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生命が死に勝利した日

「春」という言葉は、「張る」から出ていて、生命がみなぎるさまを表したものだと、ある人が言っている。 生命ほど不思議なものはない。冬の期間秘められた姿で存在しているが、春の到来と共に新芽となり、つぼみとなり、花となって自らを表す。

ヨブはその昔、こうした造化の神秘をつらつら見て一つの大きな質問を提示した。

「木には希望がある、というように木は切られても、また新芽を吹き、若枝の絶えることはない。 地におろしたその根が老い、幹が朽ちて、塵に返ろうとも水気にあえば、また芽を吹き、苗木のように枝を張る。だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。」(ヨブ記14:7-10)

ギリシャ人は霊魂不滅、インド人は輪廻転生をもってこの質問に応えたが、心に真の慰めを与えるものではなかった。死後の世界についてああだろう、こうだろうという希望的観測ではなく、死の彼方から事実帰ってきた人の報告を待ってはじめて確実なものとなる。だが悲しいかな、死は永遠の牢獄で一度入ったら最後、だれ一人出てきた人はいない。

日本ではあれほど十字架のネックレスが一般化し、クリスマスはあれほど大衆化し、バレンタインも定着しつつある一方、イースターを知っている人は多くない。イエス・キリストのご生誕を祝うクリスマスは常識として理解しやすい。しかし、死者の復活という出来事は、信じられない、「あり得ない!」ことだけに、人々にすんなりと受け入れられない理由があると思う。

しかし、イースターは、ヨブ記以来の、古くして新しい質問に、神自らが回答を与えてくださった日である。神は十字架にかかって死に、墓に葬られたイエス・キリストをよみがえらせて、私たちに永遠の生命の保証を与えてくださったのである。ここにこそ唯一の救いの確証があり、永遠への希望がある。

星野富弘さんの花の詩画集の中にこんな詩があった。

「いつかこの肉体の土になるように、土が花になるだろうか。」

今年もイースターをお祝いするに当たって声高らかに神の勝利を歌おう!

「キリスト・イエスは、ハレルヤ  よみがえられた ハレルヤ

勝利を歌い、ハレルヤ  み名をたたえよう ハレルヤ」(讃美歌21-325)

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