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信仰とは「信じて仰ぐこと」

最初のイースターの朝の出来事をマルコは次のように記している。

「安息日が終わるとマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」(マルコ福音書16:1-4)

主のお体に香油を塗るために墓に急いでいた女性たちは、「せっかく行っても、だれがあの大きな石を入り口から転がしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ユダヤでは岩を掘って作った洞穴が墓地であり、その入り口は大きな石で塞ぐのが風習であった。(マルコ福音書15:46参照)

人生の取り越し苦労は昔も今も変わらない。心配が種になってまた別の心配が生まれてくる。ところがうつ向きがちのこの女性たちが、目をあげて見たとき状況は一変した。石はすでに取り除けてあったのである。この予期しない驚くべき出来事は、主イエスの復活の勝利に相応しく、今日私どもに心に響くメッセージを語ってはいないだろうか。

英語の“FAITH”を「信仰」と訳されて使用されてきたが、なかなか穿った訳ではないか。聖書の中には信仰の行為を促す表現としてしばしば「目を上げる」ことが記されている。信仰の父であるあのアブラハムは、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」と神様から諭され、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」これはアブラハムの生涯の転機となった出来事であった。(創世記15:5)

私どもは肉眼だけでなく、澄んだ心の目、信仰の目で物事を、世の中を見ているだろうか。使徒パウロは手紙の中でこのように祈っている。「心の目を開いてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、…栄光が世々限りなくありますように。」(エフェソ1:18-19、 3:20-21)

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