5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。私たちは日曜日ごとに礼拝を守っています。教会にはさまざまな集会がありますが、なんといっても礼拝がその中心です。礼拝はさまざまな集会のひとつというのではなく、集会以上のものです。たとえ他のどんな集会がなくても礼拝があれば、そこは教会となりますが、どんなにさまざまな集会が盛んであったとしても、礼拝がほんとうに礼拝として守られていなければ、そこはもはや教会ではなくなるでしょう。 私たちは2005年からリック・ウォレン師の Purpose Driven Life に従って、五年計画で信仰生活の学びをすすめていますが、第一年目に学んだのが「礼拝」でした。リック・ウォレン師は、五つの目的の第一に「礼拝」を置き、信仰生活は礼拝からはじまり、礼拝に終わる。教会で第一にすべきものは「礼拝」であるということを、教えてくれました。 第一年目に「礼拝」について学んだものの、まだ学び残していることがたくさんありますし、学んだことをすべて実践できているわけではありませんので、より神に喜ばれる礼拝をささげるため、機会のあるごとに、礼拝について学びましょう。今朝はエペソ5:19-21、とくに19節から賛美について学んでみたいと思います。 一、互いに語る賛美 エペソ5:19は「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」と教えています。ここには、賛美の歌い方について「互いに」、「主に向かって」、そして「心から」という三つのことが教えられています。最初に「互いに語る」ということについて考えてみましょう。 「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り…なさい。」と言われていますが、「歌で語る」というのは、まるでオペラのようにお互いに歌い交わすということなのでしょうか。夫婦で声楽を専門にしている人の中には声を慣らすために家でもお互いに歌いながら対話することがあるそうです。事情のわからない人がそんなやりとりを聞いたら、「あの人たちは頭がおかしくなったのではないか。」と思うかもしれませんが、夫婦喧嘩も歌で歌でやれば、けっこう早く仲直りできるかもしれません。 じつは、初代教会では、ここに書かれているように、ほんとうに互いに歌い交わして礼拝していたのです。礼拝の司式者と会衆とが、賛美を歌い交わしたのです。そういう礼拝の形式は今もオーソドックス教会やカソリック教会が守っています。近くのロシア正教会の礼拝を見せてもらったことがありますが、礼拝のすべては、説教をのぞいて、すべて賛美で進められていました。聖書も朗読されるのではなく、歌われるのです。しかも、楽器を使わないで歌います。その教会は小さな教会でコワイヤは4、5名しかいませんでしたが、厚みのあるとても素晴らしい賛美でした。賛美歌集もスクリーンもありませんでしたが、会衆はコワイヤに導かれて、よく賛美していました。 カソリック教会でも、司式者と会衆がことばを交わしながら礼拝を進めていきます。司式者が「父と子と聖霊の御名によって」(In nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti.)と言い、会衆が「アーメン」と応答して礼拝が始まります。聖書が朗読された後、「これは主のことばです。」(Verbum Domini.)と宣言されると、人々が「神よ、感謝します。」(Deo gratias.)と答えます。司式者が「主がともにおられますように。」(Dominus vobiscum.)と言うと会衆が「あなたとともにもおられますように。」(Et cum spiritu tuo.)と返答します。 私たちの教会でも、こうしたことは詩篇の交読で行っています。司会者が神のことばの一節を会衆に呼びかけ、会衆がそれに対して応答します。交読は「互いに語り合う」賛美です。ここでは「語る」というのは「おしゃべりする」という意味ではなく、「宣言する」という意味で使われています。詩篇に歌われている神の偉大さ、神の救い、神の約束や祝福を、信仰をもって互いに「宣言」しあうのが交読です。礼拝では私語を慎むよう注意されますが、それは、礼拝での「語り合い」が、神のことばの宣言になるためです。司会者も会衆も、これからは、もっと交読を大切にし、心を込めて互いに神の約束と祝福を宣言しあうことができるようにしていきましょう。 じつは、交読だけでなく、礼拝の全体が神からの呼びかけと私たちの応答で成り立っています。私たちは、聖書の朗読と説教を通して神のことばを聞き、聞いた神のことばに、祈りと頌栄で答えます。そして祝福に対して「アーメン」と答えて礼拝を終えるのです。このような神との対話によって、礼拝はたんにそれを眺めに来るものではなく、自分がそこに参加するものだということを、身をもって学ぶのです。 ところが、最近のアメリカの教会では、礼拝者が観客のようになってきました。ワーシップチームが「礼拝」よりも「音楽」に重点を置いて、技術を磨くことに一所懸命になるという現象が起きています。ワーシップ・チームは、文字どおり、ワーシップ、礼拝に仕える人々で、会衆がよく賛美できるよう助けるために立てられているのですが、いつしか、教会専属のミュージシャンのようになってしまい、礼拝を自分たちの「演奏」の場にしてしまっているのです。教会が劇場のようになってしまったことを嘆いて、そういう教会を去ってしまった人を、私は何人か知っています。そういう教会で育った人は、礼拝に来てステージで行われる「演奏」に耳を傾けるのが賛美だと思ってしまい、日々の祈りの時に賛美したり、家族みんなで賛美することが無くなってきています。大勢のミユージシャンが次から次へと新しいクリスチャン・ミュージックを生み出しているのですが、そのほとんどが CD で聞く「鑑賞用」のもので、毎日の生活の中で、誰もが口ずさみ、心から歌うことのできるシンプルな賛美がなくなっているのはとても残念です。賛美を誰もが歌うことができるものにし、賛美を奨励してきたプロテスタント教会で、ピアノがなければ賛美ができない、賛美歌集がなければ歌えない、プロジェクターとスクリーンがなければ賛美できない、ワーシップチームがいなければ賛美できないといった状況が起こっています。本来の賛美のあり方を取り戻さなければなりません。 そのためには、礼拝でしか賛美をしないというのではなく、礼拝で歌った賛美を、家に帰ってから新聖歌や賛美歌集を開いてもう一度歌ってみる、テープで聞いて覚えるなどして、いつでもどこでも賛美の歌を口ずさむことができるようになって欲しいと願っています。賛美はプロフェッショナルによって演奏されるものではなく、すべてのクリスチャンによって歌われるものであるべきです。賛美は観賞するものではなく、みずからが歌うものです。プロテスタント教会がほんとうの意味での賛美をもういちど取り戻せるようにと願っています。 二、主に向かう賛美 次に、賛美は「主に向かって」するものだということを考えてみましょう。 賛美歌はどれも美しいメロディを持っていますので、そこで歌われている「ことば」よりも、メロディのほうに心を奪われてしまうことが多くあります。しかし、賛美で大切なのは、メロディではなく「ことば」です。どんな賛美でも、「ことば」が大切にされなければなりません。「賛美イコール音楽」ではないからです。賛美は音楽以上のものです。賛美というのは、「歌」「音楽」である以前に、神への祈りであり、信仰の告白です。音楽は、賛美を助けるための道具にすぎません。 そして、忘れてならないのは、賛美のことばが神のことばから来ているということです。エペソ5:19は、賛美には「詩と賛美と霊の歌」の三種類があると言っていますが、最初の「詩」というのは聖書の詩篇のことです。旧約のイスラエルも新約のクリスチャンも、詩篇を使って祈り、賛美してきました。教会によっては詩篇しか歌わないところもあります。誰かが詩篇しか歌わない教会の人に「他の賛美が無くて困ることはありませんか。」と聞きましたら、「詩篇には、ありとあらゆる状況で歌うことの賛美がぎっしり詰まっていて、すこしも困ることはありません。」という答えが返ってきたそうです。確かに、詩篇は最も古い賛美歌集です。古いけれどもとても新鮮です。「君はわが身の牧者なれば」(新聖歌318)や「わが主はまことの牧者」(新聖歌389)は詩篇23篇が歌詞になっています。皆さんがよく歌う「鹿のように」(プレイズ69)は詩篇42篇からの歌です。手元に賛美歌の本がなくても、聖書があれば、詩篇によって賛美することができるのです。 「詩と賛美と霊の歌」と言う場合の「賛美」は信仰の告白の歌のことです。聖書には、信仰の奥義を要約したことばがいくつもあります。たとえばピリピ2:6-11がそうですが、ここを意味を考えながら読んでみましょう。
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、それぞれの節ごとに比較があり、対照があり、リズムがあるのが分かりますね。これはまさに詩の文体、韻文です。最近の聖書(Christian Standard Version)ではこの部分が詩の文体としてしるされています。初代教会の礼拝では、こうした信仰のステートメントがそのまま歌われ、賛美という形で聖書の真理を告白していました。賛美は、神のことばの真理の表現です。その真理への信仰の告白です。
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、
すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、
ひざをかがめ、すべての口が、
「イエス・キリストは主である。」と告白して、
父なる神がほめたたえられるためです。
4/18/2007