ヨハネ第一1章 ここには、私たちが罪を告白するなら、それは赦されるとの約束があります。そして、その根拠は「神は真実で正しい方」だからだと言うのです。神が真実なら不義を憎み、正しい方なら罪を罰せずにはおれない、と普通は考えます。しかし、御子イエスの血があるので、神はそれによって私たちの罪を赦されるのです。神はイエスの血潮によって私たちの罪を赦すということにおいて、真実で、罪の赦しを御子の血によって買い取ったということにおいて正しいのです。 もどる

ヨハネ第一2章 神の真理のボトムラインは「イエスがキリストである」ということです。私たちは「イエスは主である」と信じ、告白して救われます(ローマ10:9、コリント第一12:3、ピリピ2:11)。この真理を持たないものは、どんなにキリスト教のようであっても似て非なる物、反キリストです(22節)。「差別」は良くないことですが「区別」は真理を守るために必要なものです。 もどる

ヨハネ第一3章 なんと多くの人間の愛は「ことばや口先だけ」ものでしょうか。そのために、人々は、聖書が神の愛を示しても、その愛が「行いと真実」に裏打ちされたものであることを認めることができないのです。神の子らは、神の愛を「行いと真実」で示すものたちでありたく思います。 もどる

ヨハネ第一4章 神の愛は、十字架にあります。聖書は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちにの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(10節)と言っています。愛はけっして、見ることもさわることもできないような抽象的な概念ではなく、神の御子が命をささげられたあの十字架に形をとって現われているのです。愛を知ろうとするもの、愛を受けようとするものは、皆、ここに来るのです。 もどる

ヨハネ第一5章 ギリシャ語で「世」、あるいは「世界」は「コスモス」と言って、「調和」という意味があります。しかし、人間の罪のために「世」はいつしか「神に敵対するシステム」となってしまいました。神につく者たちは、この「世」にあって苦しんでいます。しかし、キリストへの信仰は「世に打ち勝った勝利」です。そして「世に勝つ」というのは「この世をへこます」というよりは、神が「世を愛された」ように、この世を神のもとに導くこと、この世をキリストのために勝ち取ることでもあるのです。 もどる