誰が聖餐にふさわしいか

コリント第一11:23-32

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
11:30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
11:31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
11:32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

 コリント人への手紙第一11章は聖餐式のたびごとに読まれる箇所です。23節から26節までには、聖餐の起源とその意味が、書かれており、27節からは、どのような態度で聖餐にあずかるべきかが教えられています。いつもは、26節までを中心にお話しをしてきましたが、今朝は、27節以降を学ぶことにします。

 「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」(26節)という言葉を読むとき、私たちはドキッとさせられますね。「私は聖餐にあずかるのにふさわしいのだろうか」と心配になってきます。「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(29-30節)などと言われると、心配を通り越して恐ろしさを感じることさえあります。今朝の礼拝に来る時、あまり急いだためスピードを出しすぎた人がいるかもしれません。教会に出かける前に夫婦喧嘩をしてしまって、今日は奥さんと別々の席に座っているという人もいるでしょう。もっとも、私たちの教会は、子供礼拝やさまざまな奉仕があって、ご夫婦がそろって座っているという麗しい姿はめったに見かけることができませんが…。「聖餐にふさわしい人」とは、そんな失敗やトラブルのあまりない、穏やかで、そつのない人のことなのでしょうか。聖書が言っているのはそのようなことではありませんね。では、「聖餐にふさわしい人」とは、どんな人なのでしょうか。

 一、聖餐とバプテスマ

 まず、第一にあげたいのは、「信じてバプテスマを受けた人」ということです。聖餐式のたびごとに、「イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた人は、どの教会のメンバーであっても聖餐にあずかってください」と申し上げているとおりです。聖餐はクリスチャンのためのものですから、イエス・キリストを、救い主として信じる信仰が求められることは当然のことですが、聖書は、それとともにバプテスマも求めています。聖書で「信者」、「弟子たち」、「クリスチャン」と呼ばれているのは、みな信じてバプテスマを受けた人たちのことだからです。バプテスマは旧約時代の割礼、聖餐は過越の祭と比較することができますが、過越の食事は無割礼の者には与えられませんでした。出エジプト11:48に次のように書かれています。「寄留の外国人があなたのもとにとどまっていて、主に過越の祭を守ろうとするときは、その男子はみな割礼を受けてのち、近づいてこれを守ることができる。そうすれば彼は国に生れた者のようになるであろう。しかし、無割礼の者はだれもこれを食べてはならない。」このように、聖餐もバプテスマを受けた者が、それにあずかるのです。教会の歴史のごく初期の様子を伝えてくれる歴史資料のひとつに『十二使徒の教訓』(ディダケー)という著作があります。そこには「主の名をもって洗礼をさずけられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない」と記されています。これは、初代教会以来、カトリックでもプロテスタントでもあたりまえのことでした。

 ところが、ごく最近になって「聖餐をバプテスマを受けている人に限のは良くない。自分でキリストを信じていると思う人には与えるべきだ」という考え方が、アメリカでも日本でも広まっています。それは礼拝に来ている人を差別することになるというのです。しかし、差別を無くためと言っても、「キリストを信じている人は、聖餐にあずかってください」と言うとしたら、まだキリストを信じていない人を差別することにならないでしょうか。差別と区別とは違います。区別がなければ、人のものを勝手に取ったり、使ったりしても良いということになります。訴えられたら、差別されたと言えば良いのです。神は、神を信じる者に神の子としての区別を与えてくださいました。この区別があるから、信仰の素晴らしさが、まだキリストを信じていない人々にも見えるようになるのです。区別は差別でく、むしろ、神の恵みです。当然無くてはならない区別をとりはらってしまうなら、聖餐はもはや聖餐でなくなってしまいます。

 聖餐は、目に見えないキリストの恵みを目に見える形であらわしたものです。私たちは、このことによって、同じ目に見えない信仰や服従を、パンを食べ、杯から飲むという行為で目に見える形で表わすのです。聖餐にあずかりたいと願う人は、聖餐にあずかる前に、イエス・キリストを心に信じたことを、バプテスマの水をくぐるという行為で表わすことを決してためらわないはずです。信仰は、ひとりびとりの心の中に神が与えてくださるものです。それはだれも、強制することができませんし、だれも奪い取ることはできません。しかし、その信仰を言い表わし、養っていくのは、神の家族である教会の中ではじめて可能なのです。私たちはキリストを信じた時に、神の子として生まれ変わります。赤ちゃんがひとりほうっておかれたらどうなるか、子どもが家族から離れてひとりで暮らしていたらどうなるか、容易に想像がつきますね。兄弟姉妹のまじわりの中で神の子として育てられていく恵みにあずかりましょう。キリストを信じておられる方々は、まずバプテスマを受け神の家族の中に加わっていただきたいのです。そして、神の家族の食卓である聖餐にあずかってください。まだ、信仰の確信が持てないと思われる方も、バプテスマをめざして準備をはじめてみませんか。神は、その中で信仰の確信を堅くしてくださいます。

 「キリストを信じているといっても、ノンクリスチャンより、いいかげんな人がいるではないか。バプテスマを受けているといっても、求道者よりも不真面目な人もいるではないか」という声も良く聞きます。クリスチャンがいいかげんであっていいわけはありませんし、不真面目であっていいわけもありません。しかし、信じてバプテスマを受けた人は、自分の罪を認め、そこから回れ右をして、神に近づいている人たちです。いままでの生活があまりにも神から遠ざかっていたために、その道のりが長い人もあります。しかし、バプテスマによってキリストへの信仰を言い表した人は、基本的には、神の方向に向かって歩き出しているのです。表面ではノンクリスチャンと同じように見えても、神の目からみるなら、その内面に大きな変化が起こっているのです。マルチン・ルターは宗教改革の激しい波にもまれ、しばしば、悪魔の誘惑に遭いましたが、そのような時、「私は、洗礼を受けている」と机の上に書いて、誘惑を退けたと伝えられています。バプテスマには意味があります。力があります。私たちは、聖餐式のたびに、自分の受けたバプテスマに、その時の信仰の告白と誓いに立ち返り、聖餐にあずかるのです。

 二、聖餐と教会

 「聖餐にふさわしい人」は第二に、「教会のまじわりを大切にする人」です。どういうことかというと、それは、コリント教会の特殊な状況と関係があります。コリント教会には、聖餐式を正しく守るのをさまたげるようなことがあったのです。

 まず、第一にコリント教会には「分派」がありました。この章の17節から次のように書かれています。「ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。」(11:17-20)主の晩餐でいただくパンは、キリストのからだを表わしますが、キリストのからだといえば、それは教会のことでもあるのです。キリストがおひとりであるようにキリストのからだもひとつ、教会もひとつであるべきです。「私はパウロに」「私はアポロに」「私はペテロに」と党派をつくって互いに争っていて、どうして主の晩餐を守ることができるでしょうか。20節は口語訳で「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる」とありますが、ここで「一緒に集まる」というのは、物理的に同じ時間に同じ場所にいるというだけのことではなく、同じ心、同じ思いで集まることを意味しています。主の晩餐は、教会に集う兄弟姉妹がそのような一致の心で守るものでなければなりません。とりわけ今朝の、世界聖餐日の聖餐式では、教団、教派を超えて、全世界のまことの神の民が、ひとつのキリストのからだに属することを確認するのです。

 コリント教会には、もうひとつの問題がありました。それは、裕福な人々が貧しい人々を軽んじるということでした。同じ教会の兄弟姉妹でありながら、愛の配慮に欠けたところがあったのです。コリントの教会では聖餐式の前に食事をしていました。初代の教会は、よく食事を共にしましたが、それはソーシャルのためだけではありませんでした。当時は貧しい人々が多くいました。信仰のゆえに、迫害を受け、貧しくなった人々もいました。そのような人々と食べ物を分けあい、彼らを励ますためのものでした。それは、たんに空腹を満たすとか、教会の活動に備えるというためのものではなく、もっと信仰的、福祉的なものでした。ところが、コリントでは、裕福な人が自分のご馳走を持ってきて、我先にと食べるばかりで、貧しい人がそれを指をくわえて見ているだけということがあったのです。これこそ貧しい人々への差別です。当時、教会の食事は「アガペー」(愛餐)と呼ばれていました。(わたしたちもそう呼んでいます。)しかし、コリント教会のそれは愛の精神を全く失ったものでした。パウロは「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」(21節)と言っていますが、ここは口語訳で「食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べる」となっています。この「自分の晩餐」とは、「主の晩餐」と対照させた言葉です。私たちは、他の兄弟姉妹の誰かに苦々しい思いを持って聖餐に臨んでいないでしょうか。他の兄弟姉妹のことに全く無関心で、自分の祝福だけを求めて、ここにきていないでしょうか。もしそうなら、今、そのことを悔い改め祈りましょう。「聖餐にふさわしい人」とは、教会の兄弟姉妹のまじわりを求める人々のことです。これは「自分の晩餐」ではなく「主の晩餐」です。この聖餐式によって兄弟姉妹の一致をさらに築き上げていきましょう。

 三、聖餐と悔い改め

 「聖餐にふさわしい人」それは、第三に、「日々悔い改める人」です。28節に「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」とあります。この「吟味する」という言葉は、「念入りに検査する」という意味がって、コリント第二13:5に「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」と、ガラテヤ6:3では「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい」と使われています。私たちは、神との関係は、兄弟姉妹との関係は大丈夫だろうかと、日ごとに自分をチェックしましょう。最初は一ミリか二ミリの違いでも、そのまま進んでいけば、あとで何センチも違ってくるように、心の狂い、生活の狂いは、早いうちに正しておかなくてはならないのです。その日のうちに正しておくのが、一番です。聖書は「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4:26)と、罪はその日のうちに悔い改めて処理するように教えています。しかし、それを翌日も、またその次もと持ち続けてしまうことがあるかもしれません。そのような時は、どうしたらいいでしょうか。日曜日の礼拝を区切りにして、それらを主に明渡してしまうのです。毎週めぐってくる日曜日は、罪の重荷をキリストのもとにおろして、身もたましいも安息を得る日です。しかし、それでも、何週間も抱え込んでしまったものはどうしたらいいでしょうか。それらは聖餐式までに主に委ねましょう。「自分を吟味しなさい」というばも、31節の「自分をさばく」という言葉も同じ意味で、信仰と生活をチェックすることをさしています。ある年齢になると、病院で一年ごと、あるいは、二年ごとのチェックアップが必要になります。自動車でも、三万マイルごとの点検が必要です。そのように私たちの信仰の生活にも、定期検査が必要です。大陸横断ラリーなどの過酷なカーレースには、車の整備をするチェックポイントというのがあります。聖餐式は、そのようなチェックポイントです。聖餐式で、私たちは、信仰をチェックし、チューンアップし、天国への旅を続けていくのです。

 主の晩餐は、私たちが感謝にあふれている時にだけ巡ってくるわけではありません。ちょうど試練の真っ只中にいる時に、あるいは、大きな失敗を犯して、自分の罪深さをいやというほど思い知らされている時に、主の晩餐が巡ってくることもあるのでしょう。そんな時、こんな私がパンを取っていいのだろうか、杯を飲んでいいのだろうかと思うことがあります。いっそのこと、主の晩餐のある礼拝を休んでしまいたいとさえ思ってしまうかもしれません。しかし、そんな時、主の晩餐は、私たちの発明品ではなく、主の定めであることを思い起こしてください。それは、私たちの側の気分で、それにあずかりたいからあずかる、気が進まないから控えるというようなものではありません。主ご自身が「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」と命じてくださっている、その命令に、従うのです。信仰とは、主と主の言葉への従順です。自分の落ち込んだ気持ち、悲しみ、恨みや混乱などを乗り越えて、「取って食べよ」との主のお言葉に従う時、そこからふたたび信仰が芽生えてくるのです。

 主がその晩餐に招いておられるのは、自分こそ主の晩餐にふさわしいと心ひそかに考えている「完璧なクリスチャン」ではありません。むしろ、「自分は主の晩餐にふさわしくない者ではないだろうか」と真剣に悩む人です。「自分はふさわしいだろうか」と考えるところに、自己吟味があり、悔い改めがあるからです。『ハイデルベルグ信仰問答』は、今から440年も前、1562年に作られた教理問答(カテキズム)ですが、今も、多くの人に親しまれて、もちいられています。その問答の81に、こうあります。「問い、どういう人が、主の晩餐にあずかることができるのでしょうか。」「答え、みずから、自己の罪の故に自己を嫌いながらも、なおも、この罪のゆるされ、他の弱さも、キリストの苦難と死とをもって、覆われることを信じ、また、ますます、信仰を強められ、その生活を、改めたい、と切望している者たちであります。」これは、今朝の聖書が教えているところを、見事に、美しく言い表わしています。本来ふさわしくないものを、ふさわしいものとしてくださったキリストの恵みを信じて、聖餐にあずかりましょう。

 (祈り)

 父なる神様、私たちは今、キリストの恵みが目に見える形をもって表わされた聖餐にあずかろうとしています。私たちは、本来聖餐にふさわしいものではありません。ただ、あなたの恵みの招きにこたえてここに来ました。あなたの恵みが私たちをふさわしいものへと変えてくださいます。聖餐にあずかるごとに、あなたの恵みを、さらに深く体験し、それを高らかにほめたたえるものとしてください。この聖餐に共にいてくださる主イエスのお名前で祈ります。

10/6/2002