祈りの花束

主の祈り

主の祈りは、完全な祈りです。そこには、神への賛美、感謝、悔い改め、願い、とりなしといった祈りの要素がすべて含まれています。主の祈りは、神を喜ばせる祈りであり、同時に、人間の必要のすべてに答える祈りです。

主の祈りは、おとなにも、こどもにも、すべての人が祈ることができる祈りです。主の祈りは、ひとりで、家族で、教会で、世界中の人々とともにも祈ることができます。主の祈りは、朝に祈ることができ、昼に祈ることができ、夜にも祈ることができます。

主の祈りは、喜びの日にも、悲しみの日にも祈ることができます。主の祈りは、祈る者を守り、力づけ、導き、きよめます。主の祈りを学び、祈ることによって、私たちも主の完全に近づくのです。

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名を崇めさせたまえ。
御国を来らせたまえ。
御意の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦し給え。
我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

偽善者の祈り、異邦人の祈り(マタイ6:5-8)

 主イエス様はマタイの福音書6章で、正しくない祈り方として、偽善者の祈り、異邦人の祈りの二つをあげておられます。

 偽善者の祈りはなぜ良くないのでしょうか。人の前で祈ることは良くないことなのでしょうか。そうであったら礼拝で祈ることや、祈り会で互いに祈りあうことを聖書が勧めるはずがありません。人前で祈ること自体よりも、「人に見せようとして」祈ることに問題があるのです。主イエス様は「人々があなたの良いおこないを見て、天にいますあなた方の父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)とお教えになりました。私たちクリスチャンは、教会で自分に与えられた賜物をおおいに発揮すべきですし、この世に光を輝かせる生活をするべきです。人前で何かをすることを恐れないようになりたいものです。しかし、「人々に見ていただく」ことと「人に見せようとする」ことの間には大きな違いがあります。偽善者の祈りは、神様の答えを求めているのでなく人間の賞賛を求めているのです。神様の答えはすぐには手に入りません。忍耐が必要です。しかし人からの褒め言葉はすぐに手にはいります。わたしたちはどちらを求めているでしょうか。

 異邦人の祈りは、偽善者の祈りよりも、熱心で真実そうにみえます。彼らは祈ることには熱心です。しかし、祈りを聞いて下さる神様については何も知ろうとしないのです。彼らにとって祈りとは、自分の必要を神様に知らせる作業でしかないのです。神様は私たちが知らせるまでは、私たちの必要をご存じでないでしょうか。それほどに神様は知識がなかったり、私たちの必要に心を止める愛さえもお持ちでないのでしょうか。そうではありません。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなた方に必要なものはご存じ」なのです。祈りにおいて何よりも大切なのはこの信仰です。

 偽善者は自分の誉れのために祈り、異邦人は自分の必要のためだけに祈ります。どちらも神様ご自身が忘れられているのです。しかし、私たちは神様との交わりのために祈ります。神様を「父」として確信し神様の御名のために、御国のために、みこころのために祈るのです。

「天にまします我らの父よ」(マタイ6:9)

 主イエス様は神様を「父」と呼ぶようにお教えくださいました。神様は自然の関係から言うなら創造者です。私たちは造られたもの、被造物です。また、支配の関係から言うなら神様は私たちの主、わたしたちはそのしもべです。しかもイエス・キリストの救いにあずかる前には私たちは神に背いたしもべ 神の「敵」でさえあったのです。そのような私たちが神様を「お父様」と呼ぶことができるようになったのはどうしてでしょうか。

 それは第一に、神様が私たちを神様の家族中に入れてくださろうとした、その大きな愛によるのです。神様は私たちを自然の関係でもなく、支配の関係でもなく、家族の関係、愛の関係の中に入れてくださったのです。

 第二に、主イエス様がわたしたちに神の子の身分を与えてくださったことによります。本当の意味で神の子の身分を持っていらっしゃったのはイエス様ただ一人です。イエス様は永遠の先からただ一人の神の御子です。このイエス様が十字架の上で罪の裁きを受けたのです。それはイエス様がわたしたちと同じ罪人の立場に立ち、わたしたちに神の子の身分を与えるためでした。わたしたちはイエス様のこの犠牲ゆえに、神の子としていただきました。神様を「父」と呼ぶたびに、イエス様の恵みを思いみましょう。

 第三にわたしたちが神様を「父」と呼ぶことのできるわけは、わたしたちが自分の罪を知り、神様の愛を知り、イエス様を自分の救い主と信じたとき、聖霊によって新しく生んでいただいたからです。この御霊によってわたしたちは神様を愛する心を与えられ、それを成長させて、より神の子らしくなっていくのです。御霊はまた、わたしたちが神の子であることの確信を与えてくださいます。わたしたちは御霊によらなければ神を父とよぶことはできません。「あなた方は再びおそれをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。(ローマ8:15-16)

「御名が崇められますように」(マタイ6:9)

 「主の祈り」の第四の願いからは「わたしたちの」「わたしたちを」と、わたしたちの必要にふれていますが、最初の三つの願いは「御名」「御国」「御心」についての願いです。原語では「あなたの名」「あなたの国」「あなたのおこころ」となっています。主イエス様は、わたしたちの必要を願う前に神様のことについて思いを深めるようにと教えてくださっているのです。「天にいますわれらの父よ」と呼びかけながら、いきなり「私のこの事をどうにかしてください」「わたしたちのあのことについて何とかして下さい」というのは、いかにもチグハグです。神様がただ「父」とだけ呼ばれないで「天にいます」とつけ加えられているのは、わたしたちが神様の素晴らしさを、そのご栄光を思い見るためです。昔イスラエルの人々は「神様」と呼びかけたあと、神様を思い見て、しばらく沈黙の時を持ったと言われています。「父よ」と呼びかけたあと当然わたしたちの口にのぼる言葉は「御名があがめられますように」でなければなりません。神様は「神」「父」と呼ばれる他に「主」「創造者」「全能者」「いと高きお方」「聖なる者」などと呼ばれています。主イエス様も、御聖霊も様々なお名前で呼ばれています。これらはみな神様の豊かなご性質を表しているのです。祈るときには、「在天の父なる神よ」といった決まり文句でなく、神様をさまざまなお名前で呼ぶことは良いことです。

 「あがめられますように」とは直訳すれば「聖なるものとされますように」となります。イスラエルは、神の民と呼ばれながら神様に背いて罪を犯し、「神の御名は、あなた方のゆえに、異邦人の間でけがされている」と責められました。わたしたちクリスチャンもキリストの御名をもって呼ばれている者たちです。わたしたちは神の御名にふさわしくあることができますようにと、まず心から祈りたく思います。「あなたの名が・・・」と、神様の事を祈るのですが、神様の御名は自動的にあがめられるのではなく、わたしたちが神様の素晴らしさをあらわすために用いられるのです。わたしたちが神様のお名前を聖いものとして尊重し、おおいに御名を賛美しその御名を宣べ伝える時、人々は神様の御名を知り神様の御名を賛美する者となっていくのです。

「御国が来ますように」(マタイ6:10)

 「主の祈り」の第一の願いから、第三の願いは神様の「御名」「御国」「みこころ」を願い求めています。わたしたちは祈りと言えばすぐに自分たちの願いを神様に申し上げることだと考えてしまいますが、実は神様はわたしたちが神様にもとめる先からわたしたちに必要なものを御存知なのです。そして、「主の祈り」の中でわたしたちに本当に必要なもの、わたしたちがまず第一に求めなければならないものが「御名」「御国」「みこころ」であると、教えてくださっているのです。最初はどんな願いでも、素直に神様にお祈りすれば良いのですが、祈るにつれて、わたしたちは何をどう願い求めたら良いのかを教えられていくのです。祈りとは、わたしたちの願いを神様に知っていただくことと言うよりは、わたしたちが神様の願いを知る事だと言っても良いのです。神様の願いを知れば知るほど、わたしたちはさらに確信をもって祈り、願い、求めることができるのです。あなたの祈りはいかがですか。

 さて、御国がわたしたちの第一に求めるべきものであるのは、クリスチャンであれば誰もが認めるところです。主イエス様は「まず神の国と義とを求めなさい」と言われました(マタイ6:33)。旧約聖書のひとびとは神の国を待ち望んで、地上では寄留者として過ごしました。外国に捕らわれの身となった人々はひたすらに祖国の地に帰ることを願いました。イエス様の時代には、ユダヤの人々はローマ帝国の属領となって独立を失っていました。彼らは自分たちの国の復興を待ち望んでいました。そのように、わたしたちも、第一に神の国を願い求めるものでありたいと思います。

 そのためには、わたしたちが神の国の素晴らしさを知ることが大切なことです。私たちが住むどの国も、そこは永遠の住まいではありません。地上の国はわたしたちに一時的な福祉を与えることはできても、永遠の命を与えることは出来ません。神の国にこそ全ての慕わしいものがあります。神の国は、イエス様が再び地上においでになる時に完成するのですが、イエス様が最初に地上においでになったときからそれは始まっているのです。神の国の素晴らしさを知るとは、その力を体験することなのです。わたしたちはもうすでに神の国の国民なのです。クリスチャンがこのことに目覚め、神の民として神の国を第一に求め始める時がいまやってきました(ローマ13:11-14)。この世のものを追い求めることをやめ「御国が来ますように」と祈ろうではありませんか。

「みこころが天に行われるとおり」(マタイ6:10)

 この地に長く住んでいる人たちはみな、口をそろえて、30年前はもっと気候が良かったですよ、20年前はもっと人々が親切でしたよ、10年前はもっと安全だったのですが・・・と言います。世の中はだんだん住みにくくなり、人の心は悪くなり、自然環境さえも狂いだしてきたようです。いろいろな犯罪を見聞きしたりすると、本当に世界は神様のみこころに背いていると思います。そして自分たちもこの世の罪の結果を身に受けると、「どうしてこんなことが起こったのか」と思うようになってしまいます。そんなとき、主の祈りを思いだしたいのです。「みこころが天に行われるとおり」とあります。神様が力を失って、そのみこころが成し遂げられないのではありません。天では、天使たちがみこころの通りに働き、大宇宙も規則正しくみこころのままに動いているではありませんか。そして、歴史を導いておられる主は、わたしたちの見えないところで、世の終わりに向けてのプログラム、別の言い方をすれば、新しい御国の始まりのプログラムを進めていて下さるのです。世界は、そして、わたしたちの人生は無意味で、盲目的な「運命」に操られているのではありません。たとえ今は分からなくても、神様のみこころの中にわたしたちは生かされているのです。このことを知る者は人生を投げ出しません。神様のみこころが「地にも行われる」ことを願い求めながら生きるのです。

 「地にも行われる」ことを願い求める時、わたしたちは誰か他の人ではなく、自分自身がみこころに従っていないことに気ずくのです。天使たちは神様に従うのに何の困難も覚えないでしょうし、他の被造物は機械的に、あるいは本能的に神様に従いますが、わたしたち人間はそうではありません。時には、何が神様のみこころなのか見きわめられない時もあります。みこころを知りながら、それとは逆の方向にひかれていったり、足踏みして従おうとしなかったりするものです。わたしたちは自分の意志で自分を神様に献げていくまではみこころを行うことができないのです。わたしたちには「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と祈られた主イエス様がいらっしゃいます。イエス様は、わたしたちのためにしもべとなって世に来られましたが、奴隷のように義務的、機械的に、父なる神様に従われたのではありません。もっと自発的に、献身的にそうされたのです。神様は、キリストに従うわたしたちにも同じ思いで「みこころが行われますように」と祈る事を求めておられます。

「日ごとの食物を」(マタイ6:11)

 ここで、主イエス様は、わたしたちの具体的な必要のために祈るように教えて下さっています。神様にとって大きすぎる祈りがないように、神様にとって小さすぎる祈りもありません。生活のどんな小さな必要もことごとく祈りの中で神様にお願いすれが良いのです。私の尊敬する牧師がこんな話をしてくれました。先生がたいせつな書類を家の中のどこかに置き忘れて探していた時、側にいたお母様にもさ探してくれるよう頼んだのですが、お母様はじっと座って動こうとはなさらなかったのです。それを見て先生は「お母さん、じっと座ってないで、早く探して下さいよ。急いでいるんですから」と少し不機嫌に言いました。するとお母様は「おまえの探し物が早く見つかるようにお祈りしていたんだよ。おまえもそんなにあわてないでお祈りしたらどうだね」と言われたのです。先生に導かれて信仰を持って間もないお母様でしたが、先生はお母様のこの時の態度から大切なことを学ばれたのです。

 母親が子供の怪我にあわてず、静かにお祈りしてから治療をしてあげられたら、子供は精神的な動揺から救われます。あかちゃんが泣くからと、急いでミルクをくちにふくませるよりも、あかちゃんをあやしながら、「神様、おいしいミルクをありがとうございます」と、祈ってあげてミルクを与えるなら、母親は子供に肉体の糧以上のものを与えることができるのです。イエス様は長年分の食料をためこんだ金持ちのお話をなさいました。(ルカ12:13-21)その金持ちは言いました。「長年分の食料がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ。」ところが神様はこの金持ちに「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物はだれのものになるのか。」この金持ちは物に頼っていたのであって、神様に頼っていたのではなかったのです。イエス様が「日ごとの」食物を「今日も」求めるように言われたのは、(たとえ冷蔵庫に一週間分の食べ物が入っていても、日ごと日ごと、一瞬一瞬神様に頼りながら歩むようにと、お教えになるためでした。わたしたちの神様はわたしたちに必要なものをご存んじのお方(マタイ6:8)、わたしたちの必要を満たしてくださるお方です(6:33)。神様への信頼の心から、どんなことでも祈ってまいりましょう。

「わたしたちの負債をも」(マタイ6:12)

 主の祈りの第5の祈りは祈るのに難しい祈りです。それはひとつには、わたしたちが神様の前にへりくだって自分の罪を認めることができなければ決して祈ることができないからです。わたしたちはみなアダムとエバの子で、なかなか自分の罪を認めようとはしないものです。昔の聖徒たちはみな深い罪の認識をもっていました。使徒パウロ、教父アウグステイヌス、改革者ルターなどの生涯を学ぶとそれがよく分かります。聖い神様に近ずけば近づくほど、わたしたちはただ感謝や願いだけでなく、悔い改めと罪の赦しを願う祈りへと導かれていくのです。

 これを祈るのに難しい第2の理由は、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように」という一句がつけ加えられているからです。このことばの最上の注解は、イエス様のたとえ話のなかにあります。ある人が一万タラント(一万年分の年収!)を王に借金していました。決算の時が来ました。この人はこの負債を返す事ができなかったので、おそらくは死を覚悟して王の前にでたことでしょう。ところが寛大な王はこの巨額の負債を免除してやりました。王宮からの帰り道、その人は自分が100デナリ(3ヶ月分の収入)貸してあった人を見つけます。その人は容赦なく彼を牢に入れてしまいます。自分は一万タラントも許してもらったのに、何というちぐはぐな行動でしょう。これを聞いた王は怒って借金の免除を取り消してしまうのです。(マタイ18:21-35参照)

ここには自分は他の人を許さないのに、自分のことは許して欲しいという都合の良い祈りを神様はお聞きにならないと言うことが教えられているのです。わたしたちが誰かを赦そうとするとき、簡単には人を許せないことを発見します。そのことから、わたしたちは神様がわたしをお赦しになるのも簡単なことではなかった事を知るのです。そしてイエス様がわたしの負債のために支払ってくださった大きな代価に感謝せずにはおれなくなるのです。その時にはじめてわたしたちは「わたしたちに負債のある者を赦しました」という事を、自慢するためでも、神様と取り引きするためでもなく、素直に他の人を赦せるようになったことを神様に感謝して祈る事ができるようになるのです。「神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなた方も互いにゆるし合いなさい。」(エペソ4:32)

「試みに会わせないで・・・・」(マタイ6:13)

 「主の祈り」の最後の願い「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」については、三回に分けて学びましょう。

 最初に「試み」ということばについて考えてみましょう。このことばは「試練」とも「誘惑」とも訳せます。実際ヤコブの手紙1:12、13では、まったく同じ原語ガ12節では「試練」と訳され、13節では「誘惑」と訳されています。試練と誘惑の違いは13節で明らかです。「だれでも誘惑に会う場合、”この誘惑は、神からきたものだ”と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」

 試練は神様からくるもので、わたいたちを聖め、わたしたちに良いものを与えます。「全ての訓練は、当座は喜ばしいものとはおもわれず、むしろ悲しいものと思われる。しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(へブル12:11)神様から来る試練、神様のお与えになる訓練は、神様の愛のあらわれであり、それはわたしたちに地上では「忍耐・練達・希望」を与え(ローマ5:3-4)、天での「いのちの冠」を約束しているのです。ですからわたしたちは神様からの試練を避けようとしたり、逃げ出したりしてはなりません。わたしたちの主イエス様は立派に苦難を忍び通されました。 主はわたしたちの弱さを思いやってくださるお方です。聖書には試練の時、苦難の時の励ましの言葉が満ちています。それらを手がかりにイエス様によりすがりながら、歩んでまいりましょう。

 一方、誘惑はサタンから来ます。サタンはわたしたちが主イエス様を信じる前に仕えていた「この世の神」です。彼はわたしたちクリスチヤンを神様の手からとり戻そうとあの手、この手の策略をめぐらして、わたしたちに働きかけてくるのです。これが誘惑であり、誘惑の目的はわたしたちを神様から、主イエス様からひきはなすことであり、わたしたちの内に働いてくださる聖霊様のお働きを消すことにあります。聖書は、試練の時とは違って、誘惑に会う時はそれにたえしのびなさいとは教えていません。誘惑からは遠ざかること、逃げ出す事が一番なのです。ヨセフはエジプトで自分の主人の奥方から誘惑を受けたとき、「外にのがれ出た」のです。「自分には誘惑が来てもだいじょうぶ」などというのでなく、主の祈りが教えるように「わたしを誘惑に会わせないでください。神様からわたしを引き離すようなものをわたしからとりさってください。そのようなものにわたしを近づけないでください」と祈る者となりましょう。

「悪しき者から」(マタイ6:13)

 主の祈りは「悪」からではなく、「悪しき者」からの救いを教えています。この「悪しき者」とは「サタン」「悪魔」のことです。ある人たちはサタンの実在を認めようとしません。「悪」(Evil)はあるが「悪魔」(Devil)はいないというのです。また、サタンはいるというひとも、サタンをシッポの生えた不気味な動物のように考えている場合が多いようです。わたしたちはサタンについてすべてを知りませんが、彼が策略をめぐらすものであることは知っています。自分の存在を正しく知られることはサタンにとって不利なことなので、サタンはわたしたちが彼の存在を否定したからといって、自分の存在を証明しようとすることはありません。わたしたちがサタンについてまちがった概念を持っていることは、彼にとってはむしろ好都合なのです。

 サタンについての唯一の情報源は聖書です。聖書によれば彼は力ある天使の一人でしたが、高慢になり、自分を神様と等しくなろうとして神様からの審きを受けたようです。教会の監督について「彼はまた、信者になって間もない者であってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない」(テモテ3:6)とあります。エデンの園で「それを食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記2:5)と誘惑したのも、人間を自分と同じ運命に引き入れようとしたからでしょう。サタンは神様にさからったとき多くの天使たちを仲間に巻き込み、悪霊たちのかしらとなったようです。わたしたちもイエス様によって救いをいただくまでは「空中の権をもつ君」に従っていたのです(エペソ2:2)。しかし、わたしたちはイエス様によって「やみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ」移されたのです。

 したがってサタンはわたしたちに対して何の権威も持っていません。彼はすでに敗北しています(ルカ10:18)。しかしサタンはなお力を残していて、わたしたちに戦いをいどんできます。わたしたちはこのサタンに立ち向かうのですが、もし、人間の力で彼に打ち勝とうとするなら失敗するでしょう。わたしたちの力は神様から来ます。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」(エペソ6:11)と教えられています。あなたの備えは大丈夫でしょうか。兜にゆるみは、盾にぐらついたところは、剣は錆びていないでしょうか。備えを怠らず、神様により頼んで行く時、サタンはわたしたちの背後におられる主を恐れて逃げ去るのです(ヤコブ4:7)。

「悪しきものからお救いください」(マタイ6:13)

 主イエス様ご自身、「悪しき者」の試みをお受けになりました(マタイ4:1-11)。イエス様への試みはイエス様のご使命と関係があります。サタンはイエス様のお働きを正面から反対してはいません。いかにもそれに協力的であるかのように近づいて来ます。しかしその意図は神様のみわざを破壊することなのです。サタンは実に巧妙です。

 イエス様にたいする第一の試みは「これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」でした。つまり「人は物質的に満たされなければ、神の言葉に耳を傾けやしない。神の子たる者はまず、人々にパンを与えるべきではないか」というものです。しかし、イエス様のお答えは「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言でいきるものである』と書いてある」、つまり、「真に人を生かすのは神のことばであって、神のことばこそ優先されるべきだ」というものでした。

 次に、サタンは「では、神殿から飛び降り、安全に着地して、人目を引きなさい」と提案します。この時、サタンはイエス様と同じように「・・・と書いてありますから」と聖書を使ってきます。聖書を正しく学んでいないと、サタンの間違いを見抜けません。サタンが引用した箇所は詩篇91:11、12で、そこには「あなたの歩むすべての”道”であなたを守らせられる」とあって、決して神殿から飛び降りても天使が守ってくれるとは言っていないのです。イェス様は人々が求めるような”しるし”によってでなく、人々への忍耐深い伝道と、弟子たちへの集中した教育によって神様のみことばを宣べ伝えたのです。「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある。」

 最後にサタンは自分の本性をあらわして「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」と言います。ここにサタンの嘘があります。この世は一時的にサタンの支配に置かれてはいても、それはサタンのものではありません。サタンはそれを誰かに与える権利は持っていません。サタンは自分と手を組んでこの世を支配しようと持ちかけるのです。サタンとの妥協は結局はサタンを「ひれ伏して拝む」ことになるのです。イエス様はこの世の王となるためではなく、人々のしもべとなって人々を救い出すために、人間の王国でなく、神様の御国を打ち立てるためにおいでになったのです。イエス様はきっぱりと「サタンよ、退け『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と言われました。私たちも主イエス様と同じきっぱりした心で主の祈りを祈りましょう。

「国と力と栄えとは」

 聖書にはありませんが、教会で唱えられる「主の祈り」には、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」とあります。これは余分なつけ加えでしょうか。そうとばかりは言えないようです。第一に、これは聖書からの引用であって、だれかの言葉をつけくわえただけのものではありません。歴代誌第一29:11に次のように書いてあります。「主よ大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。」

 第二に、これは「主の祈り」の最後の願い、「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」とつながっています。サタンはこの世のものを見せて、「これはわたしのものだ」と言うかもしれませんが、世界のすべての国々は主なる神様のものなのです。主こそ、力をもってサタンを打ち破ることのできるお方、すべての栄光に満ちておられるお方です。わたしたちは神様に願う時、いったい神様は本当にこの願いを聞いてくださるのでしょうかという気持ちで祈ってしまう時があります。いつまでも、「どうか、・・・してください」と繰り返してしまうのです。ある先生が「銅貨(「どうか」)ばかりでなく、銀貨や金貨もだしなさい」と、ジョークを言いましたが、祈るとき「神様あなたはそれがおできになにます!」と信じて願うのはとても大切なことです。

 第三に「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」のことばは「主の祈り」最初の願い「御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と、呼応しています。わたしたちの礼拝は賛美で始まり頌栄(しょうえい)で終わりますが、主の祈りもそれと似ています。まず神様の御名をあがめ、ご支配のみ力をたたえてから、神様のみこころに自分を委ね、それから、私たちの必要をお願いします。そしてすべての願いの最後にもう一度「国と力と栄えとは・・・」と、栄光を神様にお返しするのです。わたしたちのどの祈りの最後にも、毎日の生活の最後にも、栄光のすべてを神様にお返しするへりくだった姿勢をもっていたいものです。

「アーメン」

 もう、何十年も前のことですが、アメリカ、カナダの宣教師の方々とはじめて祈り会をしたとき、とても妙な気持ちになったことを私はいまでも覚えています。それは、だれも祈りの最後に「アーメン」とおっしゃらなかったからです。私の母教会はアメリカ海軍の従軍牧師が日本人にも伝道してはじまった教会ですが、お祈りの最後には必ず「アーメン」と唱えました。テキサスのダラスで出席していた南バプテストの教会では、お祈りの最後に "All God's people say Amen”と言って、みんなが大きな声で「アーメン」と唱和しました。それはとても力強く素晴らしいものでした。「アーメン」を口に出して言う人、言わない人、さまざま見てまいりましたが私にとっては、やはり、「アーメン」と声を出して唱える方が良いように思えます。

 家族で、友人とともに、あるいは、教会の集まりで、「アーメン」と唱える時、心にわきあがってくる喜び、平安、感謝はどこからくるのでしょうか。「アーメン」とは「真実」を意味することばです。この場合それは、「わたしの祈ったことは、みな真実です。まごころから祈りました」と言う意味でなければなりません。霊的なことを忘れ、偽善的になっていったラオデキヤの教会でも、祈りは形式的にはささげられていたでしょう。ことばの上では、整った、立派な祈りであったかもしれません。人々は「アーメン」と唱えたでしょう。しかし、その祈りはほんとうの意味で「真実」だったのでしょうか。イエス様は、この悔い改めた教会に、ご自分を「アーメンたる者、忠実な、まことの証人」としてあらわれてくださいました。(ヨハネの黙示録3:14)たとえ人前で祈るとしても、たんに人前で祈っているのではなく、「アーメン」なるお方の前で祈っていることを忘れてはなりません。

 また、「アーメン」と唱えることは、「神様、あなたは真実なお方ですから、わたしの祈りを受け入れてくださいますと言う意味でもあるのです。わたしたちの最善も神様の前には何物でもありません。祈りの最後に「アーメン」と唱える人はみすから祈りにおいて真実であるばかりでなく、神様のご真実に深く信頼するものでなければなりません。わたしたちが祈りのたびに「アーメン」と唱える時、「アーメン」であるお方によりすがるのです。ここから、「アーメン」と唱える者たちの平安と、互いの一致が生まれるのです。