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信徒と牧師の教会論

第2回 教会とは

秋山 では、さっそく、先生から「教会とは何か」ということを話していただきます。

牧師 人々が「教会とは何か」ということで考えていることは、聖書が「教会とは何か」ということで教えていることとは、ずいぶん違います。みなさんは、クリスチャンになる前、「教会」と聞いて何を連想しますか。

保坂 私は、まず、教会堂を思い浮かべます。オルガンの勉強のためヨーロッパに行き、荘厳な教会の建物をいくつも見ましたので、その印象が強く残っています。

加納 私は、「教会」というと「宗教団体」ということばが思いうかびます。聖職者がいて、信徒がいて、儀式や規則のある組織というのが、私にとっての「教会」です。それは、クリスチャンになる前も、クリスチャンになってからもあまり変わりません。

秋山 私も、クリスチャンになる前は、教会を「宗教団体」と考えていました。けれども「組織」というよりは、クリスチャンが集まって様々な活動をするアクティビティ・センターやコミュニティ・センターというところと考えていました。

牧師 多くの人が「教会」というと、建物のこと、組織のこと、あるいは活動のことと考えています。もちろん、それらも教会の要素のひとつなのでしょうが、教会の本質というわけではありません。初代教会は教会堂を持っていませんでした。人々は神殿で、家々で、あるいは一般の講堂などに集まっています。初代教会に組織がなかったわけではありませんが、それは、今日の宗教法人の規則のようなものではありませんでした。また、迫害の時代には、教会はおもてだった活動はできなかったのですが、だからといって教会が教会がなくなったわけではありませんでした。むしろ、迫害のもとにある教会のほうが、教会の本質を表している場合があります。

保坂 では、教会とは何でしょうか。

牧師 それを考えるためには、聖書全体を貫く、大きなテーマを考える必要があります。そのテーマというのは、神が私たちの神となってくださり、私たちが神の民となるということです。

加納 神さまは私たちの神さまで、私たちはみんな神さまのものではないのですか。

牧師 神がはじめに人間を創造された時はそうでした。人間は神のかたちに造られ、神と人とは互いに会話ができるほどでした。ところが、そこに罪が入り、神と人との関係が損なわれてしまいました。罪の結果、死がこの世界に入り、人は神のかたちを損ないました。

秋山 それで、私たちは、自分の中にも、この世界にもさまざまな罪や問題を見るのですね。

牧師 そうです。神との関係が壊されていく時、それは人と人との関係を壊し、人と自然との関係も壊して行きます。

保坂 アダムは、最初エバを見て「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」と言って喜んだのに、罪を犯したあとは、その責任をエバになすりつけて「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記2:23、3:12)と言っています。自分の妻に対して「あの女」とはひどいですね。神さまとの関係が壊れる時、夫婦の関係も壊れていくのですね。

秋山 自然が壊され、環境問題が起こっているのも、人間の罪から出ているのでしょうか。

牧師 聖書は、私たちの罪によって「あなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。」(申命記28:23〜24)と言っています。新約聖書も「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8:22)と言っています。私は、今ほど、被造物のうめきがはっきりと聞こえる時代はないと思っています。

秋山 神はこのうめきの声に耳を傾け、救い主キリストを遣わしてくださったのですね。

牧師 その通りです。しかし、キリストがおいでになるまでには準備が必要でした。神はまず、イスラエルをご自分の民として選ばれたのです。イスラエルが神に選ばれたのは、イスラエルがひとつの民族となる以前、イスラエルの父祖アブラハムの時でしたが、神がイスラエルを実際にご自分の民とされたのは出エジプトの時でした。神は、エジプトで奴隷にされ苦しんでいたイスラエルの「うめき」を聞かれ(出エジプト2:23〜25)、イスラエルをエジプトから救い出して、彼らを神とされたのです。

秋山 神さまはモーセに「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエルをエジプトから連れ出せ。」(出エジプト3:10)と言われ、イスラエルを「わたしの民」と呼ばれたわけですね。

保坂 神さまは、イスラエルの人々に「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(出エジプト6:7)とも言っておられます。イスラエルが神さまによって「わたしの民」と呼ばれているだけでなく、神さまはご自分を「あなたがたの神」と言ってくださっています。

牧師 「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」という約束は、出エジプト6:7、レビ26:12をはじめとして、エレミヤ7:23、11:4、30:22、31:33、エゼキエル36:28などに繰り返されています。イスラエルが神の民となるだけでなく、神がイスラエルの神となってくださるというのは、神と神の民との深いつながり、愛の関係を表しています。

加納 イスラエルが神の民だということは分かるのですが、それが教会とどうつながるのでしょうか。

牧師 じつは、教会は、新約時代の神の民なのです。教会は「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」と呼ばれています(ペテロ第一2:9)。

加納 この箇所には「教会」という言葉はありませんが…。

牧師 ペテロの手紙には「教会」という言葉はありませんが、ペテロ第一5:1〜5に「長老」や「群れ」という言葉が出てくることからこれが、教会にあてて書かれた手紙であることは明らかです。ペテロは、この手紙では、教会を選民、「選ばれた人々」(ペテロ第一1:1〜2)として描いているのです。

保坂 エペソ2:19には「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」とありますから、教会が神の民だというのはよく分かります。

秋山 そういえば、神さまは、コリントで伝道していたパウロに、「この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われましたよね。それは、どの箇所だったかなぁ。

保坂 使徒18:9〜10ですよ。

加納 保坂さん、よく聖書を覚えていますね。すごいですね。

保坂 いいえ、これは、みな先生の説教原稿を読んでならったのです。先生が聖書を引用なさるとき、実際の説教では、その箇所を省略されることがありますが、説教原稿には、引用箇所が書かれています。私はそれを見て、聖書を開いて確かめているんです。

加納 へぇ、説教原稿なんて、どこにあるんですか。

秋山 加納さんはまだ見たことがないんですか。教会のウェブページに毎週アップロードされていますよ。

加納 そうでしたか。インターネットでは株価などは調べますが、教会のホームページは、実は、あまり見たことがないんですよ。これからは、教会のホームページも見るようにします。

牧師 加納さん。ぜひそうしてください。さて、本題に戻りますが、コリント第二6:16〜18には旧約のさまざまな箇所が引用されており、その中に「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」とあります。そして、続く箇所には「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、…」(コリント第二7:1)とあります。つまり、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」との約束が、イスラエルだけでなく、教会にも与えられたものなのです。教会は、新約時代の神の民、ローマ2:28〜29によれば「霊によるイスラエル」、ガラテヤ6:16によれば「神のイスラエル」なのです。

秋山 教会が「新約のイスラエル」なら、イスラエルは「旧約の教会」なんでしょうか。

牧師 秋山さん。良いところに気がつきましたね。その通りです。教会が誕生したのは、ペンテコステの日ですが、その日に突然教会が現れたのではなく、旧約時代にも、教会はいわば胎児のようにして、イスラエルの歴史の中で育まれてきたのです。

加納 そしてペンテコステの日に「オギャー」と生まれたわけですね。

牧師 そうです。ペンテコステの日には風の響や、炎のような舌が現われ、弟子たちはさまざまな国の言葉で神のみわざを語り、ペテロは力強くイエス・キリストの復活を宣べ伝えました。こうしたことは、教会の「産声」にたとえることができるでしょう。

保坂 教会が「神の民」であるなら、教会は、どうあるべきなのでしょうか。

牧師 そのことは、後ほど考えましょう。今は、教会がたんなる人々の集まりではなく、神が選び、ご自分のものとされた人々の集まりであること、人間が互いに約束を作ってひとつになっている集まりではなく、神によって与えられた契約によって、また、神への信仰と従順によって神と結びあわされた人々の集まりであることを、しっかりと覚えておきましょう。

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