聖餐と愛餐

コリント第一11:17-22

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11:17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
11:19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
11:21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
11:22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。

 今年の七月、私たちの教会で教団総会が行なわれました。百数十人の、牧師、代議員、ゲストをお迎えするというのに、ソーシャルホールの工事は終わっておらず、おまけに、教団総会の前日、工事中に水道管が破れてソーシャルホールが水浸しになるというハプニングまであって、どうなることかと思いましたが、多くの方々がこのために祈り、こころを合わせて働くことができましたので、皆さんに喜んでいただける総会になりました。次の教団総会が、サンタクララで行なわれるのは十年後の予定ですが、教団が成長して、教団総会をホストできる教会が増えれば、サンタクララで教団総会が行なわれるのは、十二年あるいは十五年先になるかもしれません。ぜひそうあって欲しいと思いますが、ここ三十年ないし四十年はずっと十教会が持ち回りで教団総会をしてきたと聞いています。

 ですから、私が、サンタクララ教会での教団総会にはじめて来たのは、今から十年前の1994年になるわけです。その時は、サンタクララ教会について、特別な印象はありませんでしたが、一つだけ、うらやましく思ったことがありました。何だと思いますか。それは「キッチンが広い」ということでした。当時、奉仕していたサンディエゴ教会では、毎週水曜日に、日系コミュニティの高齢者の方々のための昼食会をしていました。百名近い人々の食事を十数人のボランティアで用意するのですが、教会のキッチンが狭く、また、暑かったので、もっと広いキッチンが欲しいといつも思っていました。それでサンタクララ教会の広いキッチンを見て、うらやましく思ったのです。サンタクララ教会が建物を増築した時に、キッチンのスペースを広く取ったのは、正解だったと思います。それは、教会の愛餐会のために、よく活用されてきましたし、ここ数年は、男性たちもキッチンに入って腕を振るうようになり、教会のキッチンは女性にとっても男性にとってもなくてならないものになりました。

 今朝は、世界聖餐日で、聖餐についてお話しする時ですのに、キッチンのことからお話をはじめてしまいましたが、それは、聖餐と愛餐とが深い結びつきを持っているからです。聖餐は教会にとってとても大切なものでありながら、聖餐についてのメッセージはあまり語られることがありません。どの教会でも愛餐会が行われているのに、愛餐についてのメッセージはほとんど聞かれることはありません。それで、この機会に聖餐と愛餐についてお話しすることにしました。「聖餐と愛餐」という主題のメッセージは、皆さんもおそらくはじめて聞くかもしれませんが、聖餐と愛餐の結びつきを理解していただけたら、幸いです。では、最初に「愛餐」からはじめましょう。

 一、愛餐について

 ローマ14:17に「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」とあるように、聖書は、教会は霊的なものを求める場であり、単なる社交の場や飲み食いの場ではないと教えています。しかし同時に、主イエスが弟子たちと共に食事を楽しまれたこと、初代教会で愛餐会が行なわれたことについても語っています。神の国の喜びが結婚の祝宴にたとえられていますし、主イエスご自身も「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:20)と言われ、私たちとキリストとの親しいまじわりが「食事」という言葉で表わされています。復活されたイエスは、ガリラヤに現われ、弟子たちのために食事を用意し、彼らと一緒に食事をなさいましたが、あの「食事」は、イエスが、ご自分を見捨てて逃げて行った弟子たちを赦し、彼らを再び弟子として受け入れたということを表わすものでした。今もそうかもしれませんが、古代には、共に食事をするというのは、お互いの和解を表わすものだったのです。

 今朝の聖書の箇所は、コリントにある教会に宛てて書かれた使徒パウロの手紙の一部ですが、コリントの教会では、礼拝後、それぞれ持ち寄った食べ物で食事会をしていました。この食事は「愛餐」、もとの言葉で「アガペー」と呼ばれました。「アガペー」というのは、ご存知のように「愛」という意味ですね。「愛」を表わす言葉は、他にもいくつもありますが、「アガペー」は、報いを求めないで与える愛、より高い愛、献身的な愛を意味しています。教会での食事会が「アガペー」、「愛餐」と呼ばれたのは、その日の食べ物にも事欠くような貧しい人々のために、食べ物を与えるために行なわれたからでした。食べ物が十分にある人が、食べ物を持って来ることができない人々のために、それを持ってきて、分け与えたのです。当時は貧富の差が大きかったのですが、教会では、貧富の差を越えて、みんなが食べ物を分け合い、ひとつになって、まじわりを楽しんだのです。教会の愛餐会は、貧しい人を思いやる愛の実践だったのです。コリントの教会では、日曜日の午後、食べ物を分け合い、兄弟愛を実践してから、主の晩餐、つまり聖餐式をし、イエス・キリストを礼拝しました。それは、とても麗しい習慣でした。

 ところが、コリントの教会の愛餐会は、いつの間にか、当初の目的が忘れられて、ただ飲み食いするだけの宴会騒ぎになってしまっていたのです。21節に「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」とあるように、貧しい人たちのことはまったく忘れられ、豊かな人たちだけで飲んで、食べ、酔っ払っう人まで出てくるという状態でした。貧しい人たちは、その後の主の晩餐、聖餐式まで、ただ指をくわえて待っているだけでした。使徒パウロは、そのような状況を嘆いて「飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。」(22節)と、厳しく戒めています。パウロは、貧しい人々のためだけではなく、主の晩餐、聖餐式のためにも、このような状況を嘆きました。20節で、「そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。」と言っています。教会は、お互いが良きものを持ち寄って分かち与える場です。他の人の益を求める場です。ところが、コリントの教会では、それぞれが、自分の腹を満たすことだけを考え、自分のことだけを求めていました。そのような愛餐会は「アガペー」の名にふさわしいものではなく、また、そのような自分中心の心のままで主の晩餐をいただいたとしても、それは、私たちのために自分を捨て、その命までも差し出してくださった主を礼拝し、主を覚えることにはならないと、パウロは嘆いているのです。

 私たちの教会では、礼拝後さまざまな集会や活動がありますが、愛餐会は、それに出る人たちのために食事を供給するためだけにあるのではありません。たとえ、午後から何の予定がなかったとしても、愛餐会をキャンセルしたりしません。空腹を満たすためではなく、共に集まって食事をすること自体に意義があるのです。以前は、どこの家庭でも、家族がみんな揃って食卓についたものですが、最近は、父親が職場から帰って来るのが遅かったり、こどもが習い事のために出かけたりして、家族が揃って食事をする家庭のほうがめずらしくなってきました。食事は、たんに空腹を満たすためだけのものではありません。家族が揃って食卓に向かい、一緒に首をたれて感謝の祈りを捧げ、食事の間にさまざまな話題を話しあう、それが、家族の絆を保ってきたのですが、家族がばらばらに食事をするようになってから、子どもたちの情緒が不安定になり、多くの家庭が崩壊していったように思います。教会の愛餐会は、神の家族の食事ですから、特別な事情がある場合を除いて、他のことをしないで、一同がテーブルに着くように努めたいと思います。食事の間、直接、ことばを交わすことができるのは、隣に座った人や向かいにいる人の、ほんの数人かもしれませんが、それでも、毎月、違った人たちと一緒にまじわることによって、一年もすれば多くの方々とことばを交わし、お互いを知り合うことができるようになります。愛餐会が、文字通り、アガペーの食事会となるよう、努力していきましょう。

 二、聖餐について

 愛餐会は神の家族のまじわりにとって大切なものです。しかし、愛餐会だけを繰り返しても、神の家族のまじわりは生まれてきません。神の家族のまじわりは、単なるお付き合いでも、仲良しグループでもないからです。私が神学生の時行っていた教会は、お互いを「紀子さん」「和男さん」と、ファーストネームで呼び合うほど、みんなが仲の良い教会でした。そのことに決して悪い印象は持ちませんでしたが、私自身は、その仲間に入っていくのに、苦労したのを覚えています。そこには、すでに、同じ年代や同じ地域に属するひとつのグループが出来上がっていて、そのグループの人たちがあまりに親密なので、そこには入っていけない、何かを感じたのです。「仲良きことはよきことかな。」という武者小路実篤さんのことばがありますが、キリストの教会にとっては、人間的にだけ仲の良いことが、時には、危険なものになってしまうことがあります。教会のまじわりは信仰のまじわりなのですが、それが、信仰に根ざすことなく、人間的なつながりだけで成り立ってしまうと、つながりのない人たちを排除してしまう危険をはらんでいます。教会のまじわりは、真理を、また、真実なものを求めていくまじわりですが、人間的なものだけでつながっているグループは、そのグループの結束を保つために、真実なものをないがしろにし、真理にさえ逆らうという罪を犯す危険を持っています。残念ながら、そのようなことは、いつの時代にも、どこの国でも見られましたし、今もあるのです。神の家族のまじわりは、お互いが、他の何者でもなく、神への信仰によってでつながっているものでなければならないのです。

 私は、そうした信仰のまじわりの素晴らしさを数多く体験してきました。神学校には、全国から、さまざまなバックグラウンドを持った人たちがやってきます。私は、その中で親しい友人を何人も得ることができました。日曜日、教会での奉仕を終えて帰ってくると学生たちが教会からもらってきた食べ物を、みんなで分け合い、聖書のことや教会のことなど夜遅くまで議論しあい、その中から悔い改めに導かれ、共に祈り合うというようなことが何度もありました。神学校を卒業して伝道を始めたばかりの時、ある老夫妻が、駆け出しの牧師である私たちを支えてくれました。生まれも、育ちも、また年齢も大きく離れてはいましたが、信仰によってお互いの間に信頼関係が生まれ、育ちました。その奥様は、主イエスを信じていたものの、長い間パブテスマを受けないでいたのですが、お互いの間に信仰による関係が出来上がった時、彼女はバプテスマを受けたいと申し出てくれました。また、英語教室をした時には、アメリカからひとりの姉妹に来ていただきましたが、その姉妹とも日本人と日本語で話す以上に深く信仰の話をすることが出来、お互いに意気投合することができました。アフリカからの留学生を招いての夕食、フィリピンからの研修生とのまじわりの楽しかったことなどは、今も覚えています。アメリカに来てからも、さまざまな人と出逢いましたが、自分との共通点のあるなしにかかわらず、同じ信仰にあって物を考えられる人とは親しくなり、そうでない人とは、深いまじわりができなかったように思います。主にあってのまじわりというものは、たとえ、人間的つながりなどなくても、また、ことばの壁があっても、そんなことにかかわりなく、人間と人間として、ハートとハートでつながり合える、共鳴しあえるものなのだということを、私は、体験によって学んできましたが、聖書もまた、教会のまじわりは、おひとりの主イエス・キリストにつながっている者たちの「主にあって」のまじわりだと教えています。

 聖餐は、キリストとキリストを信じる者とのまじわりを表わし、また、そのまじわりを育てるものです。私たちがこれから行なう聖餐には、イエス・キリストへの信仰を言い表わして、バプテスマ(洗礼)を受けた人は誰もが招かれています。どこの出身であるとか、どんな仕事をしているかとか、どれだけの財産を持っているかなど、いっさい関係ありません。どの教派の教会で、どの牧師や司祭から洗礼を受けたか、四十年前に受けたが、つい数ヶ月前に受けたかも、全く関係なく、誰もがキリストへの信仰によって、信仰によってだけ、キリストと結びつき、また、キリストにあって互いが結び合わされるのです。

 聖餐ではパンが配られ、「キリストのからだ」が示されます。杯が配られ「キリストの血」が示されます。パンをいただき、杯からぶどう酒をいただく、その中に、イエス・キリストがおられる、しかも、私たちの罪の赦しのために血を流してくださったキリストがおられるのです。このお方の前に心から悔い改め、自分の罪を赦していただき、他の人の罪を赦していく、そこにキリストのからだである教会が建てられていくのです。教会のまじわりは、聖餐が表わしている罪の赦しの恵みによって養われていくまじわりです。教会のまじわりは、その恵みを私たちに届けてくれる聖霊によって育てられていくまじわりです。教会のまじわりを人間的なものだけで作ろうとしても、それは「似て非なるもの」になってしまいます。そこには「キリストとわたし」の関係がなく、教会のあの人、この人とのつながりだけしかありません。「あの人が教会を去ったからわたしも去る。」「あの人がいやだから教会に行かない。」などというようでは、教会はこの世の他の団体以下のものになってしまいます。きちんとした団体やグループなら、無断で休んだり、勝手に責任を投げ出したりということはしません。その団体やグループに対するコミットメントを守ろうと努力します。教会のまじわりは、聖餐によって作りあげられます。聖餐を守り、聖餐によって神とのまじわりに生きる人によって作りあげられるのです。

 神の家族をつくりあげるのは聖餐です。私たちが聖餐式で受け取るパンは、キリストのからだを表わしています。パンが「キリストのからだ」であると言う場合、十字架にかかられたキリストのからだと共に、それは、キリストのからだである教会をも指しています。信仰を言い表わして、キリストのからだの一部となった私たちは、聖餐式でパンを受け取る時、お互いにひとつのからだに属していることを確認しあうのです。コリント第一10:17に「パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」と書かれているとおりです。聖餐はなによりも、私たちとキリストとのまじわりを育むものですが、同時に、それは、キリストにつながる者たちが、お互いに神の家族としてのつながりを持っていることを確認させるものでもあるのです。愛餐は、聖餐によって確認された、この神の家族のまじわりを具体的な形で表わすためのものです。

 ですから、教会では、聖餐が第一で、愛餐は第二です。愛餐は、聖餐に示された教会のまじわりを表わすために、また聖餐に仕えるためにあるのです。ところが、コリント教会の愛餐会は、その後に行なわれた聖餐式を台無しにしてしまうものでした。使徒パウロはそのことについて「飲食のためなら、自分の家があるでしょう。」と言っていますが、それは「聖餐を妨げるような愛餐なら無い方がよい。」という気持ちから出たことばだと思います。私たちは、礼拝の後、聖餐の後、フェローシップを持ち、愛餐会をしています。礼拝後のフェローシップが礼拝を曇らせるようなものであり、愛餐が聖餐の意義を骨抜きにするようなものなら、それは神の教会にとって、お互いの霊的、信仰的な成長に、無益有害なものになってしまうでしょう。正しく聖餐を守るためには、愛餐が本来の目的にかなったものになっていなければならず、愛餐が本来の目的にかなったものになるためには、聖餐が正しく守られなければなりません。私たちは、礼拝や聖餐と切り離されたまじわりではなく、礼拝の祝福をさらに豊かなものにするようなまじわりを、聖餐の恵みをさらに確かなものにするような愛餐を求めています。そのために、聖餐をしっかりと守り、愛餐の時を大切にしていきましょう。

 (祈り)

 父なる神様、私たちはこれから、主イエスが定めてくださった主の晩餐にあずかろうとしています。この聖餐の中にある恵みを、そこに示されている、キリストのからだである教会の姿をしっかりと見つめ、キリストの恵みを受け取り、キリストのからだである教会のために自分を献げていく私たちとしてください。主イエス・キリストによって祈ります。

10/3/2004