USA Diary

July, 2017

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7月1日(土)40年も使ったアナログ腕時計がとうとう動かなくなったので、かわりの時計を買いました。今までのものと似たものですが、軽いチタン製のケースとベルトで、硬度が高く傷がつきにくいサファイアガラスがついたものにしました。ニューヨークのお店で買ったのですが、ロサンゼルスから送られてきました。私の細い腕には、バンドが長すぎるので、調整してもらいに近くのジュエリーショップで行ったのですが、July 4th まで閉店とのことでした。けれども、娘を迎えにいく途中で小さなショップを見つけたので、そこで調整してもらうことができました。この腕時計、いちおう SEIKO の刻印はありますが、日本製ではなく、マニュアルや保証書などもないので、以前の時計のように長持ちするかどうか分かりません。でも、私にしてみれば、踏ん張って買ったものなので、できれば長く使いたいと思っています。 「アナログの 時刻む音 楽しくて」
7月2日(日)礼拝とその後の集まりを終えて家に帰りました。帰ってからいつものように礼拝メッセージのアップロード作業をしたのですが、気候のいいときなら、散歩に行く時間に、昼寝をしてしまいました。どこかに疲れがたまっていたのでしょう。睡眠不足かもしれません。いわゆる「寝溜め」というのはできないそうですが、昼寝で不足は補えるそうです。昼寝から起きたときは、少しだるかったのですが、徐々に調子が戻ってきました。「年寄りに 睡眠要らぬ それは嘘」
7月3日(月)きょうは少し足を伸ばしてキャロルトンの紀伊国屋とダイソーに行きました。ここの紀伊国屋はプレーノのミツワの中にある紀伊国屋よりも大きいのですが、プレーの店と同様、本よりも文房具のほうがたくさんありました。でも、日本的なものがあまりなかったので、何も買わずに出てきました。ダイソーも、以前あった品物がなく、買いたいと思っていたmのを見つけられませんでした。「探しても 日本の店に 日本無く」
7月4日(火)紀伊国屋ができても、本は、ロサンゼルスの書店から買ったほうが安いようです。アマゾンのキンドル版でも、日本語の本が買えるようになりました。私が持っているキンドル端末では、縦書きの日本語の本を読むことができませんので、新しい端末を買おうかと思っていますが、9月ごろに新しいモデルが出るかもしれないので、それを待っています。「便利でも 本を読まない 人が増え」
7月5日(水)日本語牧師たちの祈り会をしました。前回の合同礼拝について、他の先生がたは、とても積極的で毎年恒例のものとし、日本人クリスチャンのまじわりを積み上げていきたいとの意見を持っておられました。次回9月は、ゲストをお招きしての集まりにすることになりました。「なつかしい 師と会うその日 楽しみに」
7月6日(木)雨が降り草が伸びたので、夕方、すこしだけ草刈りをしました。今週は、短時間だけですが、雨続きとなりました。July 4th には例年だと花火の音がうるさいのですが、天気のせいもあってか、今年は静かでした。「この年も 七月四日 家にいて」
7月7日(金)晴れなのに、突然「ドカーン」と近くに雷が落ちました。「晴天の霹靂」とはこのようなことを言うのでしょうね。「天は人 予告もせずに 驚かす」
7月8日(土)午後からまた雷雨になりました。水をやらなくて済むのでありがたいのですが、草がどんどん伸びます。きのこが生えては枯れていきます。「数日で 泡と消えゆく 雨後きのこ」
7月9日(日)きょうの礼拝の聖書の箇所は、ペテロ第一3:18-22でした。この箇所は、「人は死後も悔い改める機会を与えられる」という、いわゆる「セカンド・チャンス論」を説く人々が、その根拠にしている箇所ですので、注意深く話すようにしました。この箇所は、死後の悔い改めの機会について何も語ってはいない、むしろ、神の招きがあるうちに、悔い改めなければならないということを教えていると、私は思っています。それで、ここから、「きょうという日に」という題で、神の招きに答えるようにとのメッセージを語りました。「待つ神に きょうという日が 帰る時」
7月10日(月)きょうのムービー・アワーにはターゲットで見つけたビデオ「Hacksaw Ridge」を観ました。セブスンスデー・アドベンティストの主人公デスモンド・ドスが、軍隊に入るのですが、銃をとらないという信念を貫き通しました。そのためいじめにあったり、軍の裁判にかけられたりするのですが、メディックとして戦闘員と行動を共にすることを許されます。彼の部隊が沖縄で、断崖に潜んでいる日本兵と戦うのですが、ひとりで、負傷したアメリカ兵を何人も断崖からおろして救っていきます。これは実話をもとにした映画で、映画の最後にドス氏と彼に救われた人たちが登場します。戦争という悲惨な出来事の中にも人々の勇気を見ることができた、良い映画だと思いました。「戦場に 咲く花あれば 散る花も」
7月11日(火)今週は、快晴の日が続き、気温も上がるようですが、それでも、まだ100度にはなることはありません。去年より過ごしやすく、建物の中は、冷房がよく効いて寒いくらいです。私は、夏でもずっと長袖、長ズボンで過ごしています。「四季問わず いつも着ている 同じ服」
7月12日(水)少ない人数ですが、祈り会を守っています。確かに、わたしたちは、いつでも、どこででも祈ることができるのですが、そのためにかえって祈らないということが起こります。人は、それほど信仰的ではないのです。時を定めて祈り、ひとつ所で共に祈るということは、現代、とても大切なように思います。「祭壇を 仰いで祈った かつての日」
7月13日(木)日本のお役所と連絡をとっているのですが、きょう電話をもらい、丁寧に対応してもらいました。私たちがアメリカに来る前の最後の住所が地方の町でした。そこにある事務所からで、職員の方も親切でした。これが、東京などの大きな町だったら、扱っている件数も多く、丁寧な対応をしてもらえなかったかと思います。「アメリカに 何度も電話 ありがとう」
7月14日(金)安倍首相の支持率がどんどん下がっています。元防衛相の中谷元氏が7月3日の講演で「あせらず、いばらず、うかれず、おごらず」と、「あいうえお」で首相に苦言を呈しました。また7月7日には、次のことに耳を傾けるようにと、「かきくけこ」でまとめています。「家内の言うこと、厳しい意見、苦情、見解を異にする人、こんな人」。最後の「こんな人」というのは、首相が都知事選の応援演説をしたときに「帰れ、帰れ」と言った人々を「こんな人」と呼んで敵視したことを指しています。かつての政治家には、反対者と車座になり一晩中話し合った人たちもいましたが、今は、そういう人が少なくなりました。「政治家の 質が問われる この時代」
7月15日(土)土曜日にいつも通るフリーウェーの工事もかなり出来上がり、臨時の出口ができて、通りやすくなりました。増える交通量に対していくら道を広げても追いつかないようですが、このフリーウェーも、もう少し北のほうまでいけば、随分空いています。このことからもダラスとその近郊が急に肥大化したことがよく分かります。「来て見れば ここがテキサス 田舎町」
7月16日(日)きょうは「霊の戦い」について話しました。クリスチャンの敵には、「サタン」、「罪」、「肉」、「世」があります。「サタン」や「罪」については誰でもわかるのですが、「肉」や「世」については、クリスチャン自身が「肉」を理解していなかたり、教会があまりにも「世」に追従したりしていて、それが敵であると分かっていないことがあります。「霊の戦い」にかぎらず、「霊」のことを語るとき、それが本当に伝わっているのだろうかと不安になることがあります。「預言者の 霊をたまえや この口に」
7月17日(月)家内が医者のアポイントメントがあったので、一緒に行きました。キンドル・タブレットを持っていって、待ち時間に「銭形平次」を読みました。青空文庫に300話以上あるのをダウンロードし、キンドルで読むことができるように変換したものです。私の古いキンドルでは横書きでしか読めませんが、ファイルは新しいキンドルでは縦書きで表示されるようにしてあります。「銭形平次」には「ゆるし」があるので、気に入っています。「江戸の町 ここに現わる 遠き地に」
7月18日(火)日曜日に教会の庭を歩きまわったので、足を虫にかまれ、水ぶくれのようになりました。ちゃんと草を刈ってあるところだったのですが、虫が潜んでいたのです。テキサスでは、かつて、誰もがブーツを履きましたが、なぜブーツが必要なのかが良くわかりました。「開拓者 踏みしめた地を 我もまた」
7月19日(水)祈り会で詩篇119篇を読み、黙想してきましたが、きょうで最後の8節を終えました。詩篇119篇は長く、同じ主題が繰り返されるので、敬遠されがちですが、改めて全篇を読んでみて、御言葉に対する思いを新たにすることができました。
7月20日(木)この日曜日は聖霊の賜物と奉仕について語ります。「聖霊の実」や「聖霊の賜物」なとといった「霊的」なことを分かってもらおうとすると、とても骨がおれます。コリント第一2:14に「生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない」とあるとおりです。霊的なことに敵対しようとする力があることを胆に銘じて、それにひるまないようにしたいと思います。「週ごとに 取り組む言葉 霊により」
7月21日(金)今度の礼拝で「聖書の言葉は聖書で使われれいる通りに理解し、使わないと真理を見落としてしまいます」と話しますが、「真理を歪めてしまいます」と言ったほうが良いかもしないと思っています。「天国」、「愛」、「喜び」などといった言葉は、聖書と世の中では別の意味で使われています。クリスチャンがそうした言葉を世の中で使われている仕方で教会でも使うなら、聖書の理解が変ってしまい、真理が歪められます。こういうことを言うと、信仰というものは自然的に生まれるもので、聖書や教会が定めるものではないという考えを持っている人たちからは嫌われるかもしれません。しかし、世の中で通用するような、漠然とした「信仰」に歩みよることは、ほんものの「信仰」を失うことことになると思います。「従うな 知性・感情 この世には」
7月22日(土)このダイアリーが更新されていないので、私が具合を悪くしたのではないかと心配してメールをくださった方がありました。確かに今週は、先週から腰を痛めていたこと、日曜日に教会の庭を片付けのため歩きまわったら、ひどく虫にかまれたことなどが重なって体調が悪かったということもありました。でも、ダイアリーの更新は、たんに後回しになっていただけのことです。「ダイアリー “元気ですよ”と アップロード」
7月23日(日)きょうの礼拝メッセージの原稿から、短いパラグラフですが、抜けているのに説教中気付きました。そのまま次の段落に進むとつながらないので、なんとか補って話すことができました。そのために、かえってその部分を短くまとめることができました。失敗が益となりましたが、こういう失敗をくりかえさないよう注意したいと思います。「どれだけの 失敗カバー み恵みで」
7月24日(月)インターネットの「青空文庫」は著作権の切れた作品をデータ化して公開しています。ここからデータをダウンロードし、コンピュータで Kindle で読むことができるファイルを作っています。「青空文庫」は Free ですが、この Free というのは「無料」ということだけでなく、データを「自由」に使うことができるということでもあり、おそらく、後者のほうが大切かと思います。私がコンピュータで Linux を使っているのは、そこには、こうした「自由」があるからです。「フリーダム ネットが目指す 世界観」
7月25日(火)草刈りをきのうときょうの二回に分けてやりました。草刈りのあとは、エッジャーを使って、はみ出た草をカットしないときれいになりません。私はトリマーをエッジャーとして使っているのですが、トリマーのコードがからんで、いつもそれで手こずっています。いよいよコードがなくなったので、きょうは早めに切り上げました。「庭師度と 道具だかけなら あるのだが」
7月26日(水)祈り会に行くとき、大きな事故があって道が塞がっていたので、回り道をしました。事故といえば、先週土曜日、我が家の横に立っているストップサインに車がぶつかり、それを真っ平らにまげてしまいました。ドライバーが近所の人に助けられて、市役所に連絡をとったようで、土曜日にもかかわらず、一時間ほどして、市の車がきて支柱をつけかえていきましたが、サインそのものは、そのまま使っていました。ちょっとだけ傷がついていました。ところで、標識をぶつけた人は市にいくら払ったのでしょうね。「住宅地 事故が無いよう 祈ってる」
7月27日(木)7月18日、日野原重明医師が亡くなりました。たくさんの著書を遺しておられますが、『死をどう生きたか:私の心に残る人びと』はとても良かったように思います。日野原医師は「長生きするほど、死ぬ時に苦痛が少なくなる」とその著書に書いていましたが、そのことをご自分で体験されたのだろうと思います。「あと何年 みこころのまま 生かされて」
7月28日(金)7月21日には、平尾昌晃が肺がんで亡くなりました。日野原医師が名誉院長をつとめていた聖路加国際病院に入院していたようです。平尾さんの歌はどれも自然なメロディで歌いやすいと思います。クラシック音楽のほうが、歌謡曲より「高級」などという迷信がありますが、私は、歌詞もメロディーもわかりやすく、誰もが歌えるポピュラー・ソングが、自分で口ずさむこともできないような歌曲の劣っているとは決して思いません。それはジャンルの違いだけであって、より多くの人に歌われた歌のほうが、価値があるように思います。音楽は、コンサートホールでよりも、日常の生活の中でこそ、聞かれ、歌われるべきものと思っています。「人々に 歌われてこそ 名曲だ」
7月29日(土)いつも土曜日はリチャードソンハイツ教会の近くを通ります。近くにさしかかったとき、ちょうどヘリコプターが教会の駐車場に降りてきました。何のことだろうと思って見ると、どうやら結婚式があったようで、だれかが地上の渋滞を避けてヘリコプターでやってきたようです。花嫁か花婿かもしれません。世の終わりには花婿であるキリストが天から来られます。そんなことを思いながら成り行きを見ていましたが、信号がグリーンになったので、教会を背にして進みました。「花婿を 目覚めて待てよ 主の聖徒」
7月30日(日)教会に「ドクロ」のマークが入ったシャツを着ていた若者がいたので、「メメント・モリ(汝死すべきことを覚えよ)だね」といって話しました。彼はその言葉を知っていたので、こういう会話がなりたったのですが、ファッションに触れる話はなかなか微妙です。でも、その「ドクロ」マークはとてもシンプルで、不気味なものでなかったのは良かったと思います。「死を覚え 日々を生きよと 聖書(みふみ)言う」
7月31日(月)いつもの店に買い物に言ったら、赤ちゃんをカートに載せた父親のあとを、男の子、女の子、男の子の順でこどもたちが続いていました。よく躾けられていて、勝手に店の中を歩きまわったりしないで、女の子を真ん中にして守りながら、ちゃんと父親のあとをついていっていました。とてもほほえましい光景でした。「この国に 親の権威は まだ残る」
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