祈りの花束レントについて「レント」とは、イースター前の40日間のことをさします。レントはイースターの七週前の水曜日から始まります。この水曜日は、カレンダーに「アッシュ・ウェンズディ」(灰の水曜日)と書かれています。この日には教会に行って額に灰を塗ってもらう慣わしがあります。この「灰」はパームサンデー(棕櫚 の主日)に教会で使ったパームの葉を燃やして作ります。もっとも、今では手作りすることはなく、クリームになったものが専門店で売られています。 聖書では、「灰」は「悔い改め」のしるしです。旧約時代、人々は、悔い改めを表すため、粗布をまとい、灰をかぶりました。主イエスは、ご自分が力あ るわざを数多く行ったのに、悔い改めなかった町を責めて、こう言われました。「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざ が、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」(マタイ11:21)「灰の水曜日」の 「灰」は、この日から始まる「レント」の40日を「悔い改め」から始めることを表しています。 「灰」はまた「きよめ」を表します。「汚れ」を除く水は罪のきよめのために献げられた犠牲の灰に水を加えて作りました(民数記19:17〜19、ヘ ブル9:13)。「灰の水曜日」の「灰」は、旧約の犠牲にまさるキリストの血が、悔い改めと信仰によって神に近づく者の罪を赦すことをも示しています。 「灰」は、また、「人は死すべき者である」ことを教えます。「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」とは、じつに厳かな言葉です(創世記 3:19)。これは、人を、創造者であり、聖なるお方の前にへりくだらせます。アブラハムは「神の友」と呼ばれるほど神に近い人でしたが(ヤコブ 2:23)、それでも、「ご覧ください。私はちりや灰にすぎませんが、あえて、わが主に申し上げます」(創世記18:27)と言って、神の前にへりくだっ ています。「灰の水曜日」の「灰」は、「レント」の40日を、神の前にへりくだって歩むことを誓うしるしでもあるのです。 さらに、この「灰」は、やがての「よみがえり」の希望のしるしです。イエス・キリストが再び来られるとき、キリストにある死者は、たとえ「灰」とな り、土の「ちり」となっていたとしても、よみがえり、生きている者は栄光のからだへと変えられます(第一コリント15:51〜53)。「レント」の第一日 に受ける「灰」は、40日後のイースターを、さらに、キリストの再臨と「からだのよみがえり」の希望を覚えさせるものです。 額の「灰」は、「灰の水曜日」のファッションであってはなりません。実際に「灰」を塗るか、塗らないかよりも大切なことは、私たちの悔い改めと信仰、そして、希望と確信なのです。 レントは、古代には入信者が教理教育を受ける期間でした。バプテスマを受ける人たちはこの期間、聖書の教えを学び、祈りに専念して、イースターのバプテスマに備えました。 後の時代には、レントは内省・自制・克己の期間となりました。レントには、マタイの福音書六章にある、施し・祈り・断食の三つの善行に励むよう教えられてきました。昔のヨーロッパでは、この頃には冬を越すために蓄えた食糧が底をつき始めます。それで、信仰上の理由ばかりでなく、週に一度、一食程度の断食が必要でした。 年に一度はドクターやデンティストに行ってチェックアップをしてもらい、自動車を定期点検に出すように、わたしたちの心や生活も、せめて年に一度は反省の時を持ち、将来に向けて建てなおしていく必要があります。自分の内面を見つめなおし、家庭や職場でのあり方を考えなおす。必要であれば家族で話し合いの時を持つ。和解が必要な人があれば、自分の方から進んでそのことをする。人生の目的やゴールをしっかりと見極める。自分のことばかりでなく、まわりの人々のためにどんな貢献ができるかを考えてみる。レントの期間をそのような時とすることで、一日一日が充実したものとなります。 「レント」という言葉には「長い」という意味があります。春が近づき、日の長さが長くなることから、この期間がそう呼ばれるようになりました。そして「レント」という言葉には、日の光だけでなく、神の言葉の光も、もっとわたしたちの心に差し込み、人生を照らしますようにという願いも込められています。レントの期間に自己点検をするといっても、何の基準も無しにできるものではありません。わたしたちの心を照らし、生活を導く光は、神の言葉です。レントの期間、聖書に親しみながら過ごすとき、わたしたちの心と生活にもっと光が与えられ、やがて、イースターという光に満ちた祝日を喜び一杯に迎えることができるようになります。 |