ヤコブ1章 ヤコブの手紙はクリスチャンの信仰が行いにあらわされるべきことを説いています。「みことばを実行する人になりなさい。」(22節)が、この手紙のテーマと行ってよいでしょう。救いは断じて良い行いによって勝ち取ることのできるものではありませんが、救われた者からは良い行いが生み出されてこなくてはなりません。ヤコブの手紙は現代のクリスチャンが見落しがちな点に光を当てています。 もどる

ヤコブ2章 神について何かを知っていることと、信仰とは同じではありません。信仰に知識は必要ですが、知識が理解に、理解が信頼に進まなくては信仰とは言えません。「神がおひとりである」という知識なら、悪霊さえも知っており、人間が、神を知っているといいながら、神を恐れない行動をしているのにくらべ、悪霊は審判者である神にさばかれることを恐れて震え上がっています。知っていることは素晴しいことです。その知識を神への信頼に変えましょう。 もどる

ヤコブ3章 「舌」つまり、ことばは神が与えてくださった素晴しい賜物ですが、同時に、やっかいなものでもあります。ことばによって人を暖めることもできれば、ことばによって人を傷つけることもあるのです。ことばをコントロールすることは誰にもできません。ことばのみなもとである私たちの心を神によって支配していただき、上からの知恵をいただく以外にありません。 もどる

ヤコブ4章 聖書は「喜びなさい」(ピリピ3:1)と教え、また「苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。」と教えます(9節)。そして、両者とも真理です。私たちには、自分の罪に悲しみ、キリストの救いに喜こぶことの両者が必要です。私たちの喜びは、悲しみのない軽薄な喜びでなく、私たちの悲しみは喜びのない、希望のない悲しみではないことを感謝しましょう。 もどる

ヤコブ5章 信仰は行いに表われるばかりでなく、祈りに表われます。だれも信仰を持たないで祈れるわけはありませんし、すべての祈りには信仰が含まれているのですが、15節で「信仰による祈り」と言われているのは、ある特定の事柄を、主がかならず答えてくださると信じて祈る祈りを指しています。病いのいやしのためには、特にそのような信仰が必要です。私たちも「信仰による祈り」をもって主に近づきましょう。 もどる