主から受けたこと

コリント第一11:23-26

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11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 きょうは世界聖餐日です。世界聖餐日は、世界中の教会がともに聖餐を守り、教会が主にあってひとつであることを覚えるために定められました。教会は世界中に広がり、それぞれに違ったことばを使い、違った礼拝の形式を持っています。それぞれに歴史も、伝統も、組織のあり方も、神学的な強調点も違います。しかし、イエス・キリストを告白する教会は、すべてキリストにあってひとつです。聖書は「キリストは教会のかしらであり、教会はキリストのからだである。」と教えています。教会のかしらであるキリストがおひとりであるように、キリストのからだである教会も、ひとつなのです。たとえ、表面では、東方教会と西方教会、カソリックとプロテスタント、国教会と自由教会などに分かれていたとしても、真実な神の教会はひとつ、キリストのからだである教会はひとつです。私たちが聖餐式でいただくパンはキリストのからだを表わしますが、それは、キリストのからだである教会をも表わしています。コリント第一10:16-17に「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」とあります。エペソ4:4-6にも「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」とあります。今朝の礼拝と聖餐式が、ここにいる私たちがキリストにあってひとつであり、私たちの教会が、歴史を貫き、全世界に広がっているキリストのからだなる教会とひとつであることを、心に留める時となるよう願います。

 さて、今朝は、八月にバプテスマを受けた方々が最初に聖餐にあずかる時ですので、聖餐の意味をもういちど確認しておきましょう。使徒パウロが書いたコリント人への手紙第一11:22-26は聖餐式のおりに、必ずといって読まれる箇所ですが、ここには、聖餐の起源、聖餐の意味、そして、聖餐の目的が書かれています。

 一、聖餐の起源

 聖餐の起源について、使徒パウロは「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。」(23節)と言って、聖餐が直接キリストに起源を持つものであると教えています。しかし、使徒パウロの「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。」ということばですが、考えてみれば、パウロは、キリストの十二弟子とは違って、ずいぶん後で、キリストの弟子となり、また使徒となったわけですから、キリストが十字架にかかられる前、弟子たちに「このように行いなさい。」と命じた時、彼はそこにいませんでした。ですから、「私は主から受けた」と言っても、それは、直接主イエスからではなく、他の十二弟子から、最後の晩餐の様子を聞いたということになります。パウロがキリストに従いはじめた時、そこにはすでに教会があり、教会では聖餐が守られていました。けれども、パウロは聖餐を「十二弟子たちがそう教えているから」とか、「教会がこれを守ってきたから」というのではなく、「主ご自身が定め、私たちに伝えておられること」として受けとめています。聖餐の起源は、十二弟子や教会にあるのではなく、キリストご自身にあると主張しているのです。

 聖餐が、キリストによって定められたということを忘れると、聖餐を、信仰があっても無くても、自動的に神の祝福を受け取ることのできる魔法の食事と考えたり、自分たちの都合のよいように、聖餐の意味を変えたり、聖餐を守らなくなってしまったりするようになります。聖餐は、私たちの都合によって、しても良いし、しなくても良い、また、好き勝手にその意味を解釈しても良いというものではありません。私たちが聖餐を守るのは、それが「主から受けたこと」だからです。「主から受けたこと」―これが、教会のよりどころです。聖餐の起源は、人間の考えや、教会の歴史、伝統にではなく、キリストご自身にあります。私たちがこうして聖餐を守っているのは、主がそれを定め、命じておられるからです。

 二、聖餐の意味

 では、聖餐の意味は何でしょうか。それは、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」(24節)、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。」(25節)とのことばに明らかです。パンは、キリストのからだ、しかも、十字架の上で裂かれたからだを表わします。イエスはパンを取ってそれを弟子たちの目の前で裂きましたが、そのとおりに、十字架の上で、イエスの手足には釘が打ち込まれ、そのわき腹は、槍で突き通されました。イエスのからだは十字架の上で、文字通り裂かれたのです。新聖歌109は「御手と御足のみか心も裂けて、君は死にたまいぬ、われらのため」と歌っていますが、もちろん、イエスは十字架の上で、その心も裂かれたのです。

 私たちがこの聖餐式で、受け取るパンは、マッツォーというユダヤのクラッカーですが、もともとは四角い形をしていました。しかし、聖餐式では、それを砕いて使います。パンはもとの形を失っています。それはイエスが十字架の上で、神の子としての栄光も、尊厳も、完全さもすべて捨て、ののしられ、傷つけられ、砕かれたことを表わしています。そしてそれはすべて、私たちの罪のためだったのです。驚くべきことですが、イエスの十字架の八百年前に、預言者イザヤはこの真理を明らかにしています。イザヤ書から読んでみましょう。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:4-5)イエスが苦しめられたことによって私たちは平安を得、イエスが砕かれたことによって私たちは回復し、イエスが傷つけられたことによって私たちはいやされ、イエスが死なれたことによって私たちは生かされたのです。砕かれたパンのかけらを口にする時、私たちはこの真理を心に刻むのです。

 聖餐のぶどう酒は、イエスの血による「新しい契約」を意味します。「新しい契約」というからには「古い契約」があったわけですが、古い契約とは、神とイスラエルとの間に立てられた契約をさします。神は、イスラエルを神の民として選び、イスラエルに様々な宗教の規則、つまり律法を与えました。ところが、イスラエルは神の律法にそむき、それを守らなかったために、古い契約は無効になってしまいました。それで、キリストは、律法を守ることによってではなく、救い主を信じることによって、神の民、神の子どもとなることのできる道を開いてくださったのです。それが、「新しい契約」です。律法によってではなく信仰によって、行いによってではなく恵みによって、また、アブラハムの子孫だけでなく信じるすべての人に、キリストは救いを約束してくださったのです。

 この新しい契約が「血による契約」と言われているのは、この契約が、イエスが血を流されたこと、つまり、その命をささげてくださったことによって成り立っているからです。古い契約では、、動物が人間の罪のためのいけにえとしてささげられ、その血によって神との契約が確認されたのですが、それは、実は、キリストの血を指し示していたのです。私たちは、聖餐の杯を受けるたびに、私たちの救いがキリストの血によって、つまり、キリストの差し出された命によって確かなものになっていることを確認するのです。

 三、聖餐の目的

 最後に、聖餐の目的ですが、それは二つあります。ひとつは、キリストを「覚える」ことで、もうひとつはキリストを「告げ知らせる」ことです。

 「覚える」ということばは、パンについても、杯についても使われています。イエスが弟子たちにパンを与えて、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(24節)と言われ、杯を与えて「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」(25節)しかし、「覚える」というのは、どういうことを意味するのでしょうか。それは、まずは「思い出す」ということでしょう。聖書は、「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(テモテ第二2:8)と教えていますが、私たちはあまりにも忙し過ぎたり、自分のことや、自分の抱えている課題や問題に心を奪われて、キリストを忘れないまでも、心の片隅や生活の周辺に追いやってしまうことがあります。聖餐式は、そのような、恩知らずな私たちに、もういちどキリストが私の救い主であり、人生の主であることを思い起こさせてくれるのです。

 そして、聖餐では、再び忘れることのないように、キリストを心に刻みつけるのです。聖餐でキリストを「覚える」というのは、キリストを心に、いいえ、心にだけでなく、からだにも刻みつけるのです。私たちは神のことばによってキリストを知り、信仰によってキリストをとらえ、聖霊によってキリストを感じることができますが、この目でキリストの姿を見、この手で触れることはできません。しかし、聖餐では、キリストのからだを表わすパンと、キリストの血を表わす杯とを、この目で見、それを手にとり、このからだで味わうことができます。そのように、私たちは、キリストとキリストの救いと恵みと力を、まるで目で見、手で触れるほど確かなものとして体験するのです。聖餐では、目に見えないお方が、目に見える形で表わされています。聖餐によって、心とからだの両方でキリストを覚えましょう。そして、キリストの恵みと力が私たちの日々の生活でリアルなものであることを確認しましょう。

 キリストを「覚える」ということは、また、キリストを「待ち望む」ということでもあります。26節に「主が来られる時まで」ということばがありますが、私たちの聖餐は、天国での祝宴の雛型なのです。神の救いの計画が完成する時、キリストは私たちを迎えるため再びこの世界に来られ、私たちを神のもとにひきあげてくださいます。その時「子羊の婚宴」が行なわれるのですが、聖餐式は、この祝宴の「前祝い」であり、「予行演習」なのです。私たちが、聖餐を重ねるごとに、キリストが来てくださる日が、日一日と近づくのです。ユダヤの人々は、諸外国に散らされた時、どこの国で過越の祭を祝っても、かならず「来年はエルサレムで」と言って、エルサレムに戻る日を待ち望みました。そのように私たちも、「次は、神の国で。主イエスのみもとで。」という気持で、キリストが来てくださるのを待ち望み、聖餐を守るのです。

 私たちはこのように聖餐でキリストを覚えるのですが、聖餐はキリストを覚えるだけでなく、キリストを「告げ知らせる」ためにもあります。26節に「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」とありますが、この「告げ知らせる」ということばには「説教する」という意味があります。礼拝では会衆が賛美をささげ、牧師が神のことばを語ります。しかし、聖餐では、会衆が説教するのです。説教題は「キリストの死」です。そこで説教のことばは聞こえません。しかし、ひとりびとりが信仰をもってパンを食べ、感謝して杯から飲むことは、この席にいる、まだクリスチャンでない方々への無言の「メッセージ」となり、イエス・キリストは「私の罪のために死んでくださった」ということを、解き明かすことになるのです。そればかりではありません。この聖餐によって、キリストの恵みを心に刻みつけた私たちは、ここから日々の生活の場に出て行って、そこでも、キリストの十字架の福音を告げ知らせるのです。聖餐によってキリストのからだと命を受けた私たちは、今度は自分のからだをもって、自分の生活と人生の中で、キリストを告げ知らせていくのです。

 聖餐は単なる儀式ではありません。それは、キリストご自身によって定められたものであり、キリストとその救いを表わし、私たちがキリストを覚え、キリストを告げ知らせるためのものです。今朝の聖餐式がそのようなものとなり、信仰によってここにいるすべての人の恵みとなるよう祈りながら、ご一緒に聖餐を守りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは片時も私たちをお忘れにならないのに、私たちは、あなたを忘れることがなんと多いことでしょうか。今朝あなたは、そのような私たちにも、主イエス・キリストを思い起こし、心とからだに刻み付け、主イエスの再臨を待ち望み、主が私たちの罪のために死んでくださったことを告げ知らせるようにと教えてくださいました。これからあずかる聖餐を私たちがキリストを覚えるものとし、私たちがキリストを告げ知らせる力を得るものとしてください。私たちのためにそのからだを裂き、血を流された主イエスのお名前で祈ります。

10/5/2003