主の晩餐のために

コリント第一11:17-22

11:17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
11:19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
11:21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
11:22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。

今日は、ご一緒に聖餐、主の晩餐を守る礼拝ですので、聖餐式に関連した聖書を学ぶことにしましょう。

 一、集会の利益

 今朝の聖書の個所、コリント人への手紙11章は、しばしば聖餐式で朗読される個所で、主が聖餐を定めてくださった時の言葉が含まれており、たいへん重要で、またおごそかな個所です。であるのに、ここには、使徒パウロのコリントのクリスチャンに対する嘆きのことばが記されています。17節です。「ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。」口語訳では、「ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである」とあります。

 私たちが共に集まるのは、それが単に利益になるからだけではありません。私たちが教会に集まること、それは、大きな喜びだからです。詩篇122:1に「人々が私に、『さあ、主の家に行こう。』と言ったとき、私は喜んだ」とあります。それはまた、私たちの義務でもあります。神が私たちを神の民の集いに召し集めてくださっているのですから、私たちはそれにこたえなければならないのです。以前、教会はエクレシア、神の「議会」であると話しましたが、議員が議会に出てこなかったら、罷免させられてしまいます。私たちが礼拝を守ることは、義務です。もちろん、それは苦しい義務でなく喜ばしい義務ですが…。ヘブル10:25には「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と教えられています。

 主の前に、共に集まることは、私たちに大きな利益をもたらします。それはどんな「利益」でしょうか。まず第一に、私たちは共に集まることによって神に近づくことができます。もちろん、一人でも神の前に近づくことができるし、神の前に出なければならないのですが、神を信じる者たちが共に集まるとき、私たちはそこに神が共にいてくださることをより強く感じ取ることができるのです。マタイ18:20で、イエスは「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と約束してくださっていますね。第二に、私たちは共に集まることによって、神のことばを聞き、学ぶことができます。ひとりで学んでいてわからないところを教えられ、個人で学んだことを他の人に分け与えることができます。信仰がひとりよがりにならないで、神のことばがこころに豊かに宿るようになります。第三に、共に集まることによって、お互いから励ましを受けることができます。教会の集会でシェアリングをして個人的な課題を聞いてもらったり、具体的なサジェスションを受けることができるというのはもちろんですが、たとえ、誰に何の問題を話すことがなくても、共に集うだけで励ましを受けることができるのです。ある姉妹が私に、「自分の問題に押しつぶされそうになって、礼拝にも出たくないと思ったことがありました。でも、教会に来て、兄弟姉妹といっしょに礼拝していると、みんな自分の課題に取り組みながら信仰生活に、教会の奉仕に励んでいるのだなと思い、おのずと私の問題は解決してしまいます。礼拝が終わって家に帰ると、そこでは私ひとりがクリスチャンですが、共に礼拝をした兄弟姉妹が、教会が私のバックにいてくれると思うと勇気が湧いてきます」と話してくださったことがありました。教会の集まりは、私たちにとって、ほんとうに大きな力であり「利益」であると言うことができます。私たちは、この大きな利益を逃さないように、それを最大限受けるよう励みたいと思います。

 二、集会の障害

 ところが、コリントの教会の集会、とりわけ、聖餐式のための集まりが、利益をもたらすどころか、損失をもたらしていたというのです。いったい、コリントの教会に何があったのでしょうか。

 そのことを理解するために、聖書の時代に、人々がどのように聖餐式を守っていたかを少しお話ししましょう。当時、聖餐式は、「主の晩餐」と呼ばれ、文字通り、夕食後に教会に集まって行われました。多くの場合、聖餐式に先立って、教会で夕食会がありました。今日も、多くの教会で食事の交わりがあります。サンタクララ教会でも、第一日曜日と第三日曜日に愛餐会があります。私たちの愛餐会は、礼拝に出席しておられる方々が、礼拝が終わってすぐに帰ってしまうのでなく、お互いに言葉を交わしあうようにとの趣旨で行われています。ほかの教会の愛餐会も、ほとんどはフェローシップのために用いられています。一緒に食事をすることによって、お互いがもっと親しくなれるようにと、愛餐会が行われています。しかし、初代教会で行われていた愛餐会は単にフェローシップのためだけでなく、貧しい人々に食べ物を分け与えるという意味もあったのです。教会に集う人々はみんなお金持ちばかりでも、みんな貧しい人ばかりでもありませんでした。実際には貧富の差がありました。しかし教会では、貧富の差を乗り越えてみんなが兄弟姉妹として交わり、豊かな人は、その日の食事に事欠くような人たちと共に食べ物を分け合うために、教会で共に食事をしたのです。当時、このような食事は「愛餐」(アガペー)と呼ばれました。アガペーというのは「愛」という意味ですが、まさに、この食事は愛の実践だったのです。初代の多くの教会では、日曜日の午後共に集まり食べ物を分け合い、兄弟愛を実践してから、共に主の晩餐にあずかり、イエス・キリストを覚えたのです。

 ところが、コリントの教会では、愛餐会の当初の目的が忘れられて、ただ飲み食いするだけの宴会騒ぎになってしまっていたのです。貧しい人たちのことはまったく忘れられ、豊かな人たちだけで飲んで、食べ、酔っ払っている人まで出てくるというしまつでした。貧しい人たちは、その後の主の晩餐まで、ただ指をくわえて待っているだけというのです。使徒パウロは、そのような状況を嘆いて「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっている」と言っているのです。教会は神を求める人々がひとつ心で集い、互いに良いものを分け合うところです。であるのに、自分さえ良ければよいといったわがまま勝手が教会でまかり通っていたのです。そのような集まりに、何の利益があり、祝福があるでしょうか。そのようなこころのままで主の晩餐をいただいたとしても、それは主を礼拝し、主を覚えることにはならないのです。

 そのような集会は、利益にならないどころか「損失」になるというのですが、一体、誰の損失でしょうか。そこに集まる人々が何の霊的なものも得ることができないという意味では、まずそこに集まる人の損失でしょう。しかし、私は、神もまたそうした集会によって損失をこうむると思います。本来神の愛を、恵みを、栄光をあらわすべき集会で神の御名がはずかしめられるようになるからです。アモス書5:21−24で、神はこう言われます。「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」

 私たちは、私たちの集会が神に喜ばれるものとなるよう、心がけていきましょう。お互いが、お互いから大切なもの、良いものを受けるはずの集会、本当の意味での利益を受けるはずの教会の集まりが逆のものにならないよう、お互いに注意しあいたいと思います。

 三、集会の向上

 集会を、とりわけ、主の晩餐のために集う場を、神に喜ばれるものにしていくためには、いくつかのことが必要です。まず第一に、その集会の持つ本来の目的に立ち返ることです。自分たちはいったい何のために集まっているのかということをはっきりさせることです。それで、使徒パウロは「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、…」と、聖餐式の起源にさかのぽって、その意義を教えます。聖餐のパンとぶどう酒が何を表すものなのか、そこにどんな意味があるのか、何もわからずにそれを取り、口に入れるだけであってはならないのです。主の晩餐は、主ご自身がそう定められたように、世の終わりまで繰り返し、繰り返し行われるべきものですが、それを繰り返しているうちに、そのもともとの意義がいつしか忘れ去られて単なる習慣や儀式になってしまうことがあります。私たちが、聖餐式をただ無感動に繰り返すだけで、そこに何の喜びも、感謝もないなら、それは大きな損失ではないでしょうか。聖餐式の本来の祝福を取り戻すために、主イエスが定められた、その本来の意義と目的をしっかりと学び、パンを取る時に、それが表しているキリストのからだがなぜ裂かれなければならなかったのか、ぶどうジュースを取る時に、それが表しているキリストの血がなぜ流されなければならなかったのか、それを深く覚ようではありませんか。

 第二に、必要なことは、自分を吟味することです。28節に「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」と勧められています。どの集会にも、神の豊かな恵みが用意されているのですが、私たちの側に、それを受け取る準備が出来ていなければ、私たちはその恵みを無駄にしてしまいかねません。聖餐のパンとぶどうジュースは、それを食べたり飲んだりすると、自動的に心が暖かくなるとか、元気が出るといった魔法の食べ物、飲み物ではありませんね。それは、イエス・キリストが私の罪のために十字架に死んでくださったことを信じる信仰によって受け取られてはじめて、私たちのための恵みのしるしになるのです。不信仰なままで、パンを取り、杯を取るなら、それは益にならないどころか、裁きを招くとさえ、聖書は言っています。私たちは聖餐に臨むたびに、イエス・キリストへの信仰を、確認しましょう。イエスが主であることをしっかりと告白していきましょう。毎週の礼拝、祈り会、そのほかの学び会や交わりの会に心を整えて出席しましょう。信仰が明確でなかった時、退屈だと思われた集会も、イエス・キリストを受け入れ、パブテスマを受け、悔い改めをもって主に従いはじめていくとき、それがどんなに私たちにとって意味深いものであるかが分かり、集会に集う喜びが増し加わるのです。

 第三は、秩序と改革です。使徒パウロは、コリントの教会に対して「ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。空腹な人は家で食べなさい」(33, 34節)との指示を与えています。愛餐会にもう一度秩序を与えようとしているのです。その集会が本来の目的を果たさなくなっていたら、たとえ長年やってきたことでも、変えていく必要があるということが、ここで教えられているように思います。「空腹な人は家で食べなさい」とは、もし、愛餐会が兄弟愛を実践する場でなく、お互いのご馳走を自慢しあったり、単に胃袋を満たすためだけになっているのなら、それを止めても良いのではないかということを言っているのかもしれません。教会には変えてはならない物もあれば、変えても良い物もあります。教会には、人間の好みや都合だけでなく、神のことばに照らして守り抜かなければならないものがあり、また、時代に応じて変えていかなければならないものがあります。聖餐式と愛餐会を例にとれば、聖餐式は、主ご自身が定められたもので、変えてはならないものです。しかし、愛餐会は、時代が変わり、条件が変われば、形を変えていって良いものです。愛餐会は大切です。しかし、それがより大切な聖餐式を妨げているなら、愛餐会のほうを変更しなければならないということもあるでしょう。何を守り、何を変えるべきか、その知恵を、私たちはみことばによって主からいただかなければなりません。しかし、多くの場合、主がご自身の命をもって定められたこの聖餐式を心から尊び、主との交わりの場として、信仰をもって守っていくなら、愛餐会もまた、兄弟姉妹のより豊かなまじわりの場になっていくことでしょう。

 教会の歩みが、兄弟姉妹の交わりが、神の求めておられるようなものになっていくよう、絶えずみことばから教え、諭され、主の教会として前進していこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神様、今朝、兄弟姉妹と共に、主イエスが定めてくださった主の晩餐にあずかることができますことを感謝いたします。私たちは、今、自らを吟味しながら、聖餐式にあずかろうとしています。どうぞ、私たちのうちに、主の御前につどうのにふさわしくないものがありましたら、それを示し、そこから離れることができるように助けてください。聖餐式を通して、あなたが与えようとしてくださっている大きな利益を今朝、豊かに受け取ることができるように導いてください。主の御名で祈ります。

2/4/2001