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信徒と牧師の教会論

第4回 聖霊の宮

秋山 前回は、教会がキリストのからだであるということを学びました。今日は、教会が聖霊の宮であるということを学ぶことにします。

加納 教会が聖霊の宮であるというのは、聖書のどこに書かれているのですか。

保坂 それはコリント第一6:19にありますよ。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、…」と書いてあります。

加納 しかし、保坂さん、それって、私たちのからだのことで、教会のことじゃないのではありませんか。個人個人のクリスチャンに聖霊が宿っておられるということを言っているのではないのですか。

保坂 でも、教会というのは、クリスチャンの集まりのことでしょう。だから、クリスチャンのうちに聖霊が宿っておられるというのは、教会が聖霊の宮ということじゃないのですか。先生、どうなんでしょう。

牧師 コリント第一6:19の「あなたがたの」は複数形ですが、「からだ」も「宮」も単数形です。これは、個々のクリスチャンのうちに聖霊がいてくださるということともに、多くのクリスチャンから成り立つキリストのからだ、神の宮である教会のうちにも聖霊がいてくださるということを教えています。コリント第二6:16にも「私たちは生ける神の宮なのです。」と書かれています。

秋山 コリント第一10:17に「私たちは、多数であっても、一つのからだです。」とあるのと同じですね。

加納 なるほどね。しかし、日本語ではどれが単数形で、どれが複数形だというのはよく分かりませんが…。

保坂 だから、英語の聖書も読むとよいのよ。英語だったら、単数形、複数形というのはすぐ分かりますから。

加納 私は、学生時代から英語は苦手で、職場でも苦労しましたよ。やっぱり聖書は日本語がいいので、日本語でも、単数や複数が分かるような工夫があるといいのですが…。

牧師 確かに、聖書は、いろんな訳を対照して読むと良いのですが、もし、それができなくても、説教をよく聞き、教会の聖書の学びに出ていれば、だんだん分かるようになってきます。秋山さんがコリント第一10:17を引き、私が、コリント第二6:16を引いたように、聖書のある箇所は、他の箇所によって理解するように努めるといいのです。聖書全体をよく読み、どの箇所も聖書全体の文脈の中で読めば、間違えることはありません。これが、「聖書は聖書で解釈する。」という原則です。

秋山 それで、先生、教会が聖霊の宮であるというのには、どんな意味があるのでしょうか。

牧師 コリント第一6:19の「宮」という言葉は神殿の「聖所」をさしています。モーセの時代に作られた幕屋にはテントで区切られた庭があり、その庭の中に祭壇があり、そして「聖所」がありました。聖所に一般の人々は祭壇にまで近づくをことを許されましたが、聖所には祭司だけしか入ることが許されませんでした。聖所の中でもケルビムを織り込んだ垂れ幕によって区切られた奥まった部分は「至聖所」と呼ばれ、大祭司が一年に一度しか入ることを許されませんでした。そこは神の臨在の場所なのです。

保坂 英語で「聖所」は "Holy"、「至聖所」は "Holy Holy" と言いますね。

牧師 旧約聖書で使われているへブル語には比較級というものがありませんから、「より聖い」という場合には "Holy" を二つ重ねるわけです。

加納 なるほど、そうだったのですか。では、イザヤ書に「聖なる、聖なる、聖なる」とあるのはどうなんですか。

牧師 「聖」が三つ重ねられていますから、これは最上級で「最も聖なるもの」という意味になります。神ご自身より聖なるものはありませんから、これは最も聖なるお方である神を賛美することばなのです。

保坂 加納さん、すごいところに気がつきましたね。

加納 いやぁ、礼拝では「聖なる、聖なる、聖なるかな」という賛美歌をよく歌うので思い出しただけですよ。

秋山 すると、教会が神の「聖所」あるいは、「至聖所」だというのは、教会は旧約時代の神殿に相当するもので、私たちクリスチャンは、旧約の人々には許されていなかった神の臨在に近づくことを許されているということなのですね。

牧師 そうですね。神の宮に属するクリスチャンは神の臨在に近づくというよりは、すでに神の臨在の中にいると言ってもよいでしょう。

保坂 異邦人や女性は神殿の庭にも入れませんでしたから、神が教会を聖所にしてくださっているというのはすごいことですね。

牧師 コリント第二6:16は「私たちは生ける神の宮なのです。」と言ってから、「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と続けています。教会が神の宮であるというは、神が教会の中に住み、教会の中を歩んでくださっているということを表しています。私たちはすでに教会が「神の民」であることを学びましたが、教会が聖霊の宮であるというのは、教会が神の民であることの具体的な結果でもあるのです。

保坂 黙示録に教会が金の燭台として描かれており、主イエスが「七つの金の燭台の間を歩く方」(黙示録2:1)と言われているのは、「わたしは彼らの間に住み、また歩む。」と言われていることを描いているのですか。

牧師 そうだと思います。黙示録21:3-4に「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあるのは、完成された教会の姿を描いていると思われます。

保坂 世の終わりには、神の臨在が手に取るように体験できるのですね。なんて素晴らしいことでしょう!

加納 保坂さんは、ひとりで感激していますが、私には「臨在」とかなんとか言われることが、今ひとつピンと来なんですよ。

秋山 私も、そうです。女性はそういうことが直感的に分かるようですが、男性にはどうも苦手です。先生、「臨在」ということを少し説明していただけませんか。

牧師 神の臨在が分かるには、自分自身の存在ということから考えてみるのがよいと思います。神は、「わたしはあってある者」と仰って、ご自分が存在そのものだと言われました。神以外のすべてのものは神によって造られたものであって、神によって存在させられています。私たちは、両親がいて、両親から生まれてきました。両親に依存しています。生まれてきて最初にする仕事は、産声をあげて空気を吸い込み、外界から酸素を吸収することですが、地球上に空気がなければ人は生きることはできません。空気も、水も、他の植物や生物が必要です。人間はこの地球の環境に支えられて存在しています。

秋山 私たちは他のものにささえられて、やっと存在していられるのですね。神が「あってあるもの」なら、人間は「あってなきがごときもの」ですね。

牧師 その通りです。私たちの目に見える部分ばかりでなく、目に見えない部分、霊的な部分はもっと神によって支えられています。人間は「神のかたち」に造られましたが、この「神のかたち」というのは神の存在のことですから、私の存在は神の存在によって支えられていると言ってよいのです。人が、自分の存在をかけがえのないものだということが分かるなら、神の存在をどんなものよりも大切なものと思うはずです。そのようにして、神ご自身を求めていくとき、私たちは神の「臨在」に触れるのです。

秋山 先生がよく「doing よりも being」と言われるのは、人間にとって大切なものが、何かができる、何かをすること以上にその存在であるということばかりでなく、神のみわざよりも神の臨在そのものを求めるようにということなのですね。

保坂 だから、先生は、神の臨在を求め、その中に憩う「礼拝」が「活動」よりも大切だと言っておられるのですよ。

加納 なるほど。私は、学生時代には勉強して良い成績をとることを、就職してからは仕事で業績をあげることを求めてきました。退職して教会に来たのも、することがないので、教会なら何かをさせてもらえるだろうと思ったからです。教会はいつも「人手不足」でやることが一杯あり、そうしたことで結構自分なりに満足していたのですが、それだけでは駄目なのですね。昨年、病気をして何も出来なくなった時、ずいぶん落ち込んだものです。

保坂 何かをしてその結果によって自分を支えようとしていたら、いつかはそれができなくなる時が来ます。神は、私たちが、たとえ何もできなくても、私たちの存在を喜んでくださるのですから、私たちも自分の存在を喜び、神の臨在を求めるべきだと思います。

加納 そうですね。「存在を喜ぶ」ということが、この年になってようやくわかりかけてきました。神の臨在と言われても、まだつかみきれないでいますが、これから先生はじめ、皆さんに導いていただきたいと思っています。

牧師 秋山さんや加納さんにも少しは分かってもらって、うれしく思います。教会が神の宮、また聖霊の宮であるというのは、今話しているように、教会が神の臨在の中で神を礼拝するところであることを言っているのです。教会が「宮」、「神殿」であるなら、教会がなによりも礼拝の場であることはあきらかです。

保坂 ペテロ第一2:5に「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とあって、教会は神殿で、クリスチャンは祭司であり、私たちはそこで「霊のいけにえ」をささげて神を礼拝するとあります。

牧師 この箇所は、とても大切で多くのことを教えていますが、もう時間になりましたので、教会の礼拝を考えるときに、くわしく学びましょう。

秋山 その時を楽しみにしています。きょうは、先生、みなさん、ありがとうございました。

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