なぜ聖餐を守るのか

コリント第一11:23-26

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11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 今朝の主題は「なぜ聖餐を守るのか」ですが、聖書には、「なぜ聖餐を守るのか」について体系的な説明はありません。しかし、初代のクリスチャンたちは、なぜ主がみことばだけでなく、パンとブドウ酒をも与えたのかを知っていました。初代教会では聖餐は「パン裂き」(Breaking Bread)と呼ばれ、初代のクリスチャンは「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをし」(使徒2:42)、「心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし」ていました(使徒2:46)。クリスチャンはこころからの喜びと感謝をもって聖餐を守っていましたので、聖餐についてのくどくどした説明など要らなかったのです。しかし、現代の私たちには少しばかり説明が必要だと思います。今朝、「なぜ聖餐を守るのか」ということを、もういちど確認してから、聖餐を守りたいと思います。

 一、救いのわざを伝えるため

 「なぜ聖餐を守るのか」、それは第一にイエス・キリストの救いのみわざを伝えるためです。今朝の箇所は聖餐のたびに朗読される箇所ですが、そこには「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(コリント第一11:26)とあります。「主の死を告げ知らせる」とはどういうことでしょうか。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださったこと、死を滅ぼし、復活されたこと、イエス・キリストを信じる者は十字架と復活によって、罪と死から救われるということを、宣言する、語り伝えるということです。罪にはかならず裁きが伴います。私たちが死を恐れるのは、死後、神の裁きが待っていることを知っているからです。しかし、イエス・キリストを信じる者は、無罪放免となり、死の恐れからも解放されるのです。聖餐は、このキリストの救い、罪からの解放を宣言するものなのです。

 私たちは、誰も、自由を好みます。自分は自由だと思っています。ところが、実際は自由ではないのです。アルコールやドラッグ、ギャンブルなどに振り回されている場合は、そうしたものの奴隷になっていることが誰の目にも見えますが、そうでなくても、人の目にはそれとは気付かないさまざまなものに縛られていることが多いのです。「富」や「地位」に縛られ、中身のない、見せかけだけの人生のためにあくせくしている人が多くいますし、「怒り」に縛られ、他の人を攻撃することしか知らない人もいます。「思い煩い」に縛られ、いつも落ち込んで立ち上がれない人も大勢ですし、「ねたみ」に縛られ、人を愛することのできない不幸な人も数少なくありません。心に「苦々しい思い」を何年も抱き続けている人、口を開けば「不満」しか口にできない人がなんと多いことでしょうか。主イエスは「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)と言われたように、こうしたことは、私たちが罪の奴隷であることを証明しています。奴隷は、自分の意志で自由に生きることができません。罪の奴隷は、正しく生きる、愛に生きる、より高いものをめざして生きることができないのです。キリストは、そんな罪の奴隷であった私たちを解放するために十字架で死なれ、復活されたのです。

 世界の多くの国は「独立記念日」を持っています。アメリカもイギリスの植民地でしたが、苦しい戦いを戦い抜いて、本国から自由と独立を獲得しました。毎年7月4日に私たちはアメリカの独立を祝います。メキシコの独立記念日は9月16日で、スペインからの自由と解放を祝います。古代のユダヤは、エジプトの奴隷から解放された日を建国の日として祝いました。ユダヤの人々がエジプトから解放されたのは、アメリカやメキシコのようにみずから武器を取って戦ったからではありませんでした。人間の力によってではなく、神の力によってでした。神は、エジプトにさまざまな災いを与えましたが、最後の災いは、死の使いがエジプト中を行き巡って、長子という長子を皆殺しにするというものでした。神は、何度も何度もユダヤの人々を解放するように命じたのに、エジプトの王ファラオは神に逆らい、それを聞かなかったので、このような恐ろしい災いが臨んだのです。その時、神はユダヤの人々に、子羊をほふり、その血を家の入り口に塗るよう命じました。子羊の血が塗られた家は死の使いが過ぎ越し、その家にいる者はみな守られるからです。それでこれは「過越」と呼ばれ、ユダヤの人々は毎年、この日にエジプトの奴隷からの解放を祝ったのです。イエス・キリストはこの「過越」の食事を「聖餐」にされました。イエス・キリストが、あの過越の子羊となって、私たちの身代わりに死んでくださったことにより、十字架の上で流された血により、私たちは、罪と死と滅びから救われるからです。ユダヤの人々が神の大きな力によってエジプトの奴隷から救われたように、私たちも、自分たちの知恵や知識、能力や行いによってではなく、ただイエス・キリストの身代わりの死と復活によって救われるのです。

 「聖餐」は、このイエス・キリストによる罪からの解放を宣言し、祝い、語り伝えるものです。日本はどこの国の植民地にもなりませんでしたから、「独立記念日」というものがありません。日本の祝日のほとんどは、歴史の出来事と関係なく定められたものです。しかし、日本にもヒロシマやナガサキの日といった決定的な出来事がありました。8月15日を境に日本は大きく変わりました。「終戦」という歴史の出来事が、人々の人生を大きく変えたのです。こうした歴史の事実は、世代から世代へと正確に伝えられ、覚えられなければなりません。そうでないと、国はその進路を誤ってしまいます。同じように、イエス・キリストが十字架で死なれ、三日目に復活されたという歴史の事実は、その意味とともに、どんなに時代が変わっても正確に伝えていかねばなりません。キリストがひとたび成し遂げてくださった救いのわざが、長い歴史の中で忘れ去られ、歴史の中に埋もれ、私たちのこころから消えてしまうなら、キリストの死は無駄になってしまうからです。「主の死が告げ知らされ」ないなら誰一人救われないからです。キリストは、この救いの事実が忘れられたり、埋もれたり、曲げられたりすることがないようにと、聖餐を定め、それを守るようにと命じておられるのです。

 礼拝では、聖書が朗読され、使徒信条が告白され、主の祈りが捧げられ、聖餐が守られます。毎回同じようなことが繰り返されます。礼拝に目新しいことを求める人がいるかもしれませんが、実は、こうした繰り返しが大切なのであって、教会は、それによって真理を保ち、私たちは霊的ないのちを保つことができるのです。私たちの毎日も、食事をし、仕事をし、睡眠をとる、その繰り返しによって成り立っており、それによって生かされています。毎日空気を吸っているから、たまには二酸化炭素を吸いたいなどと言う人はいないでしょう。人生は日々のことがらの繰り返しです。その繰り返しの中に、神から受けた人生の目的を達成していくのです。人間が作り出したものは、一時的には人の目をひき、心を奪うかもしません。しかし、そうしたものは繰り返すうちに飽きてきます。しかし、神が与えてくださるものは、決して古びることはなく、私たちに、日ごとに新鮮なものを与え、私たちを新しくしてくれます。聖餐も同じです。聖書に「このパンを食べ、この杯を飲むたびに」とあります。私たちは繰り返し聖餐を守るその「たびに」、キリストの救いに新たな感動を覚え、それを告げ知らせるのです。聖餐を繰り返し守ることによって、私たちは、キリストの救いを次の世代に、多くの人々に伝える教会となっていくのです。

 二、救いの恵みを示すため

 私たちが聖餐を守るのは、第二に、キリストの救いの恵みを見るため、また、示すためです。神は見えないお方です。人間の肉眼で見、五感でとらえることのできるお方ではありません。このことは、神が、人間をはるかに超えた絶対的なお方であることを教えています。しかし、神が目に見えないお方であるだけなら、人間は、いつまでたっても神を知ることはできません。そこで、神は、人となられ、私たちの間に住まわれました。見えない神が、見える形で現れてくださったのです。それが主イエス・キリストです。

 弟子たちは三年にわたってイエスと寝食を共にしました。彼らはイエスによって神を見たのです。ヨハネは第一の手紙で「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、−このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。」(ヨハネ第一1:1-2)と言っています。ここで「いのちのことば」とか「永遠のいのち」と呼ばれているのはイエス・キリストのことです。ヨハネは、人となられた神、イエス・キリストを「聞いた」「目で見た」「じっと見た」「手でさわった」と言っています。弟子たちは、イエス・キリストによって神の声を直接聞き、神を見、神に触れたのです。

 しかし、イエス・キリストと共に過ごし、イエス・キリストを肉眼で見ることができたのは、紀元一世紀にユダヤの国にいた人々だけでした。イエス・キリストが天に帰られたあとは、イエス・キリストを肉眼で見ることはできません。しかし、私たちは信仰によってイエス・キリストを見ています。ペテロの手紙第一1:8に「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とある通りです。聖餐は、イエス・キリストをまごころから信じている人に、この喜びを体験させてくれます。私たちは、聖餐の中にイエス・キリストを見ることができるのです。

 神は愛です。そして、愛には形があります。愛は、決して抽象的なものではありません。聖書は「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一3:18)と教えています。私たちにそう命じられた神が、ことばだけで、口先だけで、私たちを愛されるはずがありません。聖書はこう言っています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:9-10) 神は、たんに罪ある人々に同情を寄せられただけでも、その心に罪に苦しむ者たちを覚えてくださっただけでもなく、実際に、ご自分の御子を、人々の身代わりとして差し出されたのです。イエス・キリストも父なる神のみこころに従って、ご自分のからだをささげ、その血を流されたのです。

 聖餐は、この神の愛を形に表わしたものです。聖餐には、神の愛が目に見える形で表わされています。数年前、Passion of the Christ という映画が作られました。この映画はイエスがゲツセマネの園で捕まえられ、大祭司や総督の裁判に引っ張り回され、鞭打たれ、ののしられ、十字架を背負ってカルバリーの丘に向かい、朝の9時から午後の3時まで、十字架の上で苦しみ抜かれた姿を映像にしたものです。この映画を観た人はみなキリストのお苦しみに胸が引き裂かれる思いになりました。聖書を読んでキリストの苦しみの大きさを感じとれなかった人も、この映画から、それが良く分かったことでしょう。映像には力があります。しかし、この映画も、聖餐にはかないません。聖餐は、どんな映画、映像にまさって、カルバリーの出来事を再現します。映画は視覚と聴覚に訴えますが、触覚、嗅覚、味覚には訴えることはできません。臭いの出る映画やテレビはまだできていませんね。しかし、聖餐は、目で見て、耳で聞いて、手で触って、鼻で臭いをかいで、そして、舌で味わうことができるものです。私はパンを手で裂き、それを歯で噛むとき、キリストはこのように、私の罪のために砕かれたのだということを覚えます。私たちは、神の愛を見聞きするだけでなく、聖餐で、その愛に触れ、味わうことができるのです。私たちが聖餐を守るのは、そこにキリストの救いの恵みを見、それを人々に示すためなのです。

 三、救いの保証を受けるため

 第三に、私たちが聖餐を守るのは、救いの保証を受け取るためです。ある人々は聖餐さえあれば説教はいらないと考え、ある人々は説教さえあれば聖餐はいらないと考えます。「説教さえあれば聖餐はいらない。」と言われるようになったのは、ごく近年になってからのことです。最近では、「ミュージックさえあれば説教もいらない。」というようになってきました。聖書 Holy Bible、聖霊 Holy Spirit、聖餐 Holy Communion などの聖なるものが、世の中のものと何ら変わらないものに置き換えられるようになり、聖餐のパンをキリストのからだと信じ、聖餐のブドウ酒をキリストの血と信じることが「迷信」であるかのように考えられるようになりました。それは、教会が世俗化し、聖霊の働きや奇跡、霊的な世界など、神秘的なものを排除してきたからではないかと思います。しかし、神の存在や神のみわざ、天国に属するものは本来、すべて神秘です。大宇宙の存在、自然の形態、そして、なによりも生命の誕生とその営み、死もまた神秘に満ちています。多くの科学者たちは、探求を進めれば進めるほど、人間の知性では計り知れない神秘の世界が広がっていくと告白しています。神は、神秘の中におられ、神秘なことをしてくださいます。この世のレベルのものは人間の救いには何の役にも立たないからです。聖書は神秘の書、信仰の奥義の書物です。神は、教会に人の知恵では知り得ない神の奥義を啓示してくださり、キリスト者にそれを知り、それを求め、それによって生かされるようにと願っておられます。聖餐は、信仰の奥義に属することであり、理性だけで合理的に判断すべきことではないのです。

 一方、聖餐があれば説教はいらない、それを食べさえすれば、機械的に永遠の命が与えられるというのも間違いです。聖餐は魔法の食べ物や飲み物ではありません。聖餐にあずかる者には、かならず信仰が求められます。パンとブドウ酒を手にとるとき、自分の感覚に信頼するのでなく、イエスが「これはわたしのからだである。これはわたしの血である。」と言われた、そのおことばをそのままに信じる信仰が求められるのです。そういう意味で聖餐は、私たちの信仰をチェックする、たいへん厳しいテストです。しかし同時に、聖餐は、私たちの信仰を励ます、あわれみ深い恵みの手段です。私たちは生きる限り罪を犯します。神を恐れる真面目なクリスチャンほど、罪の責めを感じます。それで、悔い改めて赦しを願うのですが、赦されたという確信をなかなかつかめないときがあります。しかし、聖餐に来るなら、そこで、キリストの十字架による赦しを、味わうことができます。また、私たちは、神のことばを聞いて理解していても、なかなか神の愛を確信することができない時があります。そんなとき、神の愛と恵みが形をとって現れている聖餐によって、神の愛と恵みに触れることができるのです。また、はたしてキリストは私と共におられるのだろうかと疑ったり、神に見捨てられたのではないだろうかと感じてしまうときもあるでしょう。そんなとき、聖餐に来るなら、ここで、私たちはキリストの臨在を味わうことができるのです。イエス・キリストは、世を去る前に、弟子たちに聖餐を与え、パンを示して「これはわたしのからだである。」と言い、ブドウ酒を示して「これはわたしの血である。」と言われました。イエスは世を去り、弟子たちはもはやイエスを見ることができなくなります。しかし、イエスは、聖餐を与えることによって、世の終わりまでも、弟子たちと共にいることを保証してくださったのです。パンとブドウ酒が私たちの体内にはいり、それが私たちの体の一部になるように、キリストは、私たちと共におられる、私たちのうちにおられるということを、確信することができるのです。

 聖餐を受けるときには「自分を吟味すること」が聖書に教えられています。しかし、このことは、自分を吟味しても何も悪いところを見つけられない、立派な人が聖餐にあずかる「資格」があるという意味ではありません。自分を吟味して、何の罪も、不信仰も、弱さも、不足も見つけられない人などだれもいません。もしいたとしたら、そういう人には聖餐は要らないかもしれません。聖餐は、自分を吟味すればするほど、ボロが出てくる欠けだらけの人間のために、悔い改めを必要とする罪人のために用意されたものです。悔い改め、へりくだって主の食卓に近づく者に、主は、赦しを与え、いやしを与え、力を与え、いのちを与えてくださいます。主が十字架と復活によって勝ち取ってくださった救いの恵みが聖餐にあると信じますか。信じる者には、キリストは聖餐によってそれを保証してくださるのです。

 「なぜ聖餐を守るのか。」それは、聖餐がキリストの救いを告げ知らせ、救いを示し、救いを確かなものにするからです。私たちには、こうしたものがみな必要です。「なぜ聖餐を守るのか。」という問いにひとことで答えるとしたら、「私にはそれが必要だから。」という答えになるでしょう。聖餐はあなたにとって最も必要なものとなっているでしょうか。「私にはそれが必要です。」という謙虚な態度で聖餐を守りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、「なぜ聖餐が必要なのか。」という問いは、私たちからあなたへの問いであるとともに、あなたから私たちへの問いかけでもあります。私たちは、今朝、この問いに答えようと努力しました。まだまだその努力の足らない者ですが、これからも、あなたの問いかけに誠実に答えていく私たちとしてください。これからあずかる聖餐の中に、その答えを見いだすものとしてください。私たちの霊的な必要のすべてを知り、そのために聖餐を定めてくださった主イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/5/2008