USA Diary

December, 2017

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12月1日(金)きょうの夕方、わが家のガスメータが車にぶつけられました。夕方、作業車が裏道に入って、何かの工事をしていました。そこに別の車が入ったものの、前に進むことができなくなり、バックして出ようとしたとき、ガスメータにぶつかったのかもしれません。さいわいなことにそこで作業をしていた人がガスの元栓を閉めてくれました。ガス会社に知らせたら、すぐに修理に来てくれました。メータが車にぶつかりやすいところにあるので、何か対策をしなければと考えています。「壊れたり 壊されたりの この一年」
12月2日(土)日本人会のバザーがあり、私たちの教会も、もうひとつの教会も、お弁当やデザートを販売しましたが、今年はお客さんが少なく、それぞれ売れ残ってしまいました。家内は別の教会から「おはぎ」を買ってきましたが、そのパッケージにはちゃんと聖句のラベルが貼ってありました。さすがと思いました。「伝道の 姿勢鮮やか バザーでも」
12月3日(日)きょうは「希望のキャンドル」に灯をともして、アドベント第一の礼拝を守りました。礼拝では、アーモーさんから O Come, O Come, Immanuel について「讃美歌物語」を話してもらいました。時間の関係で日本語への通訳はしませんでした。いつもは、英語を話す人たちには、通訳を通してメッセージを聞いてもらっていますが、このように通訳を介さないで直接メッセージを聞いてもらう時が必要だと思っています。次回の「讃美歌物語」も楽しみにしています。「讃美歌を 心で歌う 幸いよ」
12月4日(月)このごろ、「賛美」について考えさせられることが多くあります。「賛美」は本来祈りであり、証しであり、またメッセージです。ですから、賛美を歌うことができるのは、信仰を持つ人であるはずです。たんに「音楽」ができるからといって、「賛美」を歌えるわけではありません。信仰を持たない人が歌う歌は、どんなに音楽的に優れていたとしても、人の霊にまでは届かないと思います。「信仰が 歌う賛美を 聴きたいな」
12月5日(火)人前で賛美を歌う人には信仰が求められます。キリスト者であることは当然ですが、賛美の言葉の意味を理解し、そこで歌われている言葉にまで自分の信仰を高めていく努力が必要です。音符にばかり拘泥しないで、もっと、言葉に心を向けてほしいと思います。歌詞のもとになる聖書をよく学んでほしいと思います。音楽をやる人は練習に多くの時間を使い、そのため、聖書の学びがおろそかになることがあります。「音楽チームの人たちは練習があるからといって、自分たちが食べた昼食の後片けさえしない」という不満をある教会で聞いたことがあります。教会では音楽が王様になってはいけないし、音楽をやる人が特権階級になってはいけないのです。「どの人も 皆しもべなり 主のもとで」
12月6日(水)きょうの祈り会での詩篇は137篇でした。そこに「われらを苦しめる者が楽しみにしようと、“我らにシオンの歌を一つうたえ”と言った。われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか」とあります。詩人は「主の歌」、主の御名をたたえる歌は、「楽しみ」のために歌われるものではないと言っています。それであるのに、今日、「主の歌」が「芸術」の名のもとに、ただ楽しみのためだけに歌われていることでしょうか。これもまた、「主の名をみだりに唱えてはならない」との戒めに反するものではないかと思います。「讃美歌」は「聖歌」です。聖なるものが俗なるものに踏みつけにされるのは、詩篇137篇の作者でなくても、心ある信仰者には耐えられないことなのです。「この時代 響け御堂に 聖き歌」
12月7日(木)きょう、国旗が半旗になっていたので、どうしてだろうと思いましたが、「パールハーバーの日」だったことに気付きました。太平洋戦争を肯定する意見が聞かれる昨今ですが、あの戦争はなぜ起こったのか、日本もアメリカも、それを回避する手段はなかったのかを検証してみる必要があります。戦争に勝者も敗者もありません。あるのは、父や夫、息子を失った子どもたち、妻たち、また、親たちの嘆きだけです。来週は「平和のキャンドル」に灯をともしますが、真の平和を心から願います。「神の子ら 平和求めて 祈る朝」
12月8日(金)日本へのクリスマスカードを出し終え、国内向けを準備しています。今年、クリスマスカードを出すのが遅れましたが、クリスマスカードをいただくのも遅く、まだ二、三通しか届いていません。おいおい届くことと思います。「われらの主 共に崇める クリスマス」
12月9日(土)私たちは、ふだんは、土曜日には買い物に出かけることはないのですが、きょうは、その近くまで行くからというので、夕方、家内といっしょに手芸店に入りました。布を切ってもらうための順番待ちに一時間近くかかり、予定が狂ってしまいました。それでも、夜休むまでは明日の礼拝の準備を終えることができました。この時期、この時間には買い物に行く店にはいくものではないことがよく分かりました。「待つことを 学んだ師走 手芸店」
12月10日(日)水曜日と木曜日はとても寒かったのですが、金曜日にはすこし暖かくなって、きょうは、12月とは思えないような陽気でした。しかし、アドベントの礼拝だというのに、出席者はわずかでした。自分の教会を終えてから、午後、教会を訪ねてくれた人にそのことを話したら、「ぼくの教会でも同じだよ」と言っていました。「アドベント 守る人々 少なくて」
12月11日(月)積りにつもった落ち葉をやっと片付けることができました。30ガロンの紙袋に詰め込んで8袋にもなりました。あまり落ち葉をためておくと、まるで空き家のようになってしまいます。木にはまだまだ葉がいっぱいありますので、来週もまた雨樋の掃除と落ち葉集めが必要だと思います。「顔出した 芝生光を 喜んで」
12月12日(火)自分の町や近隣の町、また各教会でさまざまなクリスマスの催しがあるので、行きたいと思いながら、時間がとれなかったり、体調がすぐれなかったりで、今年はどこへもいけそうにありません。せめて12月25日のクリスマスには近くの教会で礼拝を守りたいと思っています。「降誕日 礼拝こそが ふさわしい」
12月13日(水)この土曜日に、有志がクリスマスの降誕劇をミュージカル仕立てでやります。「みんなに楽しんでもらう」というのですが、そこに感動する場面がないのが残念です。降誕は奇蹟であり、神秘です。その奇蹟に出会った羊飼いの驚き、神秘を見ぬいた東方の賢者、シメン、アンナたちの感動をあらわすものであってほしいと思っています。教会の礼拝をはじめ、どの集会でも、そこに「聖なる感動」がなければ、世の中のもの以下になってしまうと思っています。「クリスマス 神秘に出会う 感動を」
12月14日(木)午前中今年最後のバイブルスタデーの集まりを持ちました。この時節は出席できない人もあって少人数でしたが、来年は、いままで休んでいた人も戻ってきて、新しい人も加えられるようにと願っています。「御言葉を 学ぶサークル 広がれと」
12月15日(金)クリスマスもまだ来ないのですが、来年のレントの黙想の準備をしました。各週の執筆者もきまりました。来年はイースターが4月1日と早いので、1月中には初稿をいただけるようにと、執筆者にお願いしています。「クリスマス 苦難への道 第一歩」
12月16日(土)待望の雨が降りました。教会での夜の集会は雨でも、ちょうどよいくらいの人数で行うことができました。プログラムの終了が遅くなったことにくわえ、はじまる前に食事があったのに、終わってからもデザートなどが出たため、後片付けをして帰るとずいぶん遅くなってしまいました。私はいつも「早く帰りましょう」と叫んでいます。「明日のため 今日を過ごそう どの日にも」
12月17日(日)教会のあとケアホームを訪問してから帰りました。私たちの前に、アコーディオンの演奏者が両手両足と口も使って入居者のためにミュージックを届けていました。「両足」というのは、両方の靴に、小さなタンバリンをつけてそれでリズムをとっていたからです。私はアコーディオンはできませんが、からだのあちらこちらに打楽器をつけ、からだを動かして演奏したらおもしろいだろうなと思いました。「慰めを 届ける人は 美しい」
12月18日(月)家内が具合悪くなりましたが、プライマリー・ドクターと連絡がつかなかったので、アージェント・ケアに行きました。先着順で診てもらうウォークイン・クリニックなので、かなり待たされるかと思ったのですが、思ったより早く終わりました。薬の処方箋はクリニックから薬局へ送られるのですが、クリニックの受付の人が別の薬局に送ってしまったため、いつもの薬局に行っても薬がもらえませんでした。クリニックに電話してもういちど処方箋を送ってもらい、やっと薬をもらいました。家内の具合は時間がたつにつれて良くなってきました。「どこにでも 医者がいる町 ありがたい」
12月19日(火)今日は洪水注意報が出るほどの雨が朝早くから夕方まで降りました。それできょうは一日家にいて、教材の準備などをしました。今週はまた雨になりそうなので、晴れ間を見て、雨樋の落ち葉を掃除しなければなりません。「雨降りが 怠けていた分 頑張った」
12月20日(水)今年のアドベントの黙想はアーモーさんが書いたものを私がダイジェスト版にして作りました。来年はどうしようかと考えていましたら、探していたナウェン先生のものが出てきましたので、これを翻訳しようと計画しています。英語・日本語対照にしたいと思いますが、版権所有者からの許可がもらえるかどうかが心配です。「来年の アドベントへと 心飛ぶ」
12月21日(木)きょうの家庭集会で「クリスマスはキリストの誕生日ではない」と話したら、案外、反響がありました。そう思っていた人が多かったようです。クリスマスに「Happy Birthday, Jesus」などと歌われるのを聞くと、私はいい気持ちをしません。クリスマスは主イエスのバースディ・パーティではないからです。それは「誕生」ということ以上のもの「降誕」という言葉でしか表わせないような大きな奇蹟だからです。「クリスマス そのままにして 祝いたい」
12月22日(金)きのうは、汗をかくほどの暖かい日でしたが、きょうはまた気温が下がり、雨となりました。忙しい日が続いたのと、気温の変化のせいでしょうか、風邪をひいたようで、身体がだるく、喉も痛みます。娘も風邪で、ふたりして具合悪くしています。家内はかなり良くなりました。三人とも同時にダウンしなかったのは神様のあわれみです。「家族では 誰かひとりが 他を支え」
12月23日(土)ふだんは昼寝をしないのですが、風邪で調子が悪く、起きていられなくなったので、少し休みました。その後、なんとか明日のための準備ができました。今まで病気になったり、手術を受けたりしても日曜日の奉仕を休んだことはありませんでしたので、明日も大丈夫でしょう。「日曜日 休むことなく 半世紀」
12月25日(月)近くの教会のクリスマス礼拝に出るつもりだったのですが、風邪のため見送りました。かわりにテレビの礼拝番組でクリスマス礼拝に与りました。「テレビとて 礼拝の美を 垣間見る」
12月26日(火)クリスマスはクリスチャンでなくても祝い、クリスマスの賛美は信仰を持たない人にも歌われます。そうしたことは、伝道のためにはいいことだと考える人もあれば、クリスマスの意味が誤解され、賛美が汚されていると感じる人もあります。私は、このごろ、後者に近い思いを持つようになりました。キリストを神の御子、王の王と信じることもなく、その御前に跪くことを拒否している人によって、聖なる歌が歌われるのは、うれしいことではありません。クリスマスの主への賛美は信仰によって歌ってほしいと思います。「キリストを あがめて歌え その歌を」
12月27日(水)サンディエゴ時代の、思ってもいなかった方から、メールをいただきました。東海岸にいらっしゃるようです。すぐにご本人とお子さんの顔を思いだしましたが、あの小さかったお子さんがもう大学生と聞いて、年月が経つ早さを実感しています。「旧友の 名を聞き浮かぶ 若い顔」
12月28日(木)きょうは家内が歯科でちょっとした手術を受けました。保険の関係で年内にしておいたほうがいいよということでしました。よく歯科医で高額な治療費を請求されたというこを聞くのですが、家内の歯科医はその点、とても良心的で、患者の経済的負担も考えてくれるので、ありがたく思っています。「年末に 医者に通うは つらいもの」
12月29日(金)気温がどんどん下がってきました。からだの調子が悪いので、寒いだけで疲れてしまいます。午後、起きていられなくなり、少し休みました。休んだあとは、仕事に戻ることができまいたが、やはり、疲れます。ここ一週間ほど良い状態ではありません。「悪い風邪 年寄り狙い 居着いてる」
12月30日(土)リビングルームの LED 電球がときどきチラチラするので、以前、調光器を取りかえたのですが、それでも直らなかったので、きょう、新しい LED 電球ととりかえたら、大丈夫になりました。LED の発光部分は、論理的には長持ちするはずなのですが、電子回路のほうが駄目になってしまい、パッケージに書いてあるようには長くはもちません。わが家ではすでにいくつもの LED 電球が駄目になり、「損したなぁ」と気分になったことがあります。電球型の蛍光ランプも、発売されたばかりのころは不良品が多かったのを思い出しています。LED 電球は、ほんの半年ほどで随分改良され、値段も安くなりましたので、白熱電球や蛍光電球が切れたところは LED 電球と取り替えるようにしています。「新技術 飛びついて買い 損をする」
12月31日(日)礼拝がはじまるまではなんとか声が出たのですが、賛美を歌っているころからおかしくなり、説教のときはほとんど声が出なくなっていました。マイクロフォンに口を近づけて話し、なんとか礼拝を終えました。ウェブページにアップロードするための録音は大丈夫だろうと心配でしたが、なんとか聞いてもらえる状態でしたので、そのままアップロードしました。このところ喉の調子がよくないので、聞き苦しい音声ファイルをアップロードしており、申し訳なく思っています。「嗄れの 今年最後の メッセージ」
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