黙示録1章 ここに描かれているキリストの姿は、あなたがふだんキリストについていだいているイメージと似ていますか、それとも違っていますか。キリストを描写している象徴的なことばの意味を考え、聖書が教えるキリストのイメージを正しく心に描きたいものです。 もどる

黙示録2章 二章と三章は小アジアの七つの教会にあてられたメッセージです。それぞれの教会にどんな褒め言葉があり、どんな励ましがあり、どんな警告があり、また、どんな約束があるかを見ていきましょう。そうすれば、この七つのメッセージは現代の教会やクリスチャンにも意味深いものであることがわかるでしょう。 もどる

黙示録3章 古代では共に食事をすることは、和解と友情のしるしでした。イエスは、悔い改める人のところに来て、完全な和解を与え、その人の盟友となってその人を支えます。「わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(20節)とのことばはそのことを表しています。「彼もわたしとともに食事をする」という追加のことばは、和解における人間の側の積極的な役割りを示唆しています。 もどる

黙示録4章 天の御座の光景がヨハネに示されたのは、神の支配が永遠から永遠まで変わることがないことを教えるためでした。迫害の嵐が吹きすさぶ中で、クリスチャンの心にも「ほんとうに神はこの世を支配しておいでなのだろうか」という疑問が生じてきたことでしょう。ヨハネが、すべてのものの上に神の確かな支配があることを信仰の目で見ることができたように、私たちも苦難の中にも神の支配を認めていきましょう。 もどる

黙示録5章 天の礼拝は完璧なものに見えましたが、なおひとつ足らないものがありました。それは、キリストです。「ほふられた子羊」であるキリストがおいでになるまで、誰もこの巻物を開くことができませんでした。「巻き物」は神の救いの計画をあらわします。神の救いのご計画は、御子なしには、しかも御子イエスの十字架のあがないなしには進まないのです。ですから、新しく、「御座にすわる方」とともに「子羊」に「賛美、誉れ、栄光、力」があるようにとの賛美がささげられているのです。 もどる

黙示録6章 白、赤、黒、そして青ざめた馬は、それぞれ地上にわざわいをもたらすためのものです。世の終わりに地球規模のわざわいが起こるでしょう。しかし、神は、それで世界が滅びないないように制限をつけておられます。それは、神が人々の悔い改めを待っていてくださるからです。さばきの中にも神のあわれみが示されていることを忘れないでいましょう。 もどる

黙示録7章 やがて反キリストが現れて、人々の額に刻印を押しますが(13:16)、神はその前にご自分の民に神の所有の印を与えます。これはエペソ1:13ー14や4:30などに書かれている「聖霊の証印」のことです。神は、神の民を知っておられ、やがて来るわざわいから完全に守り、最終的な救いに導き入れてくださいます。 もどる

黙示録8章 第七の封印が解かれると、七つのラッパが鳴らされます。ラッパは「神の警告」を表します。それぞれのラッパによって「三分の一」のものが災いを受けます。6章では「四分の一」の災いでしたが、災いの規模と範囲が徐々に大きくなっています。災いの小さいうちに悔い改めることを神は望んでおられるのです。 もどる

黙示録9章 神は災いをもって人々に悔い改めを迫りました。しかし人々は依然として偶像礼拝、殺人、魔術、不品行、盗みを続け、悔い改めようとしませんでした(20-21節)。同じようなことは、神がエジプトを十の災いで撃たれた時にもありました。私たちはあの時のパロのように心をかたくなにしてはなりません。 もどる

黙示録10章 ヨハネは御使いから巻物をとって食べます。それが蜜のように甘かったのは、神のことばであるためですが、腹に苦かったのは、その預言の内容が世界に臨もうとしているさばきのことだったからです。ヨハネは、世の終わりについて預言するという困難な仕事のために、神のことばを「食べる」という作業が必要でした。世の終わりに対する神の啓示を理解しようとする私たちもそれを「食べ」ようとする心構えが必要かもしれません。 もどる

黙示録11章 神はかってベルシャツァルに「あなたがはかりで量られて、目方が足りないことがわかった」と言われたことがあります(ダニエル5:27)。神が人間を「量る」と言う場合の多くは裁きのためです。「聖なる都」(エルサレム)もまた「測られて」、「四十二カ月」(三年半)の間踏みにじられます。これは神の終末のご計画が最終段階に入ったことを言い表しています。 もどる

黙示録12章 「竜」がサタンをあらわすことは9節から明らかです。「男の子を産んだ女」とは、神の民をあらわします。神の民から、神の御座にひきあげられた男の子(キリスト)が産まれたからです。そして「女の子孫の残りの者」とは終わりの時代に信仰を保って生き抜く人々のことです。私たちも「イエスのあかしを保っている者たち」(17節)でありたく思います。 もどる

黙示録13章 竜は、二匹の獣を世に送ります。最初の獣は「反キリスト」で、二番目の獣は「偽預言者」です。サタンは、神の敵でありながら、常に神の真似をし、サタンの三位一体をここにつくり出しているのです。まことの神を知る者は、サタンの偽りに、まどわされてはなりません。 もどる

黙示録14章 獣の刻印を押された人々と対照的に「子羊の名と、子羊の父の名」とがしるされている人々が登場します(1節)。これは、神がご自分の民を知っておられ、「イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たち」(12節)を神が完全に守り通してくださることを意味しています。神の守りを信じるゆえに、私たちも忍耐を保ち続けようではありませんか。 もどる

黙示録15章 神の聖所は「恵みの座」「あわれみの座」であるはずです。しかし、終わりの日、サタンと反キリストに対する裁きが行われる時、「神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、…だれもその聖所に、はいることができな」くなるのです(8節)。天の恵みの座が開かれている間に、神に近づきましょう。 もどる

黙示録16章 6章や8章での災いには制限がつけられていましたが、「七つの鉢」による災いは手加減のないものでした。しかし、神は、この災いによってもなお、人々の悔い改めを待っておられました。しかし、人々は神をけがすだけで、悔い改めることはありませんでした(9、11節)。悔い改めのないことが究極の災いなのかもしれません。 もどる

黙示録17章 「大淫婦」とは、反キリストがそこから世界を支配する都市のことです。反キリストの支配は、霊的な支配であるとともに、実際の社会や国家を通しての支配です。反キリストが裁かれると共に、反キリストを生み出し、それと手を結び、世界を支配してきた都市も裁かれます。この都市は、かってはみずからが支配してきた十の国によって滅ぼされるのです。 もどる

黙示録18章 この都市がどんなに繁栄していたかは、人々の嘆きの言葉の中に見ることができます。しかし、神によらない繁栄は一瞬にして滅びるのです。この都市は「バビロン」と呼ばれていますが、かってのバビロンが、ペルシャによって一夜で滅んだことを思い起こさせます。私たちは永遠に根ざしたものを常に求めましょう。 もどる

黙示録19章 キリストの来臨が11節から示されています。ここでのキリストの姿は、1-3章に示されていたキリストの姿と同じです。「忠実また真実」「神のことば」「王の王、主の主」であるお方が、最後に勝利を取ってくださるのです。 もどる

黙示録20章 反キリストとにせ預言者は火の池に投げ込まれましたが、サタンは千年の間縛られます。千年の間、キリストとキリストに従い通した者たちが、反キリストとそれに従った王たちに代わって世界を治めます。その後、サタンが解放され、聖徒たちの陣営と愛された都を取り囲みます。しかし、彼らは滅ぼされ、サタンも火の池に投げ込まれます。そして、最後の審判があって、「死」もまた火の池に投げ込まれるのです。すべての人を滅ぼしてきた死もまた滅ぼされる時、永遠の御国が完成するのです。 もどる

黙示録21章 17-18章の「大淫婦」にかわって、ここでは「キリストの花嫁」が紹介されます。ここに象徴的なことばで描写されている神の都の姿は、たんなる地上の繁栄ではなく、神の永遠の栄光によって輝いています。私たちは将来のゴ−ルを正しく見つめることによって現在を正しく生きることができます。あなたの目は「バビロン」を求めているでしょうか。それとも「エルサレム」でしょうか。 もどる

黙示録22章 イエスの最後のことばがしるされているのは、福音書でも、使徒の働きでも、パウロの手紙でもありません。それはヨハネの黙示録です。「しかり。わたしはすぐに来る。」(20節)これがイエスの最後のことばです。私たちの祈りも「ア−メン。主イエスよ、来てください。」でありたいと思います。 もどる