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み言葉が開かれると

“開けるたびに新鮮” これはあるコーヒーのキャッチフレーズであるが、聖書にもこれによく似た、いや、もっと心を引き付けるすばらしい一句がある。

「言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩編119:130)

カナンの地に定住するまでのイスラエルの人々は天幕住まいであった。天幕には窓という採光設備がないので、光を必要とするときには入口を広く開ける以外に方法はない。このような生活様式から生まれたのが、「み言葉が開かれると光が射し出で」と言う表現である。

私どもにとって「み言葉が開かれる」という経験は、求めるものが何であるかにかかっている。もっともっと主を知りたい。聖書を読むことの中にキリストにお会いしたい。このような真剣な求めのあるところに、聖霊の助けによって「み言葉が開かれ」信仰の確かな証となっていく。

このことについて加藤常昭先生が「聖書黙想の恵みと喜び」と題する講演の中に御自分の証しとして語っておられるので引用させていただく。(特別セミナー:2010年3月20日)

「私は若い時から聖書の教師として尊敬していて、実際に指導を受けたのは、渡辺善太という先生です。旧約学者で女子神学校の校長をし、大変優れた説教者です。

女子神学校は田園調布にありまして、私は旧制中学生から第一高校学校の生徒になる頃、先生の所に時々行きました。電話もない時代ですから、いきなり行くのです。しばらく待たなければいけないことがあります。ちょっと広い座敷で、大きなテーブルがありましてそこへ先生がいつ入ってくるか分からないので正座して待ちます。

先生ががらっと入ってくる。たいてい和服です。そして座って『今日は何かね』と言われます。いつも問いを持ってくるからです。『聖書の読み方がどうも心もとないのです。』そういう趣旨のことを申します。

『“聖言うちひらくれば光を放ちて、愚かなるものをさとからしむ” “聖言うちひらくれば光を放ちて、愚かなるものをさとからしむ“* 詩篇第119編130節。分かったかね』

そう言われてて『分かりません』と返事できません。本当にパッとひらめくものなんです。

『はい。』『それじゃ帰りたまえ。』

忘れられない経験です。こちらから扉を開くのではなくて、わからないなあ、と思っているときに、向こうから光が射してくる。そして、愚かなわたしに光を与えてくれます。」

*文語訳

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