ヤベツの祈り

歴代誌第一4:9-10

4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。
4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

 昨年、ウォーク・スルー・ザ・バイブル・ミニストリーのプレジデント、ブルース・ウィルキンソン氏が書いた『ヤベツの祈り』という本がベストセラーになりました。最近本屋さんにいきましたら、「ヤベツの祈りグッズ」なるものがあって、ヤベツの祈りのプラークやブックマークがあったほどです。この本はあるバイブルカンファレンスでのメッセージをまとめたものですが、ウィルキンソン氏は「ヤベツの祈り」を祈るようになってから自分の人生が変ったと言っています。また多くの人が、ウィルキンソン先生の勧めに従って「ヤベツの祈り」を祈っているうちに、困難に打ち勝って道が開けたということも書かれています。

 ヤベツが祈った祈りは、簡潔で短い祈りですが、とてもパワフルな祈りです。今朝はヤベツの祈りの中に秘められたパワーがどんなものなのかを学んでみたいと思います。

 一、逆境に打ち勝つ力

 ヤベツという人は聖書の中に、後にも先にもここにしか出てこない人物です。歴代誌のこの部分はイスラエルの系図をしるしている部分ですが、長々と続く系図の中に名前が出てくるだけで、この人について詳しいことは何も知られていません。しかし「名は体をあらわす」というように「ヤベツ」という名前から、また彼がそう名づけられた事情からいくつかのことを推測することができます。

 9節に「彼の母は、『私が悲しみのうちにこの子を産んだから。』と言って、彼にヤベツという名をつけた」とありますように「ヤベツ」という名は「痛み、苦しみ、悲しみ」を表わしています。親が子どもにそんな名前をつけるというのは、現代のアメリカや日本ではちょっと考えられないことですが、古代のイスラエルではあり得たことでした。たとえば、ラケルが夫ヤコブに12番目の息子を産んだ時、あまりの難産で出産した後亡くなるのですが、その間際に自分の子どもに「ベン・オニ」つまり「苦しみの子」と名づけたという例があります。もっとも、父親のヤコブは「ベン・オニ」ではかわいそうだと、この子に「ベン・ヤミン」、「右手の子」という名前を変えています。この子がイスラエル12部族のひとつ、ベニヤミン族の先祖になったわけですね。

 ヤベツに名前をつけたのは母親でした。イスラエルでは父親が子どもに名をつけましたから、これは普通のことではありません。おそらく、ヤベツが生まれた時には、父親が亡くなっていたのでしょう。ヤベツの母親は、まだ、夫を亡くした悲しみの中にあったのかもしれません。夫を亡くし経済的にも、精神的にも大変な苦しみ、悲しみの中で、子どもを産み、育てなければならなかったのでしょう。彼女が子どもに「ヤベツ」という名をつけたのにはそれなりの理由があったようです。ともかくも、ヤベツは逆境の中に生まれました。生まれながらにして彼は、家庭的に重いハンディキャップを背負わされたのです。

 ある人は何不自由ない豊かな家庭に生まれますが、ある人は食べるものにも困るような貧しい家庭に生まれます。ある人は家族が愛し合い助けあっている暖かい家庭に生まれますが、ある人は問題だらけで冷たい家庭に生まれます。みんなが平等に生まれてくるわけではありません。人間の社会は、昔も今も、洋の東西を問わず、多様です。心理学では、私たちの人格の大部分は幼児のころの家庭環境によって形づくられると言っています。また、生物学では私たちがどんな病気になるかは遺伝子によって決まっているとも言います。もし、それが本当だとしたら、私たちの人生のすべては生まれながらにして決定されているということになります。人間には、いつ、どこで、どんな両親から生まれたいかを決めることができず、何のチョイスもないわけですから、多くの人はそれを自分の「運命」だとあきらめるしかないと考えています。神を信じるという人も、それは「神のおぼしめし」で変えられないことだと言います。その人たちにとっての神は「運命」としての神でしかないのです。

 しかし、ヤベツは、「イスラエルの神」、生きて、私たちの人生の中に働いていてくださる神を信じ、祈りました。「イスラエルの神」というのは、イスラエルの人々が信じている神とか、イスラエル人だけの神という意味ではありません。神が「イスラエルの神」と呼ばれるのは、イスラエルの十二部族の先祖になったヤコブに働きかけ、彼を助け、彼とその人生を変えてくださったからです。神は、世界でただおひとりの主権者、すべのものの創造者、偉大な絶対者ですが、私たちひとりびとりを心にかけ、導いてくださるお方なのです。ヤコブもまたさまざまな苦しみの中を通りましたが、神に祝福を祈り求め、神はヤコブに「イスラエル」という新しい名前をつけてヤコブの生涯を変えてくださったのです。「イスラエルの神」という呼び名には「ヤコブを祝福し、イスラエルに変えてくださった神」という意味があるのです。ヤコブが神の祝福を熱心に願ったように、ヤベツも「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように」と祈っているのです。ヤベツは苦しみの中に生まれました。しかし、彼はそれを「運命」とも「神のおぼしめし」とも考えていません。ヤベツはそれをチャレンジと考えました。そして、神に助けを呼び求めたのです。神はその祈りに答えてくださり、ヤベツは逆境を乗り越えました。「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた」というほどになったのです。

 神はすべての人に同じ境遇をお与えになりません。神はすべての人を平等には取り扱いません。だからといって神は不公平なお方ではありません。神が私たちに何らかの苦難をお与えになる時には、必ずその助けも与えていてくださいます。多くの人は逆境にだけ目を留めて、そこに隠されている神の助けを見落としてしまうのです。ある人は、神の助けを求めて逆境を乗り越えていきますが、ある人はそれに見向きもしないで、不平不満やあきらめの中に人生を送るのです。神は私たちの苦しみを黙って見過ごすことができないお方、あわれみ深いお方です。しかし、神は自動的に私たちをお助けにはなりません。私たちが神の助けを求めて手を差し出す時、神も私たちに手をさしのべてくださるのです。神の助けを求めるか求めないかは私たちの選択にまかせられています。神は私たちに選択の「自由」をお与えになり、その自由を尊重されます。しかし、私たちに与えられたその「自由」を働かせて神の助けを選択するなら、神は私たちを助け、私たちの人生に働きかけてくださるのです。まことの神を信じて祈る時、運命に打ち勝たせる力、逆境を乗り越えさせる力が与えられるのです。

 二、制限を広げる力

 祈りはまた、私たちの制限や限界を広げてくれます。私たちの能力にはそれぞれ限界があります。休みなく働けば疲れますし、一度にたくさんのことを覚えられません。私たちは時々、何の制限もなくものごとができればと思うのですが、制限や限界があるので、命や健康を守られているということも多いと思います。もし、私たちがどんなに働いても疲れることがなく、病気になっても何も感じないとしたら、私たちは働きすぎて体をおかしくしてしまい、気が付いたら死んでいたということになってしまうでしょう。年をとって物忘れをするのも、いやなことを忘れてしまうことができるようにとの、神の恵みかもしれません。しかし、私たちは本当はもっと多くのことができるのに、自分で自分にリミットを設けてしまって「私はここまでしかできない」と決めてかかり、そのリミットの中に安住してしまうことがあるかもしれません。ヤベツは「私の地境を広げてください」と祈りましたが、私たちも、同じように「私のリミットを広げてください」と祈ることができるのです。

 ヤベツの生きた時代は、イスラエルの十二部族に約束の土地が分割されたころでした。ヨシュアが大まかな割り当てを決めましたが、それは地図の上でのことであって、実際に土地を自分のものにするには、先住民と戦い、町を建て、畑を耕さなければならなかったのです。そして、自分の家族のため、氏族のために土地を広げるのは「早いもの勝ち」で、自分の努力次第で、また家族や氏族の団結次第でどうにでもなったのです。ヤベツは、苦しみの中にあった自分の家族のために、また将来のために「私の地境を広げてください」と祈りました。彼は自分のリミットをひろげようとしたのです。

 ヤベツは実際の地境が広がるように祈りましたが、実は、そう祈ることによって、彼はまず信仰を広げていったのだと思います。神の力をより信じれば信じただけ、彼はより広い土地を手にすることができました。私たちも、全能の神を信じる信仰に制限をつけることなく、信仰を増し加えてくださいと祈ることから始めたいと思います。

 あなたにとって「地境を広げる」とは、個人の霊的成長かもしれません。ほんのわずかなみことばの知識からもっと広いみことばの知識に導いてくださいと祈ることができますね。忍耐や寛容という地境を広げて、大きな愛の心で他の人を包み込むことができるようにとの祈りも可能です。今までキリストをあかしすることのなかった人々に思わぬ方法で伝道できるということもあるでしょうし、今まで自分には賜物がないと思っていた分野の奉仕が用いられるということもあります。信仰の歩みにおいても、伝道においても、奉仕においても、いま少しリミットを広げてくださいと祈りましょう。そのようにしてひとりびとりが祝福され、教会が祝福されれば、教会の実際の地境も広げられる日がきっとやってくるでしょう。神がどんな方法でそれを実現してくださるかわかりませんが、祈りには制限を打ち破る力があるのです。

 三、神への信頼の力

 ヤベツの祈りに見られる祈りの力の第三は、神への信頼です。ヤベツは祈っています。「御手が私とともにありますように!」と。「神の手」ということばは、聖書では「神の力」と「神の祝福」を表わすのに使われています。ヤベツは「地境を広げてください」と祈りました。そのためにはもちろん彼自身の努力が必要でした。しかし、ヤベツは、自分の努力だけでそれが達成できないことを良く知っていました。神の御手、つまり神の力、神の祝福が必要なことを良く知っていました。祈りは、神の力に信頼し、神の祝福を受ける第一歩なのです。

 一般に、ものごとに成功するためには「自分を信じろ」「人に頼るな」などと言われます。しかし、大きな仕事を成し遂げた人々は、ほとんどといって良いほど、自信にあふれた人たちでなく、自分の弱さを知っていた人たちでした。そして、その弱さをカバーしてくれる友だちを、協力者を持っていた人たちでした。それと同じように、私たちがもし本当の意味で人生において成功したいと願うなら、神に頼ることを学ぶ必要があります。あるビジネスマンが、成功の公式は(才能)×(熱意)×(誠意)だと言いましたが、私はその上にもうひとつのもの、神の祝福が必要だと思います。(才能)×(熱意)×(誠意)×(祝福)ですね。人間の側でどれだけ精一杯頑張ったとしても、そこに神の手が、神の祝福がなければ決してものごとは成就しないからです。また、たとい、表面ではものごとが期待どおりに行っているように見えても、それが私たちの本当のさいわいには結びつかないのです。

 私たちは、私たちの日常の生活の中にどれだけ神の御手を見ているでしょうか。私たちの心に、神の御手のタッチを感じているでしょうか。神は、いつも私たちと共にいてくださると約束してくださっているのに、また、教会の集まりの中には、イエス・キリストがそこにいてくださるというのに、キリストを信じる者の内には聖霊が住んでいてくださるというのに、日々の生活の中にも、教会の礼拝の中にも、私たちのたましいの内側にも、神の御手のわざを見ることがないとしたら、それは、神の御手を意識して求めていないからかも知れません。ヤベツのように私たちも、生活の一こま、一こまで神に信頼し「御手が私とともにありますように」と祈りましょう。その時、私たちは、神がわたしの生活にその御手で触れてくださったことを見て喜び、感謝する生活を送ることができるのです。そして、この神の御手によってマイナスをプラスに、困難をチャンスに変えて前進していく生涯を送ることができるのです。

 (祈り)

 父なる神様、あなたは、ヤベツの「痛み、苦しみ、悲しみ」を祝福に変えてくださいました。「苦しみ」という名前を持った人を他のどの兄弟たちよりも重んじられるものとしてくださいました。それは、彼があなたに祈り求めたからでした。私たちも今朝、ヤベツと同じ信仰をもって祈ります。私たちを「運命」という鎖から「あきらめ」という牢獄から解放し、私たちの地境を広げ、常にあなたの力と祝福の御手を生活の中で見て喜ぶものとしてください。私たちの祝福の源であるイエス・キリストの御名で祈ります。

7/8/2001