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私の贖い主〜ヨブ記通観(2)

ヨブ記のほとんどの部分は、詩文体で書かれていて、ヨブとその友人たちとの論戦がその内容である。ヨブの災難を聞いて、エリファズ、ビルダド、ツォファルの三人がヨブを慰めようと来訪したのだが、慰めるどころか、かえって彼を立腹させてしまう結果になる。

人間による説得の限界
三人の友人がそれぞれヨブを説得しようとしている論点は、ほとんど同じである。「人間が苦しむのは、罪の結果であって、ヨブも例外ではない。夜の幻/ 霊の啓示/ 昔の人々の言い伝え/ 世の中の経験が そのことを物語っている。」‥‥というのが、彼らの主張点であった。

このような因果応報の考え方は、昔も今も変わらない。ヨハネ福音書9:1-2を見ると、弟子たちは主イエスに、生まれたときから目の見えない人について、こんな質問をしている。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 日本人であれば、前世の因縁がどうのこうのと言うところであろう。ヨブはこのような友人を「偽うの薬を塗る役に立たない医者だ」と呼び、これ以上、論争することを断念し、決死の覚悟をもって神に迫っていく。

仲保者を求めて
「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう」(13:15)。ヨブはこのように、神と自分との間にある無限の深淵を橋渡しする「仲立ち」、ヨブの側に立って彼の無罪を立証し、弁護してくださる方を求め始める。「調停してくれる者、仲裁する者」「天にある私の証人」、「私のために執り成す方、私の友」(16:19,20)「あなた自ら保証人になってください。」(17:3)

「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。」(19:25-27)‥‥

これはヨブ記の最高峰ともいうべき言葉であり、ヨブの生きた信仰告白である。特に注目してほしいのは、「このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目でみる」と言っている点である。信仰には他者の代理はゆるされない。ヨブは仲間はずれにされたことが反って益となり、「わたしを贖う方」に霊の目が開かれ、救い主を仰ぎ見る事が出来た。

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