御子は「イエス」と名付けられ、やがてご自分が「キリスト」(救い主)であることを明らかにされました。十字架によってわたしたちの罪を贖い、復活し、天に帰られました。イエスは今、父なる神の右の座においでになりますが、同時に、目に見えない形で教会と共にいてくださいます。しかし、やがて、父なる神の右の座から、再び、この世に、見える形でおいでになります。

 主が再び来られる。これは、主イエスご自身の約束であり、すべてのクリスチャンの確かな希望です。テサロニケ第一1:9-10にこう書かれています。

わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。
「彼ら自身が言いひろめている」とある、「彼ら」というのは、まだクリスチャンでない人たちのことです。テサロニケ地方では、クリスチャンでない人たちが、「クリスチャンたちは、イエス・キリストが、天から来るのを信じて待っているそうだ」と話していました。回りの人たちが、クリスチャンの信仰を話題にするほどに、クリスチャンがイエス・キリストを証していたというのですから、素晴らしいことです。

 キリストが再び来られる時、それは「世の終り」の時です。「世の終り」というと何か絶望的な気持ちになりますが、じつは、それは「神の国の完成」の時なのです。死も涙もない永遠の国がやってくるのです。クリスチャンはこの時にむかって旅する信仰の巡礼者です。イスラエルがエジプトから脱出して約束の地にいたるまで、天からのパンが人々を養ったように、主の晩餐は、わたしたちの天への巡礼の旅を支える糧です。主の晩餐を重ねるたびに、「主が来られる時」が近づいてくるのです。主の晩餐は、この再臨の希望がさらに強められる場です。26節に「主がこられる時に至るまで」とある通りです。

 もし人生がただ虚しく消えていくだけのものであったとしたら、わたしたちは決して意味のある生涯を送ることはできません。わたしたちは将来に確かな希望がなければ生きていけないのです。再臨の希望は、神を信じて生きること、神のために労することが、決して無意味ではない、無駄ではないことを保証してくれます。将来に希望を持つ人は今を喜びをもって生きることができます。そして今を喜びを持って生きている人は、過去に感謝をもって生きています。なんと多くの人が、過去を悔やみ、今を嘆き、将来に希望を見い出せないでいることでしょうか。しかし、そうした人々も、イエス・キリストに来るなら、そこに解決があります。主は、十字架の死によってわたしたちの一切の罪を赦し、心の傷をいやし、わたしたちを過去の束縛から解放してくださいました。主の復活は今を生きる力となり、再臨の希望がわたしたちの人生に大きな目標を与えてくれています。

 「キリストは死なれ、キリストは復活し、キリストは再び来られる。」(Christ has died, Christ is risen, Christ will come again.)これはクリスチャンの信仰のエッセンスです。多くの教会では、主の晩餐式で、会衆一同が声をそろえて「キリストは死なれ、キリストは復活し、キリストは再び来られる」と告白します。わたしたちも、この晩餐式で、「主の死がわたしを救い、主の復活がわたしを救いのうちにとどめ、主の再臨がわたしの救いを完成させてくださる」と告白しましょう。そして、過去を感謝し、今を喜び、将来に希望をもつ人生を歩み続けましょう。

(祈り)

 父なる神さま、わたしちは主の晩餐でパンを食べ、杯を飲むたびに、主の死を告げ知らせます。それと共に、復活された主の臨在を確認し、主の再臨を待ち望みます。毎月、繰り返し行う晩餐式が、たんなる儀式で終わることなく、わたしたちの信仰を養い、日々の生活を力づけるものとなりますように。主イエスのお名前で祈ります。

5/3/2015